第三章 慶州の影と赤い使者 ⑤
「だからといって、何もしないわけにはいきません」
俺は顔をあげた。視線が定まる。
突然、鼻から一筋の血が流れ出た。
「清香さま!」
千鶴が驚いて立ち上がるが、俺は制した。
「大丈夫です。ただ、集中しすぎると昔からこうなんです」
前世の俺も、データ分析に没頭すると鼻血を出した。
元の曉人も同じクセを持っていたのだろうか。奇妙な重なりを感じる。
「……」
鼻血を拭うことも忘れ、俺は二人の目を射抜くように見つめた。
「お願いです。どんな些細なことでも構いません。何か私たちに隠していることはありませんか?」
「隠しているとはなんだ!」
炭十郎が怒気を強めるが、再び征十郎が制した。
「姫君には隠し事はできませんな。今、慶州は今にも死にかけているのです」
「何を言うか!」
「彼女の彗眼に隠し事はできませんよ。兄者」
征十郎が兄に向かって微笑んだ。
そして、俺に向き直った。
「教えていただけますか?」
「はい。三年ほど前から、山間部の猟師の村々を中心に同じ症状の病人が出始めました。初めは散発的でしたが、今年に入って急速に広がっています。黒松院以外の黒家内にもすでに何人も症状で命を落としています」
「慶州全土でですか?」
千鶴が小さな声で訊ねた。
「いいえ、主に山岳地帯です。海岸部では知る限り一例も見られません」
征十郎は腹部を押さえながら答えた。
その言葉に俺は深い関連性を感じた。
原因は、山にあって海にないものだ。
おぼろげながらに、原因が輪郭を帯びてくる。
「死にかけとは?」
千鶴が尋ねる。
「慶州は山と海は、切っても切り離せません」
征十郎が苦虫を噛み締めたように伝えてくる。
山岳部のみの感染とはいえ、慶州の国土の大部分は山岳地帯だ。もし山間の村々が次々と人口を失えば、港町との物流が分断され、一気に経済バランスが崩れてしまうだろう
「慶州は今にも死にかけている」という表現は決して大げさではないだろう。
脳内でパズルのピースが音を立てて嵌まり始めた。
疫病。赤家の訪問。時期の一致。
散らばっていたデータが一本の線で繋がっていく。
「赤家の方々がこの慶州を訪れるようになったのは、いつ頃からでしょう?」
俺は声音を落とした。
「疫病が広がり始めた時期と重なっていたりしませんか?」
炭十郎が眉をひそめる。
「なぜ、わかる?」
「五年ほど前からです。初めは交易の話だけでしたが、次第に星花を求めるようになりました」
炭十郎に代わり征十郎が丁寧に答えた。
「輸入品目を教えて下さい」
俺は直感に従って尋ねた。必ずヒントがあるはずだ。
「赤色の茶で、紅茶というものです」
征十郎が答える。
「黒家の多くが新しい紅茶なるものを嗜むようになって、薬茶を飲まなくなりました」
征十郎は言葉を切った。
「征十郎さんは、たしか薬茶が苦手でしたよね」
彼の目が泳いだ。眉間に刻まれた皺が、困惑を、いや、何か自分を責めるような色を滲ませている。
「はい⋯⋯薬茶は苦手です。その点、紅茶は香りも味も良く、体にも良いと赤家の者は言っていました。振る舞われたときに虜になってしまいました」
炭十郎の視線が弟に向けられた。その目には失望が滲んでいるように見えた。いや、非難というよりも、悲しみに近いかもしれない。
「私は頑として飲まなかった。山の民は山の薬茶を飲むべきだと」
二人は黒家の伝統の話をしている。
俺と千鶴は顔を見合わせた。
「もしかして、紅茶と疫病。その関係について、赤家は何か知っているのかもしれませんね」
千鶴が言ってきたので、俺は首を左右に振った。
「いえ、今回の病の件をわけたのは、きっと薬茶と紅茶が原因です」
「え?」
一同が驚く。
「ど、どういうことだ?」
炭十郎が俺に近づいてくる。
俺は考えをまとめながら、みなに説明を開始した。
「お二人と私は一月の間、過ごしてきましたが、阿吽の呼吸です。筋肉を育てるために食の嗜好も似ておりますし、生活も規則正しいです」
「うむ、我らは生まれる前から一心同体」
炭十郎が征十郎の肩を組む。
その二人に俺は伝える。
「ただ、一点、炭十郎殿は薬茶を飲み、征十郎殿は飲まれない」
「たったそれだけの違いで!?」
征十郎が目を見開いた。
「詳しくはわかりませんが、薬茶の成分に殺菌効果かなにかがあり、病を食い止めていたのでしょう。そして、赤家が疫病を持ち込んだのは、確かでしょう」
「どうして!?」
「この慶州を落とすためです」
自分でも論理の飛躍だとわかっている。
しかし、俺は、十年後、慶州は赤家のものとなることを知っている。
ゲーム画面に表示されていたあの地図が脳裏に蘇る。
そこから逆算するだけだった。
だが、ここからは違う。
征十郎が死ぬ。炭十郎が膝を折る。千鶴が。
未来を知っていても、何もできない。
背筋を氷の指が這い上がる。
黒家だけじゃない。白家も、きっとこのゲーム盤の上で。
俺は言葉を締めた瞬間、再び鼻血が溢れ出し、太腿の上に赤い雫が落ちた。
炭十郎が心配そうな表情で、ハンカチを差し出し丁寧に拭いてくれた。
「つまり、赤家が黒幕——」
その時、突然扉が開いた。
「おやおや、面白そうな話ししとるやん」
声が先に滑り込んできた。粘つくような、しかし妙に耳に残る響き。
次いで、赤い法衣の裾が襖の隙間から覗く。鮮血を布に封じ込めたような、濃密な朱色だ。
灰色の髪はサラサラしていて、唇は薄く酷薄そうだ。
男が入ってくる。
体を捻るような大げさな身振り。その動きに合わせて法衣が空気を孕んで膨らみ、部屋の湿度がほんの少し変わった気がした。
糸目の男の目が俺を見下ろす。
「嬢ちゃんのくせに、えらい格好ええ眼帯してはるやないか」
俺の背筋が弓のように張り詰めた。
「……」
無意識に重心を落とし、両足の指先が畳の目を掴む。
男の細い目が値踏みするように俺を舐め回す。
「女は三人集まれば姦しい言うけど」
その視線が千鶴に移る。
「二人でも油断ならんな」
「どういう意味ですか?」
俺の問いに、男は肩をすくめる。
「あんたら、白家の者やろ?」
「⋯⋯はい」
「これは推測。そして、嬢ちゃんがさっき言ってた赤家が黒幕ちゅーんは——」
その男は屈み、俺の目線に合わせる。
「憶測や。根拠のないことを言うたらアカンって言ってんねん、で」
軽薄な口調とは裏腹に、その目には冷たい光が宿っていた。
「勝手に入ってくるな」
炭十郎が俺の前から、その男を引き離す。
男は敵意がないように手を上げて、ひらひらして見せる。
「まぁまぁ、怒らんといてや。話し合いしてるんやろ? ボクも混ぜてぇな。赤家の話を赤家の欠席裁判はないやろう?」
男はまったく怯んでいない。
「……断りますと言って、聞いてくれそうにないですね」
俺は男を睨みつけた。少女の体でありながら、その眼差しには冷たい殺気が宿っている。
「おお、こわぁ。せっかくの可愛い顔が台無しやよ」
男は胸に手を当て、わざとらしく怯える仕草をした。
「お褒めの言葉、痛み入ります」
俺は微笑んだ。口角だけを機械的に上げる。
「ただ、初対面で容姿を品評されるのは、牛馬の競り市を連想いたしますの。そちらさまは、よほど家畜の取引に慣れていらっしゃるのでしょうね」
「おっと、これは失礼したわ。ごめんやで、悪意はないねん。ぼくは赤家の使いモンやで。
俺の皮肉を簡単に受け流された。
この世界の少年は、相手の品格を暗に貶める攻撃などで、動揺も示さないというわけか。
「ヒマつぶしに来たんやけど、なんや面白い星のめぐり合わせに乾杯」
まるでグラスでも持っているように、片手を差し出し、反対の手を胸に当て、軽く一礼した。
「白桜蔭清香でございます。以後、お見知り置きください。短いお付き合いかもしれませんが」
俺は淡々と名乗り返した。
炭十郎と征十郎は明らかに怒りを抑えていた。
「赤森塚どの、何をしに参られた」
炭十郎の喉から低い唸り声が漏れた。獣が喉の奥で牙を研ぐような音。
筋肉が波打つように隆起し、握りしめた拳の関節が白く浮き上がる。歯が軋む音が、静まり返った部屋に微かに、しかし確かに聞こえた。
「だーかーら、睨まんといてやぁ、怖いわぁ」
「失礼しました。生まれつき目つきが悪いのかもしれません」
しかし二人とも言い返さない様子から、この赤森塚海舟という男はかなりの家柄なのだろう。年齢は十五歳前後だろうか。
「それで、あんたが清香はんかぁ?」
海舟の視線が俺に集中する。
「清香はんっていうたら、白桜蔭の将来の懐刀言うて秘匿されとる子やろ? せやけど、報告では五歳と聞いてましたのに、どないみても十歳くらいの子に見えまんな」
海舟は揶揄するような視線で俺を上から下まで眺めた。
「……」
「失敬失敬。ぼく、正直者やねん。ついつい思ったことが口にでてしまうから堪忍な。女性に年のこと聞くんは野暮でしたわ」
彼は手を振り、わざとらしく頭を掻く。
「まだおつむも赤いうちから女は女ちゅーことですなぁ」
「……」
「それにしても、てっきり片目は潰れていて隠しているのかと思ったわ」
千鶴が耐えきれず立ち上がった。
「赤森塚様、いくら赤家の直系とはいえ失礼がすぎます。清香様はそれは澄んだ目をお持ちです」
「女の子同士の可愛いってやつちゃいます?」
「なんですって!」
千鶴を俺は制する。
全員が海舟のペースに巻き込まれてしまっていた。
海舟は両手を広げて肩をすくめた。
「……」
「せやけど、何の話してたん? 紅茶と赤家がどうしたん?」
「その前に、少しお待ち下さい」
俺は会話を遮った。こいつを天算眼と未識眼で丸裸にしてやる!
「赤家にわたくしのことを間違って伝えられては困りますので、眼帯を外させて頂き、どうぞ、ご覧ください」
俺の手が眼帯に触れるより早く、海舟の指がそこにあった。
「いや、そりゃけっこうやわ」
その動きは流麗で、一瞬の出来事だった。
驚くべきは、眼帯を押さえる指の力が、目には圧がこないように絶妙に調整されている点だった。
この男は見かけによらず、並外れた身体能力の持ち主に違いない。
「何をする!」
炭十郎が立ち上がろうとするのを、海舟は反対の手で制する。
「驚いて、目を潰してしまうかもしれんから、動かんといて、いま、この嬢ちゃんと話てん」
細い目が開いた。
その瞬間、空気が凍りついたように感じた。
偽りの仮面の下から覗いた瞳は、炎のような朱色。だが、その奥に宿る光は、どこよりも深く、氷よりも冷たかった。
「小娘を見たら、神くずの能力者を疑えって、ね」
海舟は声のトーンを変え、冗談めかした口調から一転して低く鋭い声で言った。
「……」
俺は言葉を失った。
図星を突かれた動揺を隠そうとしたが、海舟の目は俺の反応を逃さなかった。
「どうしてって顔やな。そりゃ、あっちのお嬢はんが、ボクの安っぽい挑発に答えてくれたやんか。《澄んだ目をお持ちです》って。そんなら、隠す理由に別の意味が生まれるやろう?」
海舟は意地の悪い笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。
俺は動悸を抑え込みながら、彼の目を見据えた。
心臓が喉元で暴れている。それでも、視線を逸らさない。
炎のような朱色。その瞳の奥で、何かが燃えている。
「まぁ」
俺は声に砂糖を溶かし込んだ。
「赤森塚様は、存外お優しいのですね。こんな小娘にまで、お世辞を」
微笑む。唇を弧に曲げる。
だが、俺の頬の筋肉が硬い。まるで石膏の仮面を被っているように、表情が顔に張り付いている。
俺は観念して、眼帯にかけていた力を抜いた。
それを察したのか、海舟もパッと指を離す。
「せやろせやろ? さっきも言うたけど、ボクは正直者やねん」
海舟は再び軽口に戻った。
「それか、嬢ちゃんが女になったら両目をみせてや」
「どういうことですか?」
「あははは、傑作やわ。神くずの力は純潔を失うと、力が消滅してしまうやん。白家は、そんなことも知らんの?」
「くッ」
思考が止まった。
海舟の言葉が脳内で反響し、意味を結ぶまでに数秒を要した。
そうか、そういうことだったのか。だから。
ゲーム中、花葬朽姫との契約を得ても、能力者の人数が一定数以上増えない理由が突如として繋がった。
契約の代償として三十五歳で死ぬことを運命づけられ、早婚を期待される社会構造に変えられるが、反面、神くずの能力は純潔を失えば消えてしまうという制約があったのだ。
それが微妙なゲームバランスになっていたのだろうが、こうして説明を聞くと、あまりに悪意に満ちた設定に思えた。
早苗や千鶴のような少女は、その能力を保つために犠牲を強いられる世界というわけである。
純潔を失えば、能力が消える。
海舟の言葉が鉛のように胃に沈む。
背中の産毛が一斉に逆立った。
まるで目に見えない何かが、皮膚を撫でていったように。
だが、それがこのゲームの現実だった。
俺が何千時間も遊んだゲームの、その裏側で。
吐き気がせり上がる。こんな世界を、俺は愉しんでいた。
俺の思考が巡る様子を見て取ったのか、海舟は意地悪く笑みを深めた。
「嬢ちゃんは、どうも、知識が偏ってはるなぁ。もしかして」
「もしかして?」
海舟は俺の顔をじっと観察するように見つめ、何かを言いかけたが、急に口調を変えた。
「何でもあらへん。それにしても、十歳はぼんくらの方の兄貴かと思っておりましたわ。落馬もしたちゅー報告を受けてるで」
「余裕ですね。間諜の存在をベラベラと喋られて」
俺はあえて踏み込んだ。それによって、何かを変化が生じたら、文學なら気づくはずだ。
「家に戻ったあとの疑心暗鬼、大事やろ?」
海舟はニヤリと笑った。その表情には何か含みがあるように見えた。
掻き回すだけなのか?
こいつの目的は何だ。目的がわかれば、対策が打てる。必ず人には譲れない欲がある。それがあればデータサイエンティストとして対策はできる。
しかし、それが一向にわからない。この海舟という男の行動原理が見えてこない。
前世なら、データから相手の動機を逆算できた。だが、海舟という変数はあまりに不規則だ。
ランダムノイズのように見えて、実は精密に計算された混沌なのか。それとも本当に、猫がネズミを嬲るような純粋な悪意なのか。
どちらにしろ、最悪の相手だ。
「……」
炭十郎と征十郎は動けずにいた。
あの無敵の筋肉が、今は石像のように硬直している。
兄弟のこの反応。過去に何度も、この男に言葉で嬲られたんだろう。
炭十郎たちの筋肉は、物理的な戦いでは無敵かもしれない。だが、この海舟という男が操るのは言葉という見えない刃だ。それで相手の肺腑を抉ってくる。
筋肉では防げない攻撃。厄介だ。
千鶴も怒りの表情で海舟を観察している。
「お〜、こわぁ」
海舟は突然両手を挙げ、おどけたしぐさをした。
「なんや、みんなで、か弱いボクを睨んで、心臓が縮んでしまうわ。撤収撤収」
彼は軽やかに後退りしながら扉に向かった。
その動きは滑らかで、まるで水が流れるようだ。
いや、違う。
水ではない。蛇が、草の間を滑っていくような、そんな背筋を撫でる動きだった。
「く⋯⋯」
俺たちはその背中を目で追うしかできなかった。
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