忌まわしき地③



廃墟と化した街の石畳を、一団の影が音もなく踏みしめて進んでいた。


月光に照らされたその姿は、漆黒の闇に溶け込み、まるで夜そのものが歩んでいるかのようだった。


彼らの名は背信者「無垢なる夜」。


この地に邪神がいる――そう報せを受け、彼らはここへ集結した。


先頭を行くのは、漆黒の外套を羽織った女。鋭い眼光が、闇の中に潜む気配を探る。

彼女の名前は、ティファー。ティファー・エーデルシュタイン。無垢なる夜の実質的指導者である。


「…全員、警戒しろ」


静寂を破る声に、すぐ後ろを歩くスキンヘッドの男――ラグナルが鼻を鳴らした。どこか余裕を感じさせる口調で応じる。


「安心しろよ、ティファー。俺たちなら問題ない…」


その言葉に応じる者はなく、隊列は再び静寂に包まれた。


ティファーはただ前方の暗闇を見据えていた。


その手は、腰に携えた愛剣の柄を無意識のうちに強く握っている。指の関節が白く浮き出るほどに。


「(待っていろ…邪の『神』)」


その胸には、燃え続ける神への憎悪があった。


かつて、ティファーは神聖騎士だった。神に剣を捧げ、祈りを捧げる日々。

信仰こそが彼女生きる意味であり、世界を正しく導く力であると信じて疑わなかった。


――だが、その信仰はある日、音を立てて崩れ去った。


「司祭様…こんな夜更けに何か…御用でしょうか…?」


突然の司祭の呼び出しに困惑するティファー。

その後の言葉に耳を疑った。


「ティファー、良く来ました…神は仰ったのです。『私と子を成し神へと捧げよ』と」


「…は…?」


敬愛していた司祭の言葉は、今なお耳にこびりついて離れない。


それは、神の名を騙り己の欲望を押しつける、最も醜悪な言葉。


ティファーは迷わず拒んだ。


「それが神の意志であろうと、私は…従えません…私は神に身も心も捧げた身ですから…」


「っ!?…ちっ…」


その瞬間、司祭の瞳に潜んでいた本性が露わになった。

敬虔な信徒の顔は消え、そこにあったのは、ぎらついた欲望と怒り。


「な、何たることだ…この異端者めっ!誰かっ!!誰かいないかっ!?異端者が…異端者が私を殺そうとしているぞっ!!」


「なっ!?」


彼女は司祭によって異端者とされ、騎士でありながら拘束されかけた。


だが、彼女は剣を抜いた。


愛する信仰が腐り果てていたことを知ったその刹那、彼女は全てを捨てた。

教会を飛び出し、追手を斬り伏せ、ひたすらに逃げた。


しかし、それで終わりではなかった。


怒り狂った司祭は、ティファーの家族を捕らえた。


「神は大層お怒りであるっ!神を拒んだ者の血筋によって、神の怒りを鎮めるのだっ!」


両親は処刑され、幼いの妹は、生贄に捧げられた。


ティファーが剣を振るい、街へ逃げ込んだその夜。

教会の奥深くでは、男たちの笑い声と妹の悲鳴が響いていた。


それは「神の意志」という名のもとに行われる、あまりにも醜悪な儀式。


やがて、耐えきれなくなった妹は、自ら命を絶った。


その事実を聞かされたとき、ティファーの中で何かが砕けた。


信仰は灰となり、心は氷のように冷え切った。


「使えん妹はもう神の裁きにより死んだ…神は更生の機会を与えてくださっているっ…!!今一度、司祭に元に赴き、頭を下げて許しを乞うのだっ!!」


神を騙る者たちはそう告げ、彼女を捕えようとした。


しかし、ティファーは二度と縛られるつもりはなかった。


剣を抜き、司祭の首をはね、教会を血の海に変えた。


向かって来る敵(信者)を容赦なく切り裂き、ただ一人、街を抜けた。――


その日以来、彼女は誓った。


「祈ったところで、何もしない神は不要だ。人間は、自らの手で世界を切り開くべきなのだから」


ティファーは信仰を捨て、同じように神を拒む者たちを集め、『無垢なる夜』を結成した。


そして今、彼らは廃墟と化した神殿の前に佇んでいる。


ひび割れた石柱。

苔むした壁。

崩れた屋根の隙間から、冷たい月光が差し込んでいた。


