第三章 慶州の影と赤い使者 ⑥
海舟が部屋から出ていくと、緊張していた空気が少し和らいだ。
「まずは征十郎殿に薬茶を飲んでいただきましょう」
俺は即座に提案した。
炭十郎が立ち上がり、すぐに薬茶を用意させた。
しばらくすると、熱い茶が運ばれてきた。
「弟者よ、遠慮はいらぬ。たらふく飲むのだ」
「うぅ」
征十郎は渋々といった様子で、巨大な茶碗を受け取った。
並々と注がれた黒い液体から、もうもうと湯気が立ち昇る。その湯気に混じって、焦げた草の匂いと、薬膳の刺激臭が漂う。
顔をしかめながらも、どこか覚悟を決めたような表情に見えた。
「苦いのは好きではないが」
彼が一気に薬茶を飲み干す。
「うぅぅ、不味い!」
「これで治りますか?」
炭十郎の声がわずかに上ずっていた。巨体が前のめりになり、俺の顔を覗き込むようにして問いかけてくる。その大きな手が、無意識に弟の肩へと伸びかけて止まった。
「たぶん、一時的に抑え込むくらいの効果しかないと思います」
俺は完全ではない医療知識を伝えた。
俺たちや炭十郎は薬茶を飲んで偶然、予防はできていたが、病魔が進行していると思われる征十郎の症状を果たして、どこまで抑えられるのかは定かではなかった。
「⋯⋯」
炭十郎の視線が俺に注がれる。
なぜ俺が、医者でもないのに病の進行を知っているのか。その根拠が知識なのか異能なのか、彼らの目には疑念の色が浮かんでいた。
だが、今はその答えを問いただしている余裕など誰にもなかった。
「今後の方針でお願いしたいことがあります」
「なんなりと!」
炭十郎に頼み、慶州でどれくらいこの疫病が進行しているか、そして人々がどのような状況にあるのか、さらに詳しく調べてもらうことにした。
それには嵐鋼の力が必須だ。
兄弟は嵐鋼への報告を約束し、俺と千鶴は部屋に戻った。
「私も炭十郎さんと、慶州の状況を把握してきていいですか?」
「お願いします」
「では、曉人さまは、ご自身ができること、を」
「はい」
真剣な目で宣言した後、千鶴も走って出ていく。
(確率をあげるために⋯⋯未来を知る必要が⋯⋯くそッ、あそこに行くしか)
どうせ、マシな未来は見せてはくれないんだろう。
それでも、見なければならない。これは、俺にしかできない呪われた力だ。
俺は、猟師たちをこの右目で見ないといけない。
目を背けたら、俺はこの一月、一緒に過ごした人たちに顔向けできない。
背中を氷水が一滴、また一滴と這い落ちていくようだ。
一人残された俺も、部屋から出て、山道を下っていた。
逃げたい。見ずに逃げ出したい!
前世の流行り病のとき、俺は何もできなかった。モニターの向こうで人が死んでいくのを、ただ数字として処理してきた。
今度こそ、今度こそ、俺は。
だが、この手は小さい。この身体は弱い。未来を知っていても変えられるとは限らない。
胃がぎゅうと縮こまる。膝が笑い始めた。足が勝手に後ろへ半歩引いていた。踵が砂利に触れる感触だけが、やけに生々しい。
だが。
大地を踏みしめる。膝に力を込める。
警戒心の強い猟師のところに一人で向かった。
俺たちの前で、初日に見た猟師の子供がよろめいて転げた。そのとき、彼は腹を押さえてはいなかったか?
最初からヒントがあったんだと俺は歯ぎしりした。
「なぜ、気づかなかったんだ!」
見られると警戒されるため、物陰に隠れて眼帯を外した。
本当に猶予はないかもしれない。
未識眼を使った。
視界が色を失った。
世界から鮮やかさが剥がれ落ち、灰色の死の世界が広がる。同時に、肌を刺すような冷気が全身を包んだ。まるで生者の世界から切り離されたかのように。
呼吸さえも他人のもののように感じられた。
また、だ。
喉の奥がきゅっと締まる。
また、この右目は、こんな未来しか見せない。
映し出されるのは、いつも。
いつも絶望だけだ。
映し出されたのは、慶州の地獄に等しい光景だ。
山々に点在する家々は固く戸を閉ざし人影はない。
しかし、扉の隙間から見える住人の姿は、飢えで痩せ細っているにもかかわらず、腹部だけが異様に膨らんでいた。
動かない。
その周りを巨大な鳥が、死ぬのを待っている。
そんな鳥たちが一斉に飛び立つ。
何者かが集団で走ってくる。港で見た浅黒い肌の男たち。
手に松明。炎が妖しく揺れる。
山の民の家々へ。
松明を投げ込む。
一つ、また一つ。
炎が広がる。家が燃える。
家から飛び出そうとした子供を、男たちは木の筒で火の中に押し戻す。
悲鳴がこだまする。
それに負けないほど、男たちの狂った叫びが覆いかぶさる。
「病魔を焼き払え」
「山の穢れを浄化しろ」
それは疫病への恐怖が生み出した、明らかな差別と暴力だった。
これだ。これが一番恐れていたことだ。
この光景を、俺は見たことがある。
見たのではない。前世で体験し、データとして分析したんだ。
感染拡大初期。人の流れを追った。数字を読んだ。グラフを作った。
そこで学んだ。
科学は感情に勝てないと。恐怖は人を狂わせると。
あの時、俺は無力だった。科学の敗北を眺めることしかできなかった。
そして、人を愚かだと断じて、見切りをつけた。
俺は愚かな世界の観察者になった。
未知のウイルスへの恐怖は、特定の地域や人々への差別や偏見を助長し、情報の混乱は社会不安を煽り、人々を容易に孤立させた。
この疫病は、単に人々の命を奪うだけではない。
慶州という共同体を内側から破壊し、取り返しのつかない分断を生み出してしまう。 山の民と海の民。感染者と非感染者。薬茶を飲む者と飲まぬ者。恐怖は人々を疑心暗鬼にさせ、隣人同士を敵に変えるのだ。
もう二度と——同じ失敗はしない。
早期に止めなければ。この狂気の連鎖が始まる前に断ち切らなければ、慶州は本当に滅びるぞ!
「くそぉぉぉぉ!」
あの爺さん、最初から知っていたんだ。
疫病のこと。
文學の顔が浮かぶ。あの、狐のような笑み。
そして、俺を花嫁候補とオブラートに包んで、駒として慶州に送り込んだ。
悔しい。
だが。
認めざるを得ない。この状況を把握できるのは、俺だけだと。
爪が掌に食い込む。爪の痕にじんわりと熱を持ち始めた。
くそ。利用されてるのに、断れない。
「すべてお見通しだ」
そう言わんばかりの、あの余裕綽々の目が俺を見下ろしている。
「あのジジイ!」
俺は黒松院家に急いで戻った。
知っていたのなら、文學は対策の準備も整えているはずだ。
「これが、仲介者の役割か!」
嵐鋼との面会が叶ったのは夕方だった。
予想外にも、嵐鋼が自ら俺の部屋にやってきたのだ。
「婦人の部屋に失礼いたす」
低く、よく通る声。部屋の空気が一瞬で引き締まった。
「いえ、こちらが間借りの身。遠慮なくお入りください」
嵐鋼が入室する。
一分の隙もない軍服は厳格に整えられ、その姿勢は真っ直ぐで、年齢を感じさせない威厳に満ちていた。彼が動くたびに、軍服の布地が擦れる微かな音が聞こえる。
俺も着物に着替えていた。
「炭十郎から話は聞いた。薬茶と紅茶の差を見抜き、我が家の者の命を救おうとしてくれたそうだな。感謝する」
嵐鋼は深くお辞儀をした。
「頭を、上げてください」
俺は慌てて手を伸ばした。
「まだ、何も。根本的な問題は、何一つ解決していないんです」
声が震えた。
俺は何もできていない。
しばらく沈黙の後、俺は決意を固め、懐から一通の手紙を取り出した。祖父の文學に当てて書いたものである。
「これをお読みいただけますか?」
嵐鋼は手紙を受け取り、丁寧に開いた。
慶州の状況、赤家の関与、そして必要な対策。
俺が今できる最善策を文學に宛てて、書いた手紙だ。
「どうして、我に見せようとする?」
嵐鋼は読み終えると静かに尋ねた。
「ひょっとしたら慶州への内政干渉にあたるかもしれません」
「うむ」
嵐鋼は腕を組んで熟考し始めた。その厳格な顔に深い思索の色が宿る。
軍人として長年生きてきた彼の判断は、この国の命運を左右する重みを持っていた。
その間も、俺は嵐鋼から視線を外さない。
滞在中に千鶴から慶州の埋葬法について聞いていたことを思い出す。日本と同じく火葬式が採用されており、祖先を敬い、死者を尊ぶ文化があることも知っていた。
そこからこの世界はただのゲームではなく、脈々と歴史を刻んできた生きた文化を持つ場所だと実感していた。だからこそ、死体を解剖できる者の慶州への派遣を願い出たことを手紙に記したのだ。
冒涜に当たるか?
嵐鋼が重い沈黙を破った。
「これは必要なことなのだな?」
「はい」
「どうして、こういう考えにいたったかを聞かせてくれないか?」
「はい。まず、炭十郎さまと征十郎さまから伺った話から考えると」
俺は一呼吸置いた。嵐鋼の目が、じっと俺を見ている。
気圧されそうになるが、ここで視線をそらしては信は得られない。
背筋を伸ばす。
「このたびの疫病は、空気を介して広がるものではありません」
「空気を介して?」
「はい。病の元となるもの、病原体と呼びますが、それが空気中に漂い、それを吸い込むことで広がる病があります。ですが、今回は違う。それは断言できます」
嵐鋼がわずかに顎を引いた。続けろ、という合図だ。
「その根拠は?」
「もし空気感染なら、感染は山だけでなく、海沿いの集落にも広がっているはずです」
「ほぉ⋯⋯」
さらに俺は畳み掛ける。
「炭十郎さまと征十郎さまは、常に接触していた。にもかかわらず、薬茶を飲んでいた炭十郎さまは、発症していません」
嵐鋼は眉を寄せ、静かに頷いた。
「それで白家の医師と軍を導入したいと」
手紙にはそこまで書いていなかったのに、嵐鋼はすぐに核心を見抜いてみせた。文學が最も迅速に動かせる駒は、白家の者たちだ。
さすがは老練な軍人。こちらの意図を一読で掴み取った。
俺は手を握りしめた。
「当家は。いえ、わたくしは何も権限はありませんが、少なくとも、私は黒家と争う気がありません」
嵐鋼の目に深い感慨の色が宿った。
「あの老獪な文學の血を継ぎながら、かつてない義の心を持つとは。白き蓮が泥の中から咲き誇るが如し、ということか」
嵐鋼は天井を仰いだ。岩肌を漆喰で塗った部屋に白熱電灯の明かりが揺らめいている。 やがて、彼の視線が俺の傍らに置かれた刀に移った。
「それは雨琉木末広の蒼天一抹だな」
「はい」
「鞘は抜けたか?」
「⋯⋯いいえ」
「精進なさい。貴殿はその名刀の持ち主にふさわしい」
嵐鋼の声には確かな確信が込められていた。
その夜。
月明かりが窓から差し込み、部屋に淡い光を投げかけていた。深い眠りの中、俺の意識はぼんやりと漂っていた。
かすかな物音が耳に届く。
初めはそれを夢の一部だと思ったが、次第に現実の音だと気づく。風の音にしては不規則すぎる。
左目を開けると、窓の方に黒い影が三つ。
最初、何も見えなかった。闇だけ。
だが、窓の月明かりが何かを浮かび上がらせる。人の、形。
黒い。闇夜に影が浮かび上がる。
誰だ?
思考が追いつかない。
音もなく窓が開く気配がした。
次の瞬間、理解が雷のように脳を貫いた。影が入ってきた。
喉が凍りついた。
息を吸おうとしても、空気が肺に入ってこない。心臓だけが、肋骨を内側から殴打し続ける。
「ひぃ」
やっと絞り出した声は、掠れて、ほとんど音にならなかった。
影が窓に手をかけて、明らかに大きくなる。
次の瞬間、凍結が解けたように。
「きゃあああああああ!」
悲鳴が喉を引き裂いて飛び出した。
大きな影が三つ、室内に転がり込んでくる。
とっさに頭上の刀置きから蒼天一抹を掴み取った。
「近づくな!」
俺は慌てて鞘を走らせようとするが、数センチほどで動きが止まる。まるで意思を持つかのように、刀は完全に抜かれることを拒んでいた。
その刹那、わずかに覗いた刀身から青い鬼火のような光が放たれ、暗闇にひとつの瞳が浮かび上がった。
そして、手のひらほどの青い炎の目が俺の前に来る。
鬼火の瞳が俺を覗き込んでくる。
『殺意を感じぬ。主よ、まだまだ尻が青い』
声が脳に直接響いた。冷たい青い目が、侵入者たちを射抜くように睥睨する。
認められて、ない。
刀が勝手に鞘に戻っていく。待て、待ってくれ!
カチン。鞘に刀身が戻る。
くそ、拒絶された!
指先から急速に力が抜けていく。まるで刀そのものが、俺の存在を否定しているかのように。柄を握る手が震え、開きかけた。
認められない。この俺が、まだ、子供だから、か?
「危険だ! その刀、妖刀だぞ。気をつけろ!」
侵入者の一人が警戒の声を上げる。
三人は三方向に距離を置いた。
くそ、まだ、だ!
柄を掴み直す。相手は先ほどの異様な光景には明らかに動揺していた。
「ち、近づくな! 近づけば、斬ります」
叫びはしたものの、声は震え、恐怖で体が竦む。
刀を握りしめたまま、俺は硬直していた。
今度は、鞘はびくともしない。
そうだ。
天算眼を使って、相手の位置を確認しないと。
震える指を眼帯へと伸ばした、その瞬間。一人の男が素早く踏み込み、俺の手にした蒼天一抹を蹴り上げた。
部屋の隅に刀は転がっていく。
「動くな」
低い声。耳元で囁かれた。生温かい吐息が首筋にかかる。
怖い!
布団を蹴って逃げようとした、その瞬間。
重い。誰かが、俺の上にのしかかってきた。
「おとなしくしろ」
俺は必死に抵抗した。女児の体では力が足りず、腕をつかまれる。
眼帯が取れないようにされてる? 警戒されているのか? 赤家の者か!
「清香姫!」
声が轟いた。
廊下が揺れる。いや、洞窟内の住居全体が震えたような錯覚。
次いで、巨大な影が部屋に飛び込んできた。窓から差し込む月光を背に受け、その輪郭が黒々と膨らむ。
山が動いているかのようだ。
「うおおおおおおおおおお、この不埒者どもめ!」
炭十郎だ。
暗闇に浮かぶ彼の顔。俺は息を呑んだ。
あの温和な巨漢の顔が、筋肉で歪んでいる。眉が吊り上がり、目は細く鋭く、口元は牙を剥く獣のように開いた。
「貴様ら! 我らが客人に何をする!」
彼は咆哮すると同時に、まるで嵐のように部屋に飛び込んできた。その巨体が風を巻き起こす。
侵入者たちが立ち上がる。だが、炭十郎の巨体の前では、まるで虫けらのように小さい。
これが、筋肉の力。
彼の拳が一人目の侵入者の胸に叩き込まれ、男は壁に叩きつけられた。
二人目が短剣を取り出したが、炭十郎は難なくその腕をつかみ、軽く捻るだけで男は悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
三人目は窓から逃げようとしたが、炭十郎は長い腕を伸ばして男の足首を掴み、引きずり戻した。
「ご無事ですか?」
炭十郎は一人の侵入者を片手で押さえつけながら、俺に声をかけた。その顔には、怒りと俺への心配が浮かんでいるように見えた。
「は、はい。だ、大丈夫です⋯⋯ありがとうございます」
俺は震える声で答えた。
恐怖と安堵が入り混じる中、炭十郎の圧倒的な強さが心強かった。
廊下からさらに足音が聞こえ、黒松院家の護衛たちが次々と部屋に駆けつけてきた。
「何事ですか!?」
征十郎が遅れて駆けつけてくる。
手に持った蝋燭の炎に照らされたその顔が鬼の形相になっていた。眉間に皺。息が荒い。侵入者たちを、そして無事な俺を見て、唇がきつく結ばれた。
遅れたことを悔しがっているのか?
「兄者。さすがです」
征十郎は三人の黒装束の男の一人を、まるで米俵のように肩に担ぎ上げながら言った。
「この者たちの取り調べは、我にお任せください」
声が低く沈む。いつもの朗らかさが消え、そこには、何か暗い決意のようなものが滲んでいた。
「大丈夫なのか?」
「それくらいなら、大丈夫です。気休めかもしれませんが、薬茶を飲んだおかげで、いくぶん体が軽くなりました」
征十郎は胸を張って見せた。
「任せるぞ」
「はい。兄者と千鶴殿は疫病の広まりを把握くださいませ。我が彼らから情報を引き出します」
人間の肉の山のような彼が囚人たちを見下ろす。
三人の黒装束が、身を竦ませているのが見えた。
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