新たな信仰の街
亡者の洞窟――そこは、太陽の光が一切届かぬ、呪われた死者の通路だった。
湿り気を帯びた岩肌からは、時折、名もなき亡霊の呻きが洩れ、死と腐敗の気配がそこかしこに漂っていた。
その出口。
重苦しい空気を断ち切るように、一筋の淡い陽光が差し込む。
やがて、岩陰から現れた四つの影。
それは、まるで暗黒を背負いながらも、確かな歩みで現世へと戻ってきたクトゥルたちだった。
「…ふぅ…」
先頭に立つのは、見慣れない顔立ちで奇抜な黒い装束を身に纏った青年。
浅黒い肌の彼の名は――クトゥル。この世の理から外れし、異形の何かである。
彼は両腕を広げ、まるで大地そのものを抱きしめるようにして深く息を吸い込んだ。
胸の奥にまで届くような、新鮮な外気。
太陽と草の香り、わずかに混じる街の気配。
それはまさしく、生きていると実感できる生命の匂いだった。
「(……いや~普通に息苦しかったし、マジで死ぬかと思った…)」
しかし心の中では、まるでただの現代人のような愚痴がこぼれる。
そのすぐ隣を歩くのは、堂々たる体躯の魔獣――ルドラヴェール。
筋骨隆々の身体に、虎を思わせる縞模様とサーベルタイガーのように鋭い牙。
四肢の動きは荒々しくも力強く、大地を踏みしめるごとに地面が微かに揺れた。
その背には、布でぐるぐるに縛られた巨大な袋。中には、洞窟の最奥で見つけた宝物がぎっしりと詰まっている。
干し肉や薬草、金貨に、魔法薬――どれも、かつてアーノルド盗賊団が奪い溜め込んだ戦利品だった。
今ではすべてが、クトゥル一行の有用な資源となる予定だ。
彼らが立つ高台からは、開けた視界の先に、一つの大都市が広がっていた。
広大な石造りの城壁に囲まれ、白と青の屋根が連なるその街は、まるでかつての栄光を今も背負っているかのようだった。
街道には人々の行き交う姿が見え、煙突から立ち上る煙が、その暮らしの気配を物語っている。
「中々の大きさの街だな…誰か分かる者はいるか…?」
クトゥルが静かに問いかけると、ルドラヴェールとエリザベートは、申し訳なさそうに視線を落とし、そっと首を振った。
しかし、一人だけ、確信をもって手を挙げる者がいた。
柔らかなプラチナブロンドのポニーテールを風に揺らしながら、澄んだ瞳を街へと向けている女性――ティファーだった。
「あの街は、ディアーネルですね。」
「ディアーネル。…今日はあの街に泊まるか…」
クトゥルの言葉に、信者たちは頷き合う。
陽光のもと、彼らの旅路は次なる舞台へと歩みを進めようとしていた。
―――
ディアーネル。
青白い石畳の道が街の中央を貫き、四季折々の花々が咲き誇る並木道を優しく風が撫でる。
街の中心にそびえる純白の大聖堂は、陽光を受けて神々しい輝きを放ち、その尖塔は、まるで神の国へと続く階段のように高く伸びていた。
この街は神に選ばれし地とされている。
かつて、天より舞い降りた聖者がこの地で神託を受けたという逸話が残っており、以来、ディアーネルは信仰と平和、そして繁栄の象徴として語り継がれてきた。
市場の広場は朝から賑わいを見せ、商人たちが色とりどりの絨毯や香草、異国の果実を並べて声を張り上げている。
香ばしい焼き菓子の香りが路地を満たし、通りを歩く旅人の足をつい止めさせる。
冒険者ギルドは、その市場の一角に構えており、堂々たる石造りの建物の正面には、金属細工で風車の紋章が掲げられている。
内部は高い天井と重厚な木製の梁が印象的で、カウンターには依頼を吟味する冒険者たちの姿が絶えない。
この地を目指してやってくる者も多く、若き冒険者の登竜門とされている。
そして、街の心臓とも呼ばれるのが聖アグネス教会だ。
白い大理石で造られたその聖堂は、信者のみならず旅人や商人、冒険者にまで門戸を開いており、
