洞窟の亡者④
ティファーとの激戦――いや、圧倒的な力の差による蹂躙に敗れ去ったアーノルドとその部下たちは、砂塵を巻き上げながら、迷路のように入り組んだ廃坑の洞窟を全力で逃げ戻っていた。
「はぁっ…はぁっ…」
彼らの顔には、戦意など残っていなかった。
誰もが沈黙し、張り詰めた空気の中で響くのは、息を切らす荒い呼吸と、足音が岩肌に跳ね返る音のみ。
かつてこの洞窟を我が物顔で支配していた男たちは、いまやただの逃げ惑う影でしかなかった。
「……くそっ……なんなんだ、あの女は……!」
先頭を駆けながら、アーノルドが苦々しく唸る。
額に浮かぶ汗を袖で拭いながら、歯を食いしばる音が、奥歯の軋みと共に漏れた。
「このままじゃ全滅だ……金を持って、逃げるぞ……!」
決意を込めたその言葉にも、誰一人として返事はなかった。
返す余力がなかったのか、それとも心が完全に折れてしまったのか。
彼らの顔には、疲労と恐怖、そして何より敗北という重たい現実が、深く、深く刻まれていた。
それでも、足を止める者はいなかった。
かつての拠点へと続く岩壁の裏手へとたどり着くと、そこでようやく視界の端に――冷たく光を反射する鉄扉が見えた。
それは、盗賊団が密かに作り上げたアジトの隠し入口。
荒く息を吐きながら、彼らは最後の逃げ場へと身を滑り込ませようとしていた。
―――
仲間たちは我先にと駆け込むようにアジトへと身を滑り込ませた。
長く使い込まれた岩壁の通路を抜けた先――そこには、見慣れた空間が広がっている。
洞窟の奥に広がるその拠点は、壁際に無造作に立てかけられた木箱、雑多に積まれた金貨と食料の山、そして薄暗く揺れる松明の火に照らされ、かつては盗賊団の楽園とも言えた場所だった。
だが、今日のその空間には、明らかに異質な何かが漂っていた。
「……な、なんだ……?」
アーノルドが足を止めた。
不穏な空気が肌にまとわりつく。
仲間たちも次々と動きを止め、部屋の奥へと視線を向ける。
そこに、いた。
――神父の装束を纏った骸骨が、金と食料の山の前に静かに立っていた。
身体は骨と僅かな腐肉で構成されており、神の加護を象徴するはずの神父服が、その白骨の上にぞっとするほど整然と掛けられている。
骸骨の頭部はわずかに傾ぎ、黒く乾いた眼窩が、まるで生きているかのように彼らをまっすぐ見つめていた。
「はっ……?」
「何だよっ!?」
誰かの息が止まったような声が漏れた。
その骸骨の足元――
床に崩れるように倒れているのは、アジトで捕らえられていた女たちだった。
奴隷として使役していた、かつて命令一つで動いていたその二人の身体は、まるで砂漠の熱に灼かれたミイラのようだった。
肌は茶褐色にひび割れ、指先は枯れ木のように細くねじれ、目は窪んで肉が削がれた骸のように――否、すでに骸だった。
全身からは水分という水分がすべて抜き取られたかのように、干乾びていた。
「…う、うそだろ……!?」
盗賊の一人が叫んだ、その直後だった。
骸骨が、音もなく、すうっと腕を持ち上げた。
骨が鳴る音も、布の擦れる音もない。
ただ、闇の中から滲み出すように――死が動いた。
ギギギ……。
それは鉄が錆びたような、乾いた骨が擦れるような、不快な軋み音だった。
骸骨の枯れた腕が、ぎこちなく、それでも確かな意思を持ってゆっくりと持ち上がっていく。
「やべぇ、逃げ──」
その叫びが、まるで封じられたかのように途中で消える。
声を発した盗賊の男が、その場で凍りついた。
片足を踏み出す寸前の姿勢のまま、彼の身体は硬直していた。
それは彼だけではなかった。
全員が、まるで地面に魂ごと縫い留められたかのように、一歩も動けなくなっていた。
「な、なんで……身体が……動かねぇ……ッ!」
恐怖と混乱が部屋中に充満する中、骸骨は何の感情も宿さない空洞の眼窩で盗賊たちを見据えたまま、もう片方の手をそっと宙へと揺らした。
その動きに呼応するように、空間に濃い影が滲み、そこから生え出るように――半透明の、死の色をした手が伸びた。