瓦礫を踏み越え、神殿の最奥へと進んだ彼女の前に現れたのは、黒髪に浅黒い肌を持つ異質な容姿の青年だった。


彼はゆったりとした態度で立ち尽くし、まるでこの場を自らの居場所とでも言うかのように風を受けていた。


その目は、まるで世界の理そのものを見透かすように深く暗い。


ティファーの瞳に、静かなる怒りが灯る。


愛剣の柄を握る手に、再び力が込められた。


「――決着をつける時が来たっ」




―――




やがて、神殿内に入った無垢なる夜の一団は、足を止めた。


彼らの顔には困惑の色が濃く浮かんでいる。


邪神と聞いて想像していたのは、狂気に満ちた巨大な異形、あるいは人知を超えた恐怖の権化。


しかし、目の前に立つのは、黒髪に浅黒い肌を持つ、どこか人間めいた青年だった。


変わった所と言えば、この世界ではいない顔立ちと浅黒い肌。ただそれだけ。だが、それが逆に不気味だった。


さらに青年の背後には、二つの影が佇んでいた。


一人は、絶世の美貌にして魔の気配を纏う魔族の女、エリザベート。


一匹は、赤いの毛並みに黒の縞模様。エメラルドグリーンの瞳を輝かせる魔獣、ルドラヴェール。


エリザベートは余裕の笑みを浮かべ、ルドラヴェールは喉の奥で低く唸る。


その二者が放つ威圧感は、まるで空気そのものが圧縮されたかのような錯覚を生じさせ、無垢なる夜の戦士たちの肌にじわりと冷たい汗を滲ませた。


「…貴様ら…何者だ…?」


クトゥルの口調には威厳があった。

ティファーたちは、クトゥルの声に背筋が震える。


だが、ティファーは、背を向けることはない。


「……私たちは背信者っ。無垢なる夜のリーダーっ!ティファー・エーデルシュタインっ!」


鋭い声が神殿に響く。


ティファーは迷いなく柄に手をかけ、剣を抜いた。その動作に一切の躊躇はない。月光を受けた刃が淡く輝き、敵意を静かに主張する。


「神を拒絶し、信仰を捨てる者っ!」


その言葉が号令となり、無垢なる夜の戦士たちが一斉に武器を構える。槍の穂先が鋭く揺れ、剣が冷たい光を帯びた。


対するクトゥルは、一歩前へと進み出た。


「(や、やばい……ガチでやる気だっ…!)」


内心では膝が震えていた。ここで甘い態度を取れば、一瞬で首を刎ねられるかもしれない。だが、それでも――


邪神を名乗る以上、弱さを見せるわけにはいかない。


クトゥルは深く息を吸い込み、堂々と両腕を広げた邪神ロールを始める。その瞬間、彼の身体が闇に飲み込まれるように歪む。


無数の眼が闇の中に瞬き、禍々しい触手がゆっくりと蠢いた。異形なる神の気配が、廃墟の空気を塗り潰す。


戦士たちは息を呑んだ。恐怖に膝を折る者もいれば、それでも歯を食いしばり剣を握り続ける者もいる。


しかし――


「丁度良いモルモットですっ…クトゥル様の真の力をお見せくださいっ!」


エリザベートが陶酔したような笑みを浮かべる。


ルドラヴェールも、エメラルドグリーンの瞳を輝かせながら牙を剥いた。


「(待て、待て待て待て!)」


クトゥルの脳裏に警鐘が鳴る。


「ククク(これ、俺が戦わなきゃダメなやつ!?)」


クトゥルは邪神モードになって笑い声を上げるが、無数の目をギョロギョロと動かしていた。


「(ハッタリだけで何とかするつもりだったのに、まさか俺に戦わせるつもりか!?エリザベートたち戦ってくれないのかっ!?)」


クトゥルは必死に内心で叫んだ。しかし、彼の周囲を取り囲む状況は無情だった。


信者たちは期待に満ちた眼差しを向け、恍惚とした表情で彼を見つめている。


対する無垢なる夜のメンバーは、冷徹な視線を彼に突き刺し、剣を構えたままじりじりと間合いを詰めてきていた。


先頭に立つティファー・エーデルシュタインの足音が、静寂の夜に鈍く響く。


心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。


まるで鼓膜を突き破るかのような緊張感が、クトゥルの全身を締め付ける。

しかし、邪神を演じる以上、そんな弱気な素振りを見せるわけにはいかない。


彼は無数の眼をギョロギョロと動かし、禍々しくうねる触手を