神に祈りを捧げる場としてだけでなく、時に癒しと希望を与える場所ともなっている。
また、街には格式ある宿屋から気取らない旅人の宿まで多種多様に揃っており、
夜には街角の酒場から音楽と笑い声があふれ、
旅人も地元の者も、グラスを交わしながら時を分かち合う。そんな街――だった。
「(何だ…様子がおかしいな…)」
街の門をくぐった途端、クトゥルは足を止めた。
石畳に響く仲間たちの足音が、どこか場違いなほど静かな街並みにこだまする。
その眼前に広がるのは、活気の消えた沈黙の都市だった。
広場を行き交う人々の目は、まるで魂を抜かれたかのように虚ろで、誰も彼もがうつむき加減に歩いていた。
まるで自らの影に追われるように、言葉一つ交わさぬまま、足早に通り過ぎていく。
虎に似た獣の魔獣――ルドラヴェールの巨大な影が地面に落ちても、誰一人として驚きの声を上げる者はいない。
鋭い牙も、うねる筋肉も、ただの風景と化していた。
その異様さに、クトゥルの眉がかすかに動く。
街の中心に近づくにつれ、空気の質が変わる。
市場の入口で彼らが足を踏み入れると、かすかなざわめきが聞こえてきた。
だが、それは活気ある市場の喧騒ではない。
抑え込まれた緊張と、不安のこもった囁きが、重く淀んだ空気に混じっていた。
ざわつきの源は、ルドラヴェールの威圧感ではなかった。
市場の中央、人々の視線が集まる先――そこに、うずくまる複数の母と子の姿があった。
子供たちはまだ幼く、その顔色は病的なほどに青白い。
荒く浅い呼吸を繰り返し、その小さな胸は今にも止まりそうに上下していた。
母親たちは必死に子を抱きしめ、涙に濡れた頬を何度もその額に擦りつけている。
だが、その周囲には距離を取って立ち尽くす群衆。
誰一人として手を差し伸べようとはせず、むしろ恐怖と嫌悪の入り混じった眼差しで彼女たちを睨んでいた。
聖職者らしき白衣の者たちさえも、近づくどころか、忌まわしいものを見るように視線を逸らしていた。
「クトゥル様……近づいてはいけません。あれは……疫病か何かでしょう…」
隣に立つ吸血鬼の女性――エリザベートが、静かに眉をひそめた。
その声音には、邪神を案じる忠誠と、病に対する本能的な警戒が滲んでいた。
一方、ルドラヴェールは無言のまま、市場全体を鋭い目で見渡していた。
尻尾が静かに地面をなぞり、空気のわずかな乱れすらも感じ取ろうとしているかのようだった。
「まだ…子供ですね…可哀そうに……」
ティファーが呟いた。
腰に帯びた剣にそっと手を添え、その眼差しには、目の前の幼い命への憐れみと、無関心な人々への怒りが宿っていた。
あの洞窟を生き延びた者の瞳が、今度は生の儚さを前に燃えていた。
そんな母と子に気付かずクトゥルは振り返る。
「(あぁ…喉乾いた…食事取らなくても良いけど、喉だけは乾くんだよなぁ…)」
一見すれば神のごとき風格を持ちながらも、その胸中では相変わらずの軽口が渦巻いている。
クトゥルは、何も言わずに巨大な袋に手を突っ込み、目を離したまま手探りで中を漁る。
ごそごそと物音を立て、何かを引き抜くとクトゥルは、瓶の中を見つめた。
「ん…?……虹色の水…?」
その小瓶に満ちていたのは――まるで光を封じ込めたかのような、淡く輝く七色の液体だった。
澄みきった硝子越しに揺れるそれは、目を離せないほど幻想的で、まるで天上から零れ落ちた雫のようにも見えた。
「(あっぶねっ、意味の分からないの飲みそうになった。)」
喉の渇きを癒そうとしたクトゥルは、瓶の中身を確認した瞬間、内心で青ざめた。
虹色に輝く液体――どう見ても普通の水ではない。下手すれば、体が光ったり爆発したりしてもおかしくない代物である。
表情を崩さぬよう努めつつ、彼はそっと瓶を袋に戻そうと手を伸ばす。が――そのときだった。
「……っと」
手元が狂い、彼はそのまま隣にいたティファーに瓶を手渡してしまった。
「…クトゥル様……この薬は…は…っ!なるほどですっ!」
ティファーの眼が、瞬間、深く揺れた。
彼女は一瞬で事態を悟ったらしい。
これは――邪神からの啓示。そう確信したかのように、瞳に宿る光が鋭さを増す。
そして次の瞬間、小瓶を高く掲げ、堂々たる足取りで母子の元へと歩み出した。
人々の視線が、その異様な光景に吸い寄せられていく。
「っ…あ…貴方は…?」
うずくまっていた母親たちが、驚きと怯えの入り混じった声を漏らす。
ティファーは歩みを止め、小瓶を見せながら宣言した。
「……これは、邪神クトゥル様からの慈悲ですっ」
その言葉は、重く空気を揺らした。
ざわめきが市場全体に走る。
ティファーは顎を上げ、静かに手を差し伸べた先――そこには、市場の片隅でやや間抜けな顔をして立ち尽くすクトゥルがいた。
「……?」
突然名前を呼ばれたクトゥルは水を口に含んだまま動きを止める。
口元の水がこぼれそうになりながらも、彼はとりあえず思考を回した。
「(慈悲?…な、何か良く分からないけど、手を振るか)」
ゆっくりと片手を挙げ、なんとなくそれっぽいポーズを取る。
「……フッ。我が慈悲に涙せよ。貴き命に再び灯火を灯さんことを……!」
その言葉と仕草には、かすかなぎこちなさがあった。だが、群衆にはそれすら神秘に映った。
「い、今……邪神からの慈悲って……あれ、毒じゃないのかっ?」
「違う、あ、あれは……天使の涙じゃないかっ…!?まさか、あんな効果の物をっ……!」
「天使の涙って…どんな病もたちまち治す魔法の秘薬じゃないかっ!?」
「一口でも金貨一枚以上の代物だぞ!?どういうことだ……?」
「……あ、あの方が……邪神様……?」
驚愕と畏怖が入り混じった視線が、次々にクトゥルへと注がれていく。
その中には、信じたくないという怯えと、奇跡を目撃した興奮の両方があった。
「…あ、あのっ…わ、私たち…お金など持っていません…」
母親たちは震える声でそう呟いた。
だがティファーは静かに、優しく、そして力強く言った。
「お金など不要です。ただ――邪神クトゥル様に、心からの感謝を捧げなさい…」
その言葉に、母親たちの目から涙がこぼれた。
震える手で瓶を受け取り、我が子らの唇へとそっと傾ける。
淡く揺れる虹の液体が、小さな命の中に染み渡っていった――。
「……けほっ……けほっ……」
小さな咳が、静寂を破った。
しばらく動かなかった子供たちの体が、わずかに震えた。
青白かった頬にほんのりと紅が差し、薄く閉じられていたまぶたが、ゆっくりと、まるで夢から目覚めるように開かれていく。
「…お…かあ、さん……?」
「あれ…くるしく…ない…?」
「どう…して…?」
か細い声が、母の名を呼んだ。
か細い声で母と会話する。
その瞬間、母たちは瞳を見開き、言葉にならない叫びを漏らす。
「っ……!」
感情が爆発するように、彼女らは子供たちをぎゅっと胸元に引き寄せた。
涙がとめどなく頬を伝い、その目は信じられぬ奇跡を前に震えていた。
「…邪神様っ…!」
母たちは腕に子供を抱えたまま、ふらつく足で立ち上がり、そして――市場の中心に佇むクトゥルの方へと向き直る。
重く感謝と敬意を込めて、彼女らは膝をついた。
荒れた石畳の上に、静かに頭を垂れる。
「わ、我が子を……お救いくださり……あ、ありがとうございますっ…」
「…貴方こそ…この街の神っ……!」
「邪神様の慈悲に…感謝をっ!」
その一言は、場にいた人々の心に火を灯した。
誰かが息を呑み、誰かが小さく祈るように手を合わせる。
そして――ひとり、またひとりと、膝をつき始めた。
「……何という慈悲深い御方っ…!」
「邪神…?…いや、あれは……神だ……!」
「真の神は、救いを与えるもの……!」
「我々は…本当の神の救いを目にしたっ…!」
感動と畏敬の波が、ゆっくりと市場全体に広がっていく。
その波に抗うように、聖堂から駆け寄ってきた聖職者たちが必死に叫んだ。
「待つのだっ…神は―――」
だが、誰一人として立ち上がる者はいなかった。
人々はただ、まるで神殿に祈るように――その˝邪神˝に、深く頭を垂れていた。
市場の中央。片手を掲げたままのクトゥルは、固まっていた。
人々の礼拝、畏敬の視線、そして鳴り止まぬ賞賛の声――すべてが、自分一人に向けられている。
「(い、いや…俺ただ水を飲んでただけなんだけどっ!?)」
その焦燥を隠すように、クトゥルは口元に邪悪な笑みを貼りつける。
軽く顎を上げ、わざとらしいまでに威圧的な口調で、ゆっくりと口を開いた。
「ふ、我からの慈悲…しかと受け取るが良いっ…」
その一言に、感極まったようにさらなる信者たちが膝を折る。
街の広場に、静かな祈りと歓喜の空気が満ちていた。
―――
――それは、午後の空に突如として翳りが差した、ほんの一瞬の出来事だった。
柔らかな陽光が降り注いでいた市場に、不吉な闇がじわじわと広がっていく。
人々が思わず空を仰ぐと、晴れていたはずの青空が、灰色の雲に覆われ始めていた。
どこか遠くで、牛車を引いていた家畜が甲高く鳴き声を上げ、荷車を引くことも忘れて暴れだす。
空を飛んでいた鳥たちは混乱したように旋回し、やがて群れとなって一斉に逃げ去った。
「な、なんだ……?」
市場にいた者たちが一斉に顔を上げたその時だった。
空気を切り裂くような爆音が街を揺らした。
――ズドォン!
凄まじい衝撃音とともに、商業地区の一角が吹き飛ぶ。
石造りの建物が爆裂し、瓦礫と煙が天へと舞い上がった。
衝撃波に押されて、近くの露店の布が引き裂かれ、商品が宙を舞う。
人々の悲鳴が市場のあちこちから上がり、ざわめきが恐慌へと変わる。
土煙の中から、音を立てて現れたのは――異形の魔物だった。
その巨体は、まるで山のごとく圧倒的な存在感を放ち、全身を岩のような灰褐色の甲殻が覆っている。
甲殻の隙間からは黒い瘴気が漏れ、血走った眼球が不規則に瞬きを繰り返していた。
見るだけで理性が削られていくような、不気味で禍々しい姿。
そして、魔物が大地を叩くように踏み出した瞬間――その口から、凶悪な咆哮が放たれた。
「グルルルァアアアッ!!」
濁った空気を震わせる咆哮が、街のすみずみまで届く。
石畳に亀裂が走り、建物の窓が一斉に砕ける。
恐怖に染まった人々の顔が、次々に蒼白へと変わっていった。
「魔物……!? ディアーネルに!?」
「嘘だろ、こんな街に……どうして……!」
「こ、こんなこと…今までなかったのにっ!?」
誰かの震える声が、騒然とする市場にかき消される。
人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、叫び声と泣き声が交錯していく。
「あっ…見ろっ…冒険者たちが来てくれたぞっ!」
誰かの叫びが、混乱に包まれた市場に希望の火を灯す。
群衆の視線が一斉に向けられた先――そこに現れたのは、数名の若き冒険者たちだった。
皆、手首にシルバーのタグを装着しており、冒険者としての最低限の力量を持つことを示している。
彼らは恐怖に立ちすくむ住民たちを庇うように進み出ると、剣と盾を構えて魔物と対峙した。
一歩ごとに甲冑が重たく鳴り、靴底が石畳を擦る。
魔物と真正面から向き合い、鋭い眼光で睨みつける彼らの姿は、まさしく希望そのものに見えた。
人々の胸に一縷の安心がよぎる。
しかし、それは次の瞬間に、無惨なまでに打ち砕かれた。
「ぐわっ!?」
最前線にいた一人が、何の前触れもなく吹き飛ばされた。
魔物の巨腕が閃いたのだ。
盾ごと身体を砕かれた冒険者は、まるで布切れのように宙を舞い、柱に激突して崩れ落ちた。
「魔法が効かねえ!?」
別の冒険者が呪文を詠唱し、火球を放つが、魔物の甲殻に触れるや否や――燃え上がるどころか、まるで霧のように霧散した。
信じがたい光景に、冒険者の顔が凍りつく。
「ぐっ、ああああああッ!!」
次いで、背後から迫った尾の一撃を受け、別の一人が胸を穿たれて宙を舞う。
血飛沫が弧を描き、石畳に紅を咲かせた。
刹那。
一人、また一人と血煙を上げては倒れ、剣は折れ、盾は砕け、無残に地に叩きつけられていく。
あまりにも一方的で、あまりにも非情な蹂躙。
冒険者たちが築いた希望の光は、瞬く間に闇へと呑まれた。
その光景を前に、市場全体が絶叫と足音に包まれる。
逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子供。取り乱して転倒する者。誰もが恐怖に支配されていた。
誰もが、悟っていた。
――もはや誰も、この魔物を止めることなどできない。
「み、皆のものっ…こ、これは―――」
混乱の中、聖職者の一人が声を張り上げる。
震える声は、それでも必死に人々を導こうとしていた。
そして、その言葉はいつものように、邪神の仕業を説こうとするものであった。
「こ、これは…神の怒りによる罰である!今こそ信仰を、神への祈りを――!」
しかし、その言葉が最後まで届くことはなかった。
なぜなら――
その絶望の中心に、またしても現れたのだ。
どんな脅威よりも、異質で、そして得体の知れない存在が。
混沌を歩く者たちが、再び、人々の前に姿を見せたのだった。
「……ほう。我を迎えるにしては、少々粗暴すぎぬか?(何てタイミングで魔獣が来るんだよっ!?)」
瓦礫と絶望に満ちた広場――
その片隅から、異形の一団が姿を現した。
黒と基調とした奇抜な装束、見る者の心をざわつかせる異様な存在感。
その中心に立つのは、顔立ちは普通だが、人ならぬ雰囲気を纏う青年――邪神クトゥル。
そしてその背後には、彼を守るかのように従う三つの影。
赤黒いローブを翻しながら歩くのは、白磁の肌を持つ吸血姫エリザベート。
彼女の瞳は、魔物を一瞥するだけで獲物を値踏みするような、冷たくも艶やかな光を帯びていた。
その隣には、深紅色のたてがみを揺らしながら歩む、魔獣――ルドラヴェール。
そのしなやかな肉体には筋肉が無駄なく張り、地を踏みしめる足取りは、まるで嵐を纏う魔獣そのもの。
そして最後に、鎧に腰に片手でも扱える両刃剣を携える女性――ティファーが、静かに後方を歩いていた。
一団が姿を見せたその瞬間、広場にいた住民たちの間に、どよめきが走る。
「ま、またあの御方が……」
「もしかして、今回も……?」
昨日、薬代も払えぬ子供たちを救った神――
その記憶が、民衆の脳裏に鮮烈に甦る。
畏れと敬意、そして混乱の入り混じった感情が、人々をその場に膝つかせた。
無意識に、ある者は手を合わせ、ある者は頭を垂れる。
理屈ではない――もはや彼らにとって、クトゥルは信仰そのものになりつつあった。
その神の降臨に、魔物が反応した。
黒煙を吐き出しながら身体を震わせ、血走った眼が一斉にクトゥルたちへと蠢く。
咆哮が大気を裂く。
「グアァァァアア……!」
牙を剥き、明確な殺意を込めて、魔物はクトゥルを睨み据えた。
まるで、あらゆる感情を怒りに塗りつぶしたかのような狂気の眼光。
その威圧に、クトゥルの心臓が跳ね上がる。
「(え、え、こっち見てる!? 完全に目合ってる!?近い近い近い! ムリだってっ!?)」
内心では大混乱の彼だったが、その顔には一切の動揺を見せない。
むしろゆっくりと姿勢を正し、静かに一歩前へと進み出た。