ぬるりと、何の抵抗もなく、それは一人の男の胸を貫通する。
「……ッ!?」
男の目が限界まで見開かれた。
声は出ない。ただ、喉の奥から絞り出されるような呼吸音だけが洩れる。
その肌が――急速に乾いていった。
肉はしぼみ、皮膚は紙のようにたるみ、目元はくぼみ、頬は骨に張りつくように引き攣れた。
全身の水分という水分が、わずか数秒のうちに奪われていく。
やがてその男は、乾ききった肉片の塊となり、崩れるようにその場に倒れた。
「ひ……ひぃぃぃッ……!」
「や、やめろ……やめてくれ……!」
恐慌が広がった。だが、逃げることはできない。
次の一人、また次の一人へと、骸骨の放った手が音もなく伸びては胸を穿ち、命を吸い取っていく。
乾き、しおれ、崩れていく。
生から死へ――いや、死さえ通り越した干涸びた骸へと、変わっていく。
「やめろおおおお!!」
アーノルドが絶叫する。
全力でその場から逃げようとする。しかし、動かない。
足は鉛のように重く、筋肉は命令を受けつけない。全身が異質な力に拘束されていた。
彼の眼前で、最後の部下が枯れ落ちた。
その瞬間、アーノルドの心から何かが折れた。
残ったのは、アーノルドただ一人だった。
無数の屍が横たわるアジトの奥。
静寂の中、彼はその場に崩れ落ちそうなほど膝を震わせ、歯の根が合わぬほどに顔をひきつらせていた。
冷たい汗が背中を伝い、シャツを濡らす。意識は正気と狂気の狭間をたゆたっていた。
そして彼は、わずかに残った意志を振り絞り、ぎゅっと目を閉じた。
「(だめだ、終わりだ。殺される……! 殺される……ッ!)」
脳裏に浮かぶのは、干涸びて崩れ落ちた仲間たちの姿。
無音の中に確かに響いた絶命の瞬間が、何度も何度もフラッシュバックする。
数秒が過ぎる。
いや、永遠とも思える時間だった。
……だが、何も起こらなかった。
音もなく、空気さえも沈黙したまま。
そこにあるのはただ、異常なまでの静寂だった。
恐怖に凍ったまま、アーノルドはゆっくりと、慎重に目を開けた。
かすかに光る松明の炎が揺れる中、彼の視界に――骸骨が映った。
微動だにせず、そこに立っている。
変わらぬ姿で、ただ彼を、まっすぐに見つめていた。
その黒く乾いた眼窩には瞳など存在しない。
だが、確かにアーノルドには見えた。底なしの悪意と、言葉にならぬ呪詛のような意志が、その空洞から滲み出ていた。
息ができない。心臓が凍りついたかのように痛む。
アーノルドの理性は、崩壊の縁に立たされていた。
そして――ついに、その堰が切れた。
「うわああああああああああああああああああああッ!!!!!」
理性を失った絶叫が、洞窟の奥深くまで響き渡る。
それはもはや人の声ではなかった。
生への執着でも、怒りでもない――純粋な恐怖そのものが発した、獣の悲鳴だった。
アーノルドの眼は見開かれ、口は引き裂けんばかりに叫びを吐き出し、声が潰れてもなお叫び続けた。
その夜を境にアーノルド盗賊団の名は、世界から静かに消えた。
―――
洞窟内は、息を呑むような静けさに包まれていた。
湿った石の壁が冷気を伝え、暗闇の奥深くへと続く空間に、わずかに反響する音があった。
――ポトン。
天井から滴る水音が、一滴、また一滴と地面を打つたび、その静寂を破った。
だがその音さえ、あまりに小さく、かえって耳に残るほどだった。
先頭を進むのは、一人の男――クトゥル。
浅黒い肌、漆黒の髪、瞳までもが黒の深淵を湛え、体には漆のような黒衣をまとっている。
異国の影を感じさせるその風貌は、この荒れ果てた洞窟の中でも異質でありながら、なぜか場に馴染んでいた。
いや――彼を知る者にとって、それは当然だ。
彼はこの世の理を超越した最強の混沌を統べる――(見た目だけ)邪神なのだから。
とはいえ、今の彼の姿は限りなく人間に近い。
軽やかな足取りで、ひとり闊歩する背中には、余裕と自信が漲っていた。
「ふぅむ……盗賊どもも逃げ去り、道は拓けたか。良くやったぞ。ティファ―…」
クトゥルは顎を少し上げ、胸を張って歩を進めながら、後方を振り返りもせずに声を掛けた。
その言葉に、仲間たちの視線が自然と彼に集まる。
「はっ!お褒めいただき光栄ですっ。クトゥル様っ!」
ティファーはすぐさま姿勢を正し、瞳を潤ませながら答えた。
彼女の胸には、神に等しい存在からの賞賛を受けたという、言葉では表しきれぬ喜びが溢れていた。
その隣では、エリザベートがそっと手を胸に当てる。
赤黒いローブを身を包んだ、冷艶なる真祖の吸血姫。だが今、その顔には年若い娘のような輝きが灯っていた。
「っ…クトゥル様っ…この采配は私っ…私ですっ!」
見た目は二十代、しかし態度はまるで子供のように、目を輝かせてアピールする。
その姿に嫉妬を浮かべたように、すぐ脇から低くうなる声が漏れた。
「エリザベート殿ハ、何モシテイナイダロウ二…」
唸るように呟いたのは、ルドラヴェール。
虎に似た獣の巨体を持ち、深紅の体毛に黒の縞を揺らしながら歩く彼の尾が、わずかに地を叩いた。
野太い声に籠もる苛立ちは、静かな威圧感を伴って周囲に伝わる。
だが、その指摘すらも肯定するように、クトゥルはまた一言、重々しく宣言した。
「エリザベートの言う通りだった。あの弱き魂たちでは我の相手は務まらなかったな…」
「当然ですっ。世界がクトゥル様にひれ伏すのですっ!」
エリザベートは目を輝かせ、歓喜に満ちた声で応える。
その横で、ルドラヴェールは再び喉を鳴らし、ティファーはしっかりと頷く。
「グルっ」
「はいっ!」
クトゥルはそのやりとりを背に、満足げに顎を上げた。
仲間たちの称賛の声に、彼の気分は高揚し、心の中では思わずガッツポーズすら浮かんでいた。
「(邪悪な気配の持ち主なのに、大したことなかったなっ。俺も成長したってことかっ!)…ふっ…フハハハ!当然だ! あの程度の盗賊など、我の足元にも及ばぬ……――」
クトゥルは人差し指と親指を弾き、洞窟の空気を打つように高らかに響かせた。
「次の敵は我が手で塵に変えてくれよう!灰すら残らぬ深淵の力でな!(もう邪悪な気配は消えたし問題ないだろっ)」
その瞬間だった。
背後で、ぴたりと足音が止まった。
まるで全員が一斉に息を呑んだような、異様な静けさ。
クトゥルは、その空気の変化に気づき、ゆっくりと振り返る――。
同時に――空気が変わった。
それは、言葉にできないほどの重圧だった。
洞窟の奥から、何かが這い出してくる。
静寂の幕の裏側に潜んでいた異物が、ぬるりとその姿を現そうとしているかのような感覚。
地の底、死の深淵、あるいはこの世界の理すら侵す異界から放たれたかのような、禍々しい波動が、空気を揺らした。
ティファーが僅かに身を強張らせながら、声を落として問いかける。
「…この気配…皆さま…気づきましたかっ…」
その声音はいつもの快活さを失い、震えるように細かった。
「えぇ…感じたわ……」
エリザベートが静かに応じる。
その赤い瞳が鋭く細められ、周囲を見渡していた。
冷たい美貌に浮かぶのは、確かな警戒と緊張。先程までの無邪気な様子は消え失せ、真祖の吸血姫としての本性が顔を覗かせていた。
ルドラヴェールは、唇の端から獣の息を漏らすように鼻を鳴らした。
虎を思わせる巨体が地を踏みしめ、琥珀の尾がピクリと動く。
「……死ノ匂イガスル…」
低く唸るような声が、洞窟の壁を震わせた。
その言葉は、何よりも確実な警告だった。
クトゥルは内心で跳ね上がりそうになるが、とりあえずそれらしく頷く。
「(え?何が来た?ま、まぁ…頷いておこう)あぁ…」
自信満々な顔のまま、無理やり平静を装う。
だがその裏で、彼の鼓動は無意味に早くなっていた。
その時だった。音もなく、闇が動いた。
そして、そのそれは姿を現した。
白く乾ききった骨の肌と少々残る腐肉。
瘦せ細った体を覆うのは、かつて聖職者であったことを物語るような黒ずんだ神父服。
ゆっくりと地を踏みしめ、影のように進み出るその存在――骸骨神父。
