ラッセルの丘で
白雪紫
Prologue
Side Sho
いつもとなんら変わらない、ごく当たり前の一日が始まるはずだった。
「おはようございます」
朝の打ち合わせが始まるきっかり15分前。職員室の戸を開け、同僚とあいさつを交わしながら、自分のデスクへ。今日から3日間、前期期末考査が行われる。印刷済みのテスト問題と解答用紙は、昨日の退勤前に封筒に入れて所定の場所へ保管してある。幸い、1時間目は試験監督からは外れていたから、来週の授業準備に充てられる。次のUnitのためのプリント作成と、予習と――ああ、なかなか忙しいのは、いつものことだ。
綺麗に片づけたはずのデスクに、ピンク色の封筒が置いてあった。
北海道○○市××町14番20号
△△高等学校
丸みを帯びてやや幼くはあるが、几帳面で大き目の見覚えのある文字。
ボルドーのインクで書かれたそれが目に入った瞬間、誇張でもなんでもなくびくっと心臓が跳ね上がった。息の仕方さえ一瞬忘れてしまうほどに動揺している自分を居心地悪く思いながら、オレはそれを手に取った。
封筒の裏面には、思った通りの名前が記されていた。
北海道〇〇市××町26番2号
西村 優依(旧姓、市川)
(△△大学 非常勤講師)
「本山先生」
隣の席の同僚に話しかけられて、慌てて封筒を机上に置いた。
「写真部の高文連全道大会のことなんですが……」
「ああ。来月のですね。ただ、顧問の北島先生の方が詳しいと思いますが」
さり気なくデスクマットの下に封筒を入れながら、オレは答える。
副顧問だから、ほぼ部活には顔を出さない。名前だけの気楽な立場であることに日々こっそり感謝している。
「それがですね、北島先生、入院されまして」
「え」
「2カ月ほどかかるらしくて。だから、引率は本山先生にお願いしますね、とのことで」
まさに根耳に水だ。そして、大会の開催地は奇しくも道南。
いま目にしたばかりの手紙の差出人の所在地でもある、北海道屈指の人気観光都市だ。
「……そうだったんですね。わかりました」
すみません、急に、という台詞とチャイムの音がかぶる。ガタガタッと一斉に職員全員が起立した。
「おはようございます、9月2日、朝の打ち合わせを始めます」
校長の号令とともに、いつものように職員会議が始まった。
全体の打ち合わせのあと、年次ごとに連絡事項の確認があり、その後、学級担任は慌ただしくSHRへと向かう。今日は考査がある関係で、朝読書はない。
両隣の同僚がそれぞれ席を外したのを確認して、デスクマットの下から再びピンク色の封筒を取り出した。ペン立てからハサミをとって、丁寧に封を切る。
ピンク色の便せんが2枚。宛名と同じくボルドーのインクでしたためられていた。
本山 憧さま
憧くん、こんにちは、お久しぶりです。私のこと、覚えていますか?
懐かしい学生時代、留学先のロンドンではお世話になりました。西村優依(旧姓:市川)です。
本当に久しぶりだ。実にほぼ10年ぶりの手紙。
けれど、忘れるわけがない。どれだけ時が経とうとも、彼女のことだけは、絶対に。
どうやら、教師をしている友人の転任校を調べている際、ネットの公立高校人事異動一覧の中に、オレの名前を見つけたらしい。偶然の産物だ。
とはいえ、それでわざわざ学校にこうして手紙を送ってくれるとは。驚いたのはもちろんだが、同時にひどく嬉しくてどうにかなりそうな気分だ。
『懐かしい学生時代、留学先のロンドンではお世話になりました』
たった一文で、様々な記憶が一瞬にして色づいていくのがわかった。
ラッセルヒルの街並み、優依のフラット(イギリスのアパート)、優依の部屋から見えたチャイニーズのテイクアウェイの店、レンガ造りの小さな図書館、行きつけのイタリアンレストランやパブ、そして――夜のアレクサンドラパーク。
予鈴を聞きながら、ゆっくりと残りの手紙を読んだ。そして、最後に付け加えられた追伸部分を目にして、ぎゅっと胸を掴まれる思いがした。
P.S.
憧くんがくれた絵(私を描いてくれたものです)は、今も大事にしています。
昔は絵を描くのが大好きで、鉛筆でいろんなものを描いていた。風景や静物だけでなく、人の顔も。
人物画は、よほど気に入った相手でないと描かなかった。当然、モデルは親しくしていた女性ばかりで、ただの友達の場合もあれば、ちゃんとした恋人の場合もあった。描きあがると、相手に見せたあとはファイルに収めておいた。ちょうだい、と言われても、なんのかんのと理由をつけて断っていた。
あのフラットで白いワンピース姿の優依を描いた一枚だけは、どうしても彼女に持っていてほしくて、押し付けてしまった。
そして、あれが人物画の最後だ。あのあと付き合った相手や、結婚した妻でさえも、描かなかった。
もう一度初めから手紙を読み直して、封筒へ戻した。折れたりしないようにクリアファイルに挟んで鞄にしまい、デスクの上のテキストを開く。
Part 2 Unit 1 What makes you happy
あなたを幸せにするもの、か。
せっかく授業の準備に充てられる空き時間だというのに、とてもじゃないが仕事などする気になれない。
諦めてテキストを閉じ、記憶に
さっき、瞬時に色付き、オレをぐらぐらと揺り動かしてひどく困惑させる、あのロンドンで過ごした日々の記憶に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます