忌まわしき地④

ティファーの背筋が凍った。


神殿の闇が異形の影を揺らめかせる中、彼女の耳に届いたのは、震えを隠しきれない仲間の声だった。


「テ、ティファー…これ…まずいぜっ…」


無垢なる夜のメンバーたちも異変を察知していた。

主要メンバーは、何とか武器を構え、いつでも戦えるよう臨戦態勢を取るが、その手は僅かに震え、頬には冷や汗が浮かんでいた。


しかし、全員が覚悟を決められたわけではない。後方の戦士たちは、武器を構えることもままならず、恐怖に駆られるようにじりじりと後退し始める。


だが、ティファーは彼らを責めることはできなかった。


眼前の敵は、彼女自身でさえ、今すぐにでも逃げ出したいと思わせるほどの存在だったからだ。


「ティファー…僕としては…逃げることをおすすめしますが…」


冷静な策略家であるダリウスでさえ、その声音にはかすかな動揺が滲んでいた。


敵の戦力は圧倒的だった。邪神の後方に控える配下たちは見ただけでお強者と分かる存在、加えて邪神の真の力はいまだ未知数。そして、今目の前にいる三体の異形――それぞれが異質な禍々しさを漂わせていた。


逃げるべきだ。戦って勝てる見込みなど微塵もない。


「キサマラ…テキ」


地響きを伴って、漆黒の鎧を纏う巨体が動いた。


ヴァラキリオン。その深淵のような視線がティファーたちを捕らえた瞬間、全身を総毛立たせるような悪寒が駆け巡る。


「っ!?…全員てった――っ」


ティファーが撤退の指示を出そうとする。


「オソイ…」


だが、低く、不吉な呟きが空間を揺らした瞬間、ヴァラキリオンの巨大な大剣が唸りを上げた。


「っ!?」


「ダリウスっ!後ろ――っ」


空間が裂け、影が舞う。その刃の軌道を捉えたときにはすでに遅く、赤黒い飛沫が宙を舞った。


「……ダ、ダリウスっ…マジかよっ…」


戦慄が走る。悲鳴すらあげる暇もなくダリウスの身体が無残にも二つに裂かれ、血液が地面を赤く染めていく。


体の半分から、肺、胃、十二指腸があふれ出て、異臭が彼らの鼻を刺激

する。

仲間の命が一瞬で刈り取られた光景に、無垢なる夜の戦士たちの心は限界を迎えた。


「うぁああああああっ!」


悲鳴とともに、次々とメンバーたちは神殿の外へ逃げ出そうとする。しかし――


「あららぁ? 帰っちゃうのぉ…?帰る前に、アタシと遊びましょうよぉ♪」


不吉な歌のような声が響く。アラク=ゼルカ。


彼女は宙を舞い、漆黒の羽を震わせた。


その瞬間、周囲の空気が震え、耳をつんざくような音波が広がる。


音の波が空間を歪ませ、逃げ出そうとする者たちの意識を揺さぶった。


彼女は、目の前の背信者たちを指さしゆっくりと獲物を決めていく。


「だ・れ・に・し・よ・う・か・なっ… じゃ・し・ん・さ・ま・の・い・う・と・お・…」


「っ…」


「…りぃぃっ♪」


紫の瞳が鋭く光る。獲物を選定するように、アラク=ゼルカがゆらりと標的へと向かう。