顔の中、片方の空洞の眼窩には、赤黒く燃え立つ光が灯っていた。
それは感情を持たぬはずの死の仮面に、確かな意志を宿らせるかのようだった。
その右手には、黒鉄の十字架が握られていた。
そこから立ちのぼる腐敗した魔の気配は、空気すら濁らせ、吐息を交わせば肺が腐りそうな錯覚すら覚える。
「(な、なんか、すっごいホラーチックなのが来たんですけど!?)」
クトゥルの心の声が、完全に上ずっていた。
これは――マズい。とてつもなくマズい。
見た目の時点でアウトだ。盗賊団とは、あきらかに次元が違う。
ティファーを震え上がらせたあの連中でさえ、まだ「人間の範疇」だった。
だが、この骸骨神父は違う。明らかにボス級。ボス・オブ・ボス。洞窟内の超ラスボス系だ。
「来たわね……邪悪な気配の正体…」
エリザベートが、吐息と共に囁くように言った。
「(えっ!? アレが邪悪な気配っ!? 盗賊団は違うのかっ!?)」
クトゥルの心は、今にも崩壊しそうだった。
異形の骸骨神父の出現。圧倒的な不気味さ。漂う死の気配。
その場にいるだけで魂が凍てつくような存在に、クトゥルの理性は悲鳴を上げていた。
だが――次の瞬間、自らを奮い立たせるように、頭を振る。
「(いや、落ち着け…俺…。俺には頼もしい仲間がいるじゃないかっ…)」
ティファー。
ルドラヴェール。
そして、エリザベート。
どの者も一騎当千の力を持ち、彼に忠実な者たち。彼女らがいれば、どんな敵であろうと勝てる。そう思っていた。
そう、甘く考えていたのだ――その瞬間までは。
クトゥルが見たのは、自分を見上げる三人の仲間たちの瞳。
その目は、まるで神を信じる信徒のそれだった。純粋な光をたたえ、確信と歓喜に満ちている。
「…(あ…ま、まさか…)」
嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。
原因は――そう、˝あの˝言葉だった。
――次の敵は我が手で塵に変えてくれよう!灰すら残らぬ深淵の力でな!
無責任なハッタリ。威厳たっぷりにキメたあのセリフ。
今まさに、そのツケが回ってきたのだ。
「クトゥル様の力…楽しみです」
ティファーが、心底からの憧れのまなざしを向けている。
青い目が潤み、頬が染まり、祈るように両手を胸の前で組んでいた。
「俺タチハ邪魔二ナルナ」
ルドラヴェールは獣のように低く唸りながら、鋭い牙を見せる笑みを浮かべる。
虎に似た巨体の毛並みが逆立ち、彼の身体中から戦の高揚感が溢れていた。
「私たちの神の戦いよっ」
エリザベートが、恍惚とした笑みを浮かべて囁いた。
その声音は甘く、まるで聖なる奇跡を見届けようとする巫女のようだった。
「………(数分前の俺の…バカああああぁっ!!)」
心の中で地面を転げ回るクトゥル。
自らがまいた種が、見事に開花しようとしている。
これは、完全に詰んでる。
逃げ道を探そうと腕を組み、思考をフル回転させる。
が、そんな余裕すらない。骸骨神父が、地を踏みしめながら一歩、また一歩と近づいてくる。
死の静寂が、洞窟全体を支配していた。
その瞬間――クトゥルの瞳がぎらりと輝いた。
「(逃げられないっ――ならば、見せてやろう……我が真の姿を)」
彼の決意に呼応するかのように、空気が震え始める。
地面が軋み、空間そのものが歪み、風が逆巻く。
クトゥルの細身の身体から、禍々しい触手と黒い瘴気が溢れ出す。
重力すら狂わせるような闇の奔流が、周囲を飲み込むように広がっていく。
偽りの仮面が砕け落ちる音が、確かに響いた。
そこに現れたのは千の目を持つ、深淵の化身。
この世の理から逸脱した、邪神の姿。
無数の触手が蠢き、見る者の理性を蝕むその異形。
ただそこに在るというだけで、世界の常識を揺るがすような存在。
もはや説明も理解も許さぬ、混沌そのもの。
闇に染まる洞窟の中で、骸骨神父と異形の神が――今、対峙する。
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