第四章 疫病と人の絆 ⑤
結論から言えば、征十郎の手術は成功した。
麻酔技術が乏しいこの時代に、日出吉は麻薬にもなり得る星花を使って、征十郎の痛みを緩和させ開腹手術を行った。
後で、看護婦長が教えてくれた。
「若先生は、別人のようでした」
彼女の目には明らかな驚きが浮かんでいた。
黒家の他の看護婦たちも口を揃えた。
「メスを握る手に迷いがなかったんです。切開から寄生虫の嚢胞摘出まで、まるで熟練の医師のようでした」
これで、黒家のなかで、白家の友好の話は広がるだろう。
最後に俺に向かって尋ねる。
「どんな魔法を使ったんですか? この小さい魔女さんは?」
「私は、なにも」
俺はしどろもどろになった。
魔法なんかじゃない。ただ、日出吉先生の中にあったものを引き出しただけだ。
手術を終えて傷口を縫合すると同時に、日出吉は糸が切れたように床に崩れ落ちた。
全身の力が抜け、無心で手術に集中していた反動なのか、彼は深い眠りに落ちてしまった。看護婦たちが彼を別室に運び、休ませている間も、征十郎の様子を看護婦たちが日夜問わず交代で付き添った。
そして一晩経つと、知らせを聞いた炭十郎が血相を変えて戻ってきた。
疫病の注意喚起と衛生観念を伝えに向かっていた千鶴も戻って来る。
「征十郎ぉぉぉぉぉ!」
疫病対策の視察を切り上げての帰還だったが、彼の顔は怒りと心配で歪んでいた。
征十郎は兄の怒声に驚いたようだが、覚悟を決めたように包帯を解き、創部を見せた。縫合された傷跡は赤く腫れ、以前の美しく整った腹筋の山と谷に不規則な線を描いていた。
「おお、弟者のあの美しき『八聖山脈』の一つ忍にこのような歪な凹凸が!」
炭十郎は眉をひそめ、弟の腹部を食い入るように見つめた。その視線には筋肉美への情熱と深い憂慮が入り混じっていた。
他人には理解しがたい、独特の表現方法だ。
だが、俺には少しずつわかるようになってきていた。筋肉への讃美こそが、彼らにとっての最高の愛情表現なのだ。
征十郎を思う兄の心配は、「筋肉」という共通言語を通して伝えられる。
この二人の絆は特別なんだ。
千鶴も俺の隣にきて、そっと二人のやり取りを見ている。
「兄者をよく見ろ。この美しき切り傷を筋肉に新しい可能性を生んでいると思えぬか?」「なに?」
征十郎は痛みをこらえながらも身体を起こした。その表情には生への感謝と、新しい可能性への期待が混ざり合っていた。
炭十郎はしばらく黙って弟の腹部を凝視し、やがて表情が変わった。
「確かに言われてみると、慶州の雄大な岩肌のようだ」
彼の目が輝き始め、筋肉への讃美が再び湧き上がってきた。
「そこで、新たな名をつけようと思うのだが」
「何と言う発想。まさに名案とはこのこと!」
炭十郎は手を打ち、征十郎の閃きに興奮を隠せない様子だった。
こうして二人は病床で、傷跡の名前についてああでもないこうでもないと熱心に語り合い始めた。
「いつも通りですね」
「ああ」
千鶴に俺は頷いた。
彼らにはこういう光景が似合う。
「忍を改め『生命の断層』はどうだ?」
「いや、『不死鳥の痕跡』のほうが力強さを感じる」
「星花になぞらえて『星の刻印』というのはどうだろう?」
議論は白熱するものの、決まる気配はなかった。
炭十郎は突然はっとしたように顔を上げた。
「そうだ、清香さまに決めていただこう! 姫君の美しき感性で名付けていただければ、この傷跡もいっそうの価値を持つことだろう」
突然の指名に俺は少し困惑した。しかし、兄弟の真剣な眼差しを前に、断るわけにもいかない。
傷跡を見つめながら俺は思案した。