次の瞬間彼女の異形の四本の腕が閃いた。影が走り、刃が肉を切り裂く。


「ギャアアアア!!」


戦士の悲鳴が響く。腕と足が無残にも切り裂かれ、血がほとばしる。


「あはは♪…久しぶりの血…最高ぉっ♪」


アラク=ゼルカは狂気に満ちた笑みを浮かべ、黒曜石の甲殻を不気味に光らせた。彼女の指が赤く染まり、それを妖艶に舐め取る。


だが、誰もそんな姿に魅せられるほど愚かではない。


逃げ場は塞がれた。恐怖と絶望が押し寄せる。


ティファーは、歯を食いしばった。震える指先を何とか落ち着かせ、愛剣を強く握る。


「っ…!全員っ!武器を構えろっ。奴らを倒す以外、私たちが生き残る道は…ないっ!!」


決死の叫びが響いた。


人間と異形――命を賭けた戦いの幕が、今、開かれた。




―――




ティファーの叫びが神殿内に響くと、それぞれが動き出す。


「行くぜっ『オーバークレスト』っ!」


オーバークレスト

使用者の身体能力を爆発的に向上させる魔法。筋力、敏捷性、反射神経を一時的に限界突破させ、まるで別人のような戦闘能力を得る。ただし、効果が切れると強烈な反動が襲う。


その瞬間、ラグナルの肉体が膨れ上がる。筋肉が隆起し、血流が沸騰するように体温が急激に上昇。


骨格が軋みながら適応し、彼の体はまるで猛獣のように四足へと変化した。


「ぐおおおっ……!」


身体強化の魔法が限界を超え、ラグナルはまるでライオンのように駆ける。


雷の如き速度で地を蹴り、ヴァラキリオンの剣閃を紙一重でかわすと、その勢いのまま回転しながら鉤爪で反撃した。


しかし――


キィィン


「なっ…こいつ…硬ぇっ!?」


ラグナルの鋭い一撃は、ヴァラキリオンの装甲の表面を掠めただけで、傷一つつけることができなかった。


まるで神話の金属で鍛えられたかのように、異形の肉体は揺らぎすらしない。


その刹那――


「っ。ラグナルっ!危ないっ!」


セリアの悲鳴が響いた。


ヴァラキリオンの大剣が、弧を描きながらラグナルに振り下ろされる。その質量と速度は、並の戦士ならば視認すらできないだろう。


だが、ラグナルは今、四足の獣。反射速度は人の域を超えている。


それでも、避けるのは困難――


「『ウィンドカッターっ!!』」


セリアとレイツァーが即座に魔法を放った。


彼女たちは『無垢なる夜』の中でも最も魔法の扱いに長けた二人。その鋭い風の刃は、ヴァラキリオンの剣の軌道をわずかでも逸らすべく、全力で撃ち込まれた。


だが――


「……え?」


放たれた風の刃は、ヴァラキリオンの剣に届く前に、まるで霧に溶けるように消失した。


「そ、そんなっ…ラグ――っ!」


次の瞬間、ヴァラキリオンの大剣がラグナルの体を両断した。


肉が裂け、骨が砕ける音。大柄なラグナルの巨体が吹き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられる。


縦に割かれた体が、まるで操り人形の糸が切れたかのように倒れ、内臓が地面に散らばった。


「っ…な、何で…僕達の魔法がっ――」


感情をあまり表に出さないレイツァーですら、明らかな動揺を見せる。


そのとき――


「■●●▼…●▼…■◆▲●」


耳を裂くような不気味な呪詠が響く。


視線の先には、漆黒のコアを抱いたスライム、マジク=イーター。


そのコアが鈍い輝きを放ち、リクスの体が震えている。


「ま、まさか…奴は魔法を吸収するのかっ…ちっ(魔法が使えないのは、セリカたちにとっては致命的だっ…)」


ティファーは歯噛みしながら、リクスを標的に定めた。やつを仕留めなければ、魔法戦は完全に封じられる。


彼女が一歩を踏み出した瞬間――


「だめよぉっ♪やらせないぃっ!」


軽快で、どこか狂気を孕んだ声が響く。


「……ッ!!」


ティファーの背後には、アラクが忍び寄っていた。


「うふっ…」


咄嗟に剣を振るうも、アラクは突如停止し、そのまま空中へと跳ねるように飛び上がった。


「危ないじゃないぃ…?そう言う悪い子お仕置きぃっ♪」


高速で翅を振動させながらホバリングする彼女の体は、宙を舞う黒い影のようだ。


「――ッ!」


空気が切り裂かれる音。


アラクの翅が振動し、超高速の風の刃を生み出す。ティファーの目前に襲いかかるそれを、彼女は剣で受け止めるが――


完全には防ぎきれない。


「ぐっ!」


鋭い風の刃が頬を裂き、鮮血が飛び散った。


ティファーは息を整えながら、敵を見据える。


接近戦のヴァラキリオン。中遠距離のアラク。そして魔法を封じるマジク。


それぞれが役割を果たし、戦場で有機的に機能する。


もはや、ただの異形の集まりではない。


まるで、緻密に構成された戦術チームのように、彼らは『無垢なる夜』を追い詰めていた。


――そして、未だ動くことのないクトゥルとその信者たち。


静観する彼らは何を思うのか。


戦況は圧倒的不利。絶体絶命の危機が、仲間たちを飲み込もうとしていた――。




―――





凄惨な光景が広がっていた。

 

大地は鮮血に染まり、かつて仲間だった者たちの身体が無残に転がる。無垢なる夜のメンバーたちは、圧倒的な力に蹂躙され、勝利の可能性すら見出せないまま、一人、また一人と沈んでいった。

 

勝つことなど、最初から叶わぬ夢だった。

 

「はぁ…はぁっ…(か、勝てない…私たちは邪神にすら触れることすら許されないのかっ…!?)」


ヴァラキリオンとアラクがゆっくりと無垢なる夜のメンバーへと歩み寄る。


それはまるで、確実に仕留めるために距離を詰める捕食者のような動きだった。


「(もう無理だ…セリアたちも…限界…か…。)ま、待ってくれっ…いや…下さいっ!」


ティファーは、愛剣を捨てると膝を折った。


震える指先が地面に触れる。強張った腕が支えを失い、崩れ落ちるように両膝をついた。彼女は深く俯き、その身を地に伏せる。


これは――人生で最初で最後の祈り(懇願)。

 

「邪神クトゥル様……私の命を捧げます。ですから……無垢なる夜の仲間を逃がしては、いただけないでしょうかっ…」

 

静寂が広がる。

 

無垢なる夜の生き残りたちは、誰一人として声を発することができなかった。ただ、ティファーの言葉を聞き、唇を噛み締めることしかできない。

 

誇り高き彼女の背中が、今、地に伏そうとしている。

それは彼女にとって屈辱だったはずだ。それなのに――。

 

「……っ」

 

弱い自分たちが、彼女にここまでさせてしまった。言葉にできない罪悪感が彼らの胸を締め付ける。

 

だが、ティファーは理解していた。この懇願など無意味なのだと。

 

――神とは、残酷なものだ。

 

幾ら祈ろうが、嘆こうが、神は人間ごときの願いに耳を傾けはしない。

それが神であれ、邪神であれ、それは変わらない。

 

彼女は信じることのできぬ神に、最後の希望を託す。もし拒絶されるなら、それもまた運命。仲間とともに死ぬまで。

 

それに、死ねば、家族に会える。

 

父と母――そして、愛しい妹に――。


家族の顔が思い浮かぶ。ティファーを笑いかけてくれる。

 

ヴァラキリオンが静かに大剣を振り上げる。

 

ティファーは、ゆっくりと瞼を閉じた。


やはり、神とは、そういうものか――

 

「…(ごめん…みんな)」


「待つのだ……」

 

不意に、重く響く声が降り注いだ。

 

ティファーは息を呑み、恐る恐る瞼を開く。

 

そこには人間形態へと変貌した邪神クトゥルが立っていた。

 

腕を組み、悠然と彼女の前に立ち塞がるその姿は、神々しくもあり、同時に人知を超えた異質な威圧感を漂わせていた。

 

まるで、この世界の理すらも歪める存在――邪神としての絶対的な威厳を纏いながら――。

 

