第四章 疫病と人の絆 ⑥



 慶州の黒松院家の一室で、嵐鋼は客人を招いていた。

 その客人は、静かに正座をしている。

 灯りがわずかに揺れている。影が壁に映る。二人の老人の大きな影だ。

 背筋を伸ばして座っている。数十年の歳月が刻んだ刃のような鋭さと、古木のような風格を漂わせている。

 空気が冷たい。

 岩肌を削って作られた邸内は、いつも以上にひんやりとしていた。

 静寂。

 外の音がここには届かない。その静けさが、二人の言葉の重みをさらに増幅させていた。


 嵐鋼が対面する相手は、白桜蔭文學であった。


「此度の一件、誠に忝い」

 嵐鋼の声は低く簡潔だった。余計な修飾を嫌う質実剛健な男の挨拶には、長年の軍人生活が染み付いていた。

「わしの孫が隣家に粗相をかけたとあれば、顔を見せずにいられるかな」

 文學の口元がわずかに歪んだ。

 皮肉めいた笑みだ。目が細められている。狼のように、いや、獲物を見定める老獪な猟師のように。

「粗相どころか。うちが放った小鳥が、慶州の流行り病を囁いていたのでな」

 小鳥とはスパイの暗喩であるが、嵐鋼はそれを咎めはしなかった。白家だけでなく、当然、赤家も、慶州に入り込んでいる。黄家だって、青家もそうかもしれない。

 見つけられない方の落ち度なのだから。

 嵐鋼が鉄の急須を手に取る。重い。ずっしりとした重みが掌に伝わる。

 傾ける。黒い液体が茶碗に注がれていく。トクトクと音を立てて。

 湯気が立ち上る。薬草の独特な匂いが室内を満たす。茶碗を静かに文學の前に差し出した。

「それでご令嬢を送ってくれたのか。恩に着る」

「いやいや、あれの資質を試しただけのことよ。老いぼれの道楽と思ってくれ」

 文學の言葉は謙遜めいていた。だが、その目は細められたまま嵐鋼を見据えている。

「試す必要など何があろうか? 清香殿は噂に違わぬ麒麟児。我が家の青二才どもが恐れおののいておった」

「いや、申し訳ないが、あれは清香ではなく、ぼんくらの兄のほうじゃ」

 嵐鋼の眉がわずかに上がった。

「あれで、ぼんくらだと?」

 その声に僅かな驚きが滲む。

「あの慧眼と機転は、とても凡庸な者の技とは思えなんだが」

「正確には、ぼんくらじゃったというべきか」

 文學はゆっくりと薬茶を啜った。茶碗を口から離す動作がわずかに遅い。その言葉には微かな苦みが滲んでいた。

「あれは、落馬の一件以来、別人のように覚醒した。鈍刀が研ぎ澄まされたというより、最初から鋭かった刀の鞘が外れたようなものだ」

「ほぉ」

「わしはあれはモノノ怪か、化け物の類と思ったが、近くで見てどう思った?」

 文學の問いには真剣な好奇心が込められていた。

 嵐鋼は文學を見たまま、ふっと笑う。

「人間だったよ。いや、一生懸命に人間になろうとして足掻いている人であった」

 その言葉には軍人らしい確かな観察眼が感じられた。

「そうか。難儀じゃな」

 文學は年季の入った溜息をついた。

「ああ、とても難儀だ。花葬朽姫との契約で我らと若い世代には断層がある。三十五年は人間として成熟するにはあまりに短すぎる」

「そうだな」

 二人の視線が交錯し、長年の敵対関係を超えた理解が芽生えた瞬間だった。

「改めて謝罪申し上げる。愚家の者が御令息の安寧を脅かしたことを」

 嵐鋼は改まって頭をさげた。

「夜這いの件か?」

 文學は言葉に刺を忍ばせながらも、微かな笑みを浮かべた。

「否。暗殺の仮面を被った策謀の手だ。我が孫は愚直にして奇策を弄した」

「⋯⋯」

「あの夜のことを、話そう」

 嵐鋼がゆっくりと語り始めた。

「黒尽くめの刺客たち。清香殿の部屋に侵入した、三人の男」

 文學がじっと聞いている。

「それは、征十郎が独断で放った者たちだ」

「ほう」

 驚いた声をあげるものの、文學の顔は予想通りという表情があった。

「赤家の者と見せかけて、実は黒家の分家の者たちだった」

「なるほど。そういうことか」

 それを聞いて、文學は柄杓で釜から水を汲み、加州から持ってきた緑茶を静かに茶碗に注ぎながら嘆息した。

「わしとおぬしを、繋げようと、赤家に扮した。そういうことか」

 文學が薬茶を一口含む。

「本来ならうちの者を脅すだけで、逃げるはずの者たちを、あの筋肉兄貴が捕縛してしまったというわけか」

 嵐鋼が小さく頷く。

「筋肉弟は、自分で取り調べざるを得なくなり、されど配下を明かすわけにもいかず」

 文學の口元がにやりと歪む。

「逃がした、というわけじゃな」

 その鋭い分析は、数十年の政治経験を持つ者のみが可能な洞察だった。

「ああ、本人は切腹をして墓まで秘密を持っていこうとしたんだろうが、な」

「短命、ゆえの極端な方法だな」

「うむ。ワシには思いつかぬ方法だ」

 嵐鋼の言葉に、文學も頷いた。

「青竹は、折れずとも曲がるものよ。そして、天に向かって育つ」

 文學が天井を仰ぎ見てから、目を閉じる。

「貴家にも、善き若木が根を張っておるな」

 文學の評価は表向きは称賛だが、その気配は相手の真意を見抜こうとしていた。

「若木とは言えぬ。筋肉の皮にのみ視線を向けた空洞の竹にすぎぬ」