筋肉崇拝の彼らを満足させる名前。そして傷跡の持つ意味、生命の危機から脱した証。この傷は単なる切り傷ではなく、未来を変えるための一歩だったのだ。
「では、『忍・星花渓谷』はいかがでしょう」
俺は静かに言った。
「お、おおおおおおおおッ!」
兄の炭十郎のほうが感極まったように吠えた。彼の目は感動で潤み、筋肉が波打つように震えている。
反対に征十郎は噛みしめるように尋ねる。
「どういう意味でしょうか?」
「この傷跡は、星花の力を借りて死の淵から生還した証です。かつての『忍』という山が生まれ変わり、星のような光を宿した花が咲く渓谷となったという証です。命を救った星花と、蘇った筋肉の力強さを讃える意味も含めてどうでしょうか?」
征十郎が傷口をやさしく撫でながら、新しい名前を口にする。
「この傷は、もはや筋肉の一部ではない。これは《命の裂け目》だ。死が覗き込み、生が縫い合わせた。その境界が、この忍・星花渓谷に刻まれている」
炭十郎が征十郎の肩を叩く。
「ならば、その裂け目こそが、お前を今まで以上に強くする。傷は弱さの証ではない。生き延びた者だけが持てる筋肉の勲章だ」
二人は肩の筋肉をこすりあわせ、決意が込められていた。
「うぐうう」
振動に傷口が疼いたようだ。
「大丈夫か、弟者よ!」
「手術翌日で暴れたら駄目ですよ」
俺たちは顔を見合わせて笑う。
征十郎だけは笑うと、腹が痛そうだ。
ひとしきり、笑うと、征十郎が俺に向き直った。
「この度は、ありがとうございました」
そして、征十郎の目は俺をまっすぐに見つめてきた。
「清香姫、この名に恥じぬように、この身体を鍛え上げてみせます。そして」
彼は一瞬言葉を切り、何かを決意したように深く息を吸った。
「そして、清香姫のために、この命ある限り仕えることを誓います」
征十郎の言葉には普段の軽快さはなく、重みのある誓いの響きがあった。
俺は彼の誓いに複雑な思いを抱きながらも、静かに頷いた。
筋肉に名前をつけるという些細な出来事が、こうして命の絆へと変わっていく。この世界の不思議さを、俺は改めて感じていた。
そして、日出吉の報告書を読んだ文學は、慶州に大勢の医師と看護婦とともに乗り込んできた。
白家の総力を挙げた医療支援により、疫病は徐々に収束に向かっていった。
二ヶ月ほど、不眠不休で皆が働いた。
俺が慶州に来て、三ヶ月目に入る頃にはようやく収束の目処が見え、加州に戻ってくるようにと、文學から手紙が送られてきた。
女体化の期限の百日は、とうにすぎてしまった。
文學が俺の任務をどのように評価するだろうか。
「まぁ、大丈夫だろう」
黒家と友好の使者としては、及第点以上を取れた自信がある。
寄生虫の生態が解明され、薬茶による予防と治療が確立されたことで、慶州の山の民は徐々に日常を取り戻しつつあった。
加州に帰る日、俺たちは黒松院の屋敷から港へ向かった。
その最中に、山道で少女に出会った。誰だか、最初はわからなかった。
少女は俺に近づいてくる。両手に花を持っている。
それを俺に差し出してくる。
「ありがとう」
「俺に?」
少女は頷く。
花を受け取った。手作りの花束だ。決して花屋が作った美しさはないが、なぜか、俺にはこの花束には気高さが宿っているように感じた。
「お兄ちゃんを救ってくれて」
その発言で思い出した。慶州に着いた初日、山道で出会った兄妹。
「今日、お兄ちゃんは?」
「病院」
少女がにっこりと笑う。その笑顔は血色がよかった。
「お兄ちゃんを助けてくれてありがとう。白き希望の人」
そして今、任務を終えた俺と千鶴は光龍に揺られている。
加州への帰路だ。
甲板に並んで立つ。海風が頬を撫でる。潮の香りが鼻腔を満たした。波が船体を叩く音が、規則正しく響いている。