彼がその場に立つだけで、空気は震え、大気すらも膝を屈する。

 

ティファーの目が、大きく揺らいだ。

 

彼女の願いは届いたのか、それとも、自ら愚かな背信者を始末するつもりなのか。

 

ただ、邪神クトゥルの真意は、この瞬間、誰にもわからなかった。




―――




「…(こ、これは…)」


そこにいたのは、まぎれもなく邪神クトゥルだった。だが、今まで見ていた禍々しい異形の姿ではない。


彼は悠然とした態度のまま、人間の姿へと変化していた。


見慣れぬ闇色の衣を纏い、まるで高位の貴族のように整った姿。


だが、その瞳の奥には常人が決して覗くことのできない深淵が揺らめいていた。


威風堂々と腕を組み、ヴァラキリオンの前に立ち、ティファーを見据える。


「……(わ、私の祈りが通じた…い、いや…まだ分からない…)」


驚きに目を見開くティファー。


クトゥルは余裕の笑みを浮かべていたが、内心では冷や汗をかいていた。


「(ヤバい、めちゃくちゃ威厳を保たないと…!ここで下手な態度を見せたら、一気に信用が崩れる…!)」


しかし、彼の目的は明確だった。


「なかなか見どころのある魂ではないか…気に入ったぞ…ヴァラキリオンたちよ…こいつらを逃がせ…」


「ハッ」


「承知しました」


ヴァラキリオンとアラクは静かに一歩下がり、膝をついて沈黙する。


ティファーがゆっくりとクトゥルを見上げた。


「行け…弱き魂たちよ…」


静かにそう告げ、満足げに頷く。


無垢なる夜の仲間たちは、その場から逃げ出していった。セリカとレイツァーは、躊躇するもティファーの意を汲むと神殿から抜け出した。


「…(あぁ…良かった…)」


ティファーもまた、安堵の息を漏らした。


──私の命と引き換えに、仲間は助かった。


そう確信し、彼女は再び目を閉じる。


──ああ、これでやっと……。


空にいる家族の元へ帰れる。


しかし、待てども訪れるはずの刃は降りてこなかった。


静寂が支配する中、ティファーはゆっくりと目を開ける。そこには、変わらず人間の姿のクトゥルが立っていた。


彼は頷くと背を向けた。


「何をしている?我は言ったぞ、˝こいつら˝と。それは貴様も含まれる。…貴様も仲間の元に帰るが良い…」


「え…?」


クトゥルは、彼女を殺すことなく、仲間たちの元へと返すことを決めていた。


「何をしている…?仲間の元には戻りたくないか…?」


「い、いえっ…は、はい…分かりました。」


戸惑いながらも、ティファーは立ち上がり、仲間たちの元へと向かう。その後ろ姿を見送る異形たちの中で、エリザベートが静かに呟いた。


「…クトゥル様からしたら、あの程度の人間たちなど、殺す価値がないってことなのね…」


「アァ…底ガ見エナイ御方ダ…」


クトゥルの行為を、哀れな魂への慈悲と解釈したのだ。


エリザベートだけではない。他の異形たちもまた、同じ考えを抱いていた。


「っ!?(分かったわ…クトゥル様の『真の力』…)」


「(ソレハ異形ヲ従エル『力【ちから】』。ナルホドッ)」


彼らは勝手にそう解釈し、クトゥルの威厳にさらに畏敬の念を抱いた。


クトゥルは余裕の笑みを崩さずにその場に佇む。


しかし、その内心はと言うと――。


「(うおぉぉっ!あのティファーって人かっけぇっ!あれが本物の指導者って奴かっ!俺は、自分を犠牲になんてできないぞっ!いや、良いもん見れたわ…)」


彼は表面では無表情を浮かべながら、内心で大いに感動していた。


自身の身を犠牲にして仲間を逃がして貰うという、中々できない行動に

クトゥルは感激していた。


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