 嵐鋼はあえて自らの血族を卑下した。

「一族に対しては手厳しいな」

 互いの目がじっと相手の顔を見つめている。反応を窺っているかのように。

「……」

「……」

「我らはどうも、己が庭の木には厳しく、隣家の庭木を褒めたがるものらしい。枝葉末節を切り捨てたがる」

「違いない。だが、嵐鋼よ、隣家の木を褒める時こそ、その者の本音が見えることもある」

 二人の老獪な指導者は、互いの腹を探るような、それでいて長年のライバルだけが共有できる理解を含んだ笑みを交わした。

 文學が壁を見た。そこには掛け軸が飾られている。

「心技体」。黒松院家の家訓だ。

「うちのは」

 文學が小さく笑う。

「身体も未熟なら、技もない。だが、心はある」

 嵐鋼が自嘲するように笑う。

「うちのは、二人とも体だけだ」

「くくく」

 文學が低く笑った。

「結局、さっきからワシらは自分の枝葉の自慢ばかりだな」

「そうだな」

 嵐鋼も笑う。二人の笑い声が静かに部屋に響いた。

「しかし、心技体とは」

 文學が掛け軸を見上げる。

「黒松院家は、難しい家訓を選んだもんだな」

「白桜蔭家の、門戸は閉じるな、のほうが度量がいる」

「あれは、志だ」

 文學の声が真剣になる。

「我らの、心技体も、志だ」

 嵐鋼も同じように真剣な声で返した。


「白桜蔭が現在」

「黒松院が未来」


 互いの家の家訓を言い合い、二人は口を揃えた。


『過去は水に流そう』


 嵐鋼が茶碗に口をつけて、じっくりと味わう。

「薬茶とは違う、味わいがあるな」

「口にあってよかった」

 文學が茶碗を置いた。

「して、その緑茶には毒が入っている」

 空気が止まった。嵐鋼の手が茶碗の上で静止する。だが、その顔は変わらない。

「そうか」

 ゆっくり飲み干し、茶碗を畳に置いた。

「奇遇だな。お主が飲んだ薬茶にも毒を仕込んでいたんだ」

 沈黙。

 灯りの炎が揺れている。二人の影が絡み合いながら、壁に大きく踊っている。

 二人の老人が互いを見つめ合う。

 そして。

 文學の口元がにやりと歪んだ。嵐鋼も笑う。低く、腹の底から響くような笑い声だった。

「ハハハハ」

「フフフ」

 二人の老人の笑い声が岩肌の部屋に反響する。

 二人の老政治家の間に言葉なき了解が生まれていた。


 外では疫病が収束し、新たな時代の息吹が感じられる中、古い時代を生きてきた二人の老人は、時の流れを静かに見つめていた。

「しかし、赤家にはこのまま暗躍してもらわんと、我らの庭もまとまらん」

 文學の声が低くなる。その口調には何の感情も混じっていなかった。

「共通の敵を作り、内を引き締めるか。乱世の常套手段よな」

 嵐鋼が静かに頷く。

 そして茶碗を畳に置いた。

 小さな音が洞窟内に反響する。その音が水に流されるように小さくなる。まるで鐘の余韻のように、長く、長く。

「……」

「……」

 二人の間には、もはや言葉以上の盟約が結ばれつつあった。

 嵐鋼の視線が文學の腰に差した刀に移った。

「それは末広の作では?」

「ほう、目敏いのぉ。今やただの老人の杖じゃよ」

「私の目はまだ衰えておらぬわ。雨琉木末広の『蒼天一抹』の双子刀、『夢幻泡影』ではないか」

 文學は静かに頷いた。

「孫の曉人に『蒼天一抹』を託したが、まだ鞘すら抜けぬようじゃ」

「真の妖刀は持ち主を選ぶ。それだけの話だ」

「鞘から抜くことがない刀こそ、平和の証なんじゃがな」

 文學の言葉には皮肉めいた自嘲が混ざり合っていた。口元に浮かぶ薄笑いとは裏腹に、何か深い思いが宿っているようだった。

「孫殿は若い。我らが見届けられぬとしても、いずれ抜く日が来るだろう」

「それが良いことと手放しで喜べんのが口惜しいな」

 文學は静かに茶を飲み干すと、話題を切り替えるように言った。

 嵐鋼も加州の緑茶を飲み干して、口を開く。

「して、赤家の目的は?」

 嵐鋼は海舟が提案してきた慶州の民を救う方法を思い返した。それは長期的に見れば黒家の瓦解を意味し、その先にあるのは白家への布石でもあった。

「おぬしからの最初の手紙に書いてあったとおり、両家の滅亡を狙ってのことだろう」

「お互い、まだまだ隠居はできそうにないな」

「毒を喰らわばというやつだ」

 二人は再び顔を合わせ、互いの覚悟を確認する。

 深く皺の刻まれた顔に凄みのある笑みを浮かべており、もしその不穏な笑顔を見た者がいたら、さぞ心胆を寒からしめたであろう。


 文學が、嵐鋼を見る。


 嵐鋼が、文學を見る。


 二人が同時に茶碗に新たな茶を注いだ。

 嵐鋼は薬茶を、文學は緑茶を。

 そして、目を見合わせ傾けた。

 一口。二口。それぞれの茶を飲み干す。

 そして。

 コツ、コツ。

 二つの茶碗が、ほぼ同時に畳に置かれた。

 その音が静寂の中に響く。まるで古の盟約を結ぶ福音と弔鐘が重なり合うように。

 灯りが大きく揺れる。


 二人の老人の影が壁で重なり合い、心技体の掛け軸に一つの巨人を作る。


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