慶州に来たときは初夏だった。だが今は、風が冷たい。秋の匂いがする。
「とんだ事件に巻き込んでしまって千鶴殿には申し訳なく思います」
俺は率直に謝罪した。
本来なら見合いで会っただけの間柄なのに、命がけの冒険に巻き込んでしまったのだから、帰ったらそれ相応のお礼をしなくてはなるまい。
「いえいえ、私はとっては、文學さまが仰ったように、とても楽しい新婚旅行になりました」
「え?」
「この数ヶ月の間、曉人さまの人となりをしっかり見させていただきました」
千鶴の琥珀色の瞳が俺を見ている。
その目に迷いはない。真っ直ぐに俺を見つめている。
頬がわずかに桜色に染まっていた。
俺は彼女の言葉の意味を理解するまでに少し時間がかかった。風が彼女の黒髪を揺らし、髪の間から覗く耳まで赤くなっているのが見えた。
「白蝋梅家はけっして格の高い家ではありません。ですが」
彼女は一度深く息を吸い、決意を固めるように続けた。
「妾でも構いませんので」
千鶴の声が海原に揺れた。わずかに、だが確かに震えている。
「曉人さまのお傍に、置きくださいませ」
最後の一言ははっきりと、強く。
朝日が彼女の横顔を照らしている。その横顔には、もはや子どもとは呼べない気品と美しさがあった。
「え、えええ、ちょっと待ってください」
声が裏返った。
「私はまだ十歳ですよ」
心臓が跳ねる。瞼を何度も瞬かせる。
千鶴が微笑んでいる。
そう、今の俺は十歳の少女の姿なのだ。
「実は今日、十三歳になりました」
「ええ。すみません、何も用意してなくて」
「知らなかったのですから当然です。それより、年上はお嫌いですか?」
千鶴はそう言って、少し俯き加減で俺を見上げた。
その仕草があまりにも大人びていて、思わず言葉に詰まる。
「いえ、そういうわけではなく」
言いよどみながら、俺は視線をあちこちに泳がせた。
甲板の木目、遠くに見える島影、空を舞うカモメ。遠のく慶州の壮大な山。どこに目を向けても、目の前の少女の真摯な告白から逃れることはできない。
「ええと、あの、その」
手のひらに汗をかき、何を言えばいいのかわからなくなる。
前世では大人だった俺だが、こんな状況は経験したことがなかった。
しかも少女の体で、少女からの告白を受けるという現実が、さらに混乱を招いていた。
「それに私、本当は男なんです。ただの十歳の少年で。いや、今は女の姿ですけど、本来は」
支離滅裂になる言葉。一体どう説明すればいいのか。目の前の純粋な告白を前に、俺は完全に取り乱してしまった。
「曉人さまが男の人だって存じておりますわ」
「あ、そうですよね。男の姿で会ってますもんね」
「うふふ」
千鶴が突然笑い出す。その笑みには少女らしい無邪気さと、大人の女性の余裕が混ざり合っていた。
「ど、どうされましたか?」
俺は戸惑いながら尋ねた。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「いえ、あれほど聡明な曉人さまが、こんなに狼狽されるなんて想像しませんでした。この弱点、私が克服させてあげますわ」
そう言うと、千鶴がゆっくりと顔を近づけてきた。
彼女の瞳が大きく見える。琥珀色が美しい。
睫毛が長い。睫毛は可愛くカールしている。ゆっくりと目を閉じる。
彼女の息が頬にかかる。生温かい。甘い香りがした。
距離が縮まる。
ドドドドドッ!
エンジン音。いや、違う。心臓の音が耳の奥で轟いている。
自分のものか、彼女のものか、判別できない。
「え、ええ、え?」
頭が真っ白になった。
駄目だ、これは犯罪だ!
少女の体に宿る大人の意識が悲鳴を上げる。社会的地位を失う!
だが。
千鶴の顔が近い。この数ヶ月で芽生えた、彼女への好意を否定できない。
でも、ここはゲームの世界だから。いや、違う、違う! そうだけど、でも。
少女の魅惑的な唇が迫ってくる。
あと少しというところで、甲板の向こうから声が響いた。
「清香さま! 見てください。この筋肉を」
征十郎が上着を脱ぎ捨てた。バサッ、と大きな音を立てて服が甲板に落ちる。
鍛え上げられた肉体が、惜しげもなく晒される。黒い肌が陽の光を浴びて輝いた。
まるで黒曜石のように、光を反射している。周囲の船員たちの視線が一斉に集まった。
特に腹部の忍・星花渓谷と名付けられた傷跡は、今や完全に癒え、周囲の筋肉よりもわずかに白く、美しい川の流れのような曲線を描いていた。その周りの筋肉は以前よりも盛り上がり、まるで傷跡を守るように発達していた。
「あわわ」
慌てて離れる俺と千鶴。二人の間に流れていた親密な空気が一瞬で掻き消される。
「もう、征十郎さまはタイミングが悪いですわ」
千鶴は小さく愚痴るのが聞こえた。
「清香姫のおかげで、この命と筋肉があります。今後は加州にも筋肉の美を伝導するために、お供します」
なんと征十郎は俺たちとの同行を希望し、嵐鋼もそれを認めたのだ。
白家と黒家の友好関係を深めるために、征十郎を親善大使として加州に派遣するという名目だった。
俺にはまだ懸念があった。
現在は女の姿だが、すでに早苗の術の期限を越えていた。
男の姿に戻った時、征十郎はどう反応するだろうか。特に気になるのは、彼の筋肉への熱狂が曉人に戻った俺にも向けられるのではないかという恐怖だった。
「せ、征十郎どの。お聞きしたいのですが、私には筋肉増強を勧められませんでしたが、もし白家になまっちょろい男児がいた場合は」
俺が言い終わる前に征十郎は断言した。
「男児には我と同じように鍛錬を積ん頂き、筋肉の産声をともに堪能してもらいます。いやー、楽しみですな。知恵者が集まる加州の若者が、筋肉の鎧まで身につければ、まさに完璧超人とはこのこと」
彼の声は興奮で上ずっていた。その姿を見て、俺は冷や汗を感じた。
「え、でも、本人の意向もあると思いますし」
弱々しく反論を試みたが、征十郎の筋肉への情熱は止められそうにない。
「お任せください。この清香姫にいただいた命。死ぬまで清香姫と筋肉の布教のために使いますぞ」
征十郎の誓いは真摯だった。
先ほど波止場では兄弟の間で、筋肉の暑苦しい抱擁が交わされたばかりだ。炭十郎は弟の肩を抱き、征十郎は兄の背中を叩き、二人で涙と汗を流しながら別れを惜しんでいた。
あまりにも壮絶な筋肉の饗宴に、俺は少し食傷気味だった。
「征十郎殿は、お兄さまと離れられるのは初めてだと仰っておられましたが、寂しくなりませんか?」
俺はやんわりと慶州への帰還を勧めた。だが、無駄であった。
「兄者はああ見えて気立てがいい男ですぞ」
「それは。知ってますよ?」
何の話に切り替わったと俺は混乱した。
「おお、それなら」
征十郎が言葉を詰まらせた。
「黒家と白家の結びつきのためには、なんていうべきか」
視線が泳いでいる。
「?」
「その、筋肉の繋がりを、強化すべきだと」
珍しい。征十郎が言いよどんでいる?
「筋肉、ですか?」
俺は着物から白い華奢な腕を見せて、力こぶを作る真似をした。当然、力こぶなどできない。
「いえ」
征十郎の顔が赤くなった。
「筋肉は、暗喩で。兄者と清香さまの二人が、こう、結合して」
征十郎の声は意外なほど小さく、頬は赤く染まっていた。
「な、な、な、な、なぁ!!」
彼は兄の炭十郎を俺の婿に推挙しているのだとわかった。そのことに気づいた俺は真っ赤になった。
婉曲的な表現なくせに卑猥すぎるだろう。
こいつ十歳の俺に何言ってるんだ!
「な、な、な、何を言ってるんです! 年が違いすぎます」
「ん? 我らは十七歳ですぞ。そろそろいい人を見つけて世帯を持つことも、そろそろ考えなくてはいけませぬ」
「えええ、嘘だろう!」
俺は彼らの若さが予想のよりも十以上若くて目を丸くした。十七歳といえばもっとも性欲旺盛な猿だ。それが十歳の少女に求婚とか、やっぱり狂ってる狂いすぎてる。おかしすぎる!