「愚昧なる獣よ……この我に牙を剥くとは、万象の理をも冒涜する愚行よ……!」
堂々たる宣言とともに、クトゥルは右手をゆるやかに掲げる。
その所作はまるで、世界の摂理を掌に収めた存在であるかのように荘厳で――
「(誰か助けてくれーーーーーっ!!)」
しかし、彼の心の声はなおも叫んでいた。
「エリザベートよ。我が言の葉を受けよ……あの忌まわしき魔を、塵と化せ。」
広場に響き渡るその声は、夜空すら震わせるような威厳を帯びていた。
冷たく、神秘的で、どこまでも深く――人智の及ばぬ神威を宿していた。
「……御意にございます、クトゥル様」
エリザベートは静かに膝を折り、一礼する。
彼女の唇がわずかに笑みを描く。その表情には、主より命を受ける悦びと陶酔が滲んでいた。
真祖の吸血鬼。千年を超える時を生きた処刑者の、戦慄すべき微笑。
一瞬後――彼女の瞳が変わる。
それは、まさに死を運ぶ刃。慈悲も情もない、冷徹な狩人の眼差しだった。
高空に、紅き魔法陣が展開される。
宙に浮かぶその文様は、幾重もの魔法式が複雑に絡み合い、荘厳な光を放つ。
魔力の奔流が広場の空気を震わせ、圧倒的な重圧が群衆の背にのしかかる。
「地に帰りなさい…獣…」
その言葉と共に、空から雷鳴が落ちた。
轟音が天地を揺るがし、閃光が瞬間を焼き尽くす。
雷撃が魔物へと突き刺さり、その甲殻が裂け、骨が砕け、肉が爆ぜた。
「グ、ルゥ……ア、アアア……ッ」
呻き声とともに、巨体が傾ぎ、重力に従い崩れ落ちる。
石畳を砕き、大地を揺らし、土煙が広場を包み込む。
その中心――燃え残る魔物の骸の前に、エリザベートが悠然と立っていた。
ローブを翻し、一糸乱れぬ姿。
その瞳は既に敵を見ていない。ただ、命を与えた神の方へと向けられていた。
そして――その命を下した者。
群衆が見上げたのは、彼女の背後に立つ、あまりに神々しい異形の存在。
邪神クトゥル。
その少年のような姿には不釣り合いな荘厳さと、不気味な静謐が漂っていた。
「……やはり我が力を前にすれば、全ては無に還るのだっ……」
堂々とした口調とともに、広場を見下ろすように両腕を広げるクトゥル。
彼の周囲には、赤いたてがみを揺らすルドラヴェールが唸り声を上げて立ち、
ティファーが無言のまま、微かに震える指を胸元で組み合わせていた。
……しかし、当の邪神の内心では、冷や汗が滝のように流れていた。
「(エリザベート…相変わらず強すぎっ…)」
群衆の誰一人として、彼の心の声を知る由はない。
ただ、目の前で起こった奇跡に、民衆は心を奪われていた。
「……また、救われた……」
「今度は、魔物すらも……一撃で……」
「本物だ……あの方こそ、本物の……神だ……!」
誰かが呟いたその言葉は、まるで火種のように燃え広がる。
ひとり、またひとりと、周囲の者たちがその声に呼応してひざをついた。
祈る者、叫ぶ者、涙を流す者――
信仰が芽吹き、崇拝へと育ち、そして――狂信に染まる。
「邪神クトゥル様ァアアアアア!!」
「おおぉ、我らが主よ!!」
「邪神でも俺たち神だ! 俺たちは、邪神様を崇拝するぞっ!!」
遅れて駆けつけた聖職者たちが、蒼白な顔で事態を止めようとする。
だが、すでに熱狂は頂点に達していた。
暴徒と化した群衆は、かつての教会を打ち砕き、その礎に異形の像を築き始める。
虚無を湛えた笑みを浮かべ、両手を天に掲げる像。
それは――邪神クトゥル、そのものを模したものだった。
かつて「聖都ディアーネル」と呼ばれた街は、
この日を境に、「邪都ディアーネル」として新たな名を刻むこととなる。
神の名のもとに、世界がまた一つ、歪みに染まった瞬間であった――。
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