言葉が出ず、俺は引き攣った笑みを浮かべるだけで精一杯だった。
「は、春の花びらが舞うように、時が教えてくれるでしょう」
見合いのときに教えてもらったセリフを口にした。
そして次の瞬間、逃げるように光龍の死角へ駆けていった。
背後から征十郎の「春までに答えが出ると兄者に伝えます」という嬉しそうな声が聞こえたが、振り返る勇気はなかった。
甲板に立ち、徐々に離れていく慶州を眺めながら、俺はため息をついた。千鶴の告白に加え、筋肉兄貴の求婚まで。慶州での任務は想定外の展開の連続だった。
そして。
神くずに新たな発見があった。
征十郎に未識眼を向けた。だが、何も見えない。灰色の世界が広がるはずなのに、普通の視界のままだ。
千鶴も同じだった。慶州の山の民で試しても、同じ。
つまり、一度見た人物の未来は、二度と見えないようなのだ。
胸の奥がざわつく。
征十郎の未来は変えたはずだ。でも、それが本当に変わったのか、確認できない。
俺を嘲笑うかのように、右目は疼くのみだった。
くそッ、この目は使い物にならない。
俺は決意を固めていた。いや、固めざるを得ないのだ。
俺は、今回の慶州でただ流されていただけだった。
文學のチェスの駒として。赤家の陰謀に翻弄されて。
ゲームの知識も、現代の知識も、結局は何も活かせなかった。
潮風が俺の肺を満たす。
だが、日出吉先生が変わったように。
俺も変わらなければ。
知識を持つ者には、それを使う義務がある。
それにゲーム開始は十年後だが、そこには白家と黒家は、良家の分家さえも存在しない。
つまり……差し迫った危機が近々あるんだ。慶州の疫病も人為的な策謀だろう。俺の見た未来は防がれただろうが、うちの白家にも同じような計略を施している可能性があるはずだ。しかし、あの爺さんが見抜けないだろうか?
俺は眼帯を押さえた。
どうして、この能力が俺に与えられたのだろうかと恨めしかった。
未来を見ることは、逃れられない呪いだ。
未来を見る力は、未来を変える責任を俺に課した。
眼帯の下で右目が嘲笑っているかのように感じた。
その瞬間。
脳裏に何かが掠めた。
巨大な。歪んだ。触手のような。咲き誇った、毒々しい花のような。
「くッ!」
視界が揺れる。吐き気が込み上げた。胃の中のものが喉まで上がってくる。
全身から冷たい汗が噴き出す。手すりを掴む手が震えた。
何だ、これは。
記憶の中に、確かに「いる」。だが、思い出そうとすると霧に包まれる。
まるで、何かが意図的に、俺の記憶を封じているかのように。
「なんだ、この記憶は。くそッ」
それでも、俺は光龍の手すりを握りしめた。
「今度は、俺の番だ! 俺がやらないと誰がやる!」
俺は静かに呟いた。
もう翻弄されるだけの存在ではいられない。この先の白桜蔭家を、皇國を、守れるのは俺しかいないのだから。
そして、最後の懸念にして、最大の問題だ。
今後の敵は疫病じゃない。
手が腰の刀に伸びる。蒼天一抹の柄を撫でた。冷たい感触が掌に伝わる。
今後は、必ず血が流れる道を避けて通れない。
ゲームで、俺は何千何万の「数字」を消してきた。躊躇なく。効率的に。一方的に。
だが。
現実で、人を殺せるか?
征十郎の腹から短刀を抜いたときの、感触が忘れられない。
肉を切り裂く、禍々しい重みだ。
喉が渇く。
数字の「一」ではなく、一人を、殺せるか。
相手の目を見て、刃を向けられるか。
柄を握る手が凍るように冷たい。
「教えてくれ、蒼天一抹」
刀は何も答えない。
その時。
背後から声が聞こえてきた。
千鶴と征十郎の明るい笑い声だった。屈託のない、笑い声。
そうか。
俺はゆっくりと振り返った。
今度の人生は、守るべきものがある。
千鶴が、征十郎が笑っている。その笑顔を守るために。
俺は。
蒼天一抹の鞘を握りしめた。
今度こそ。
光龍は加州に向けて進み続けていた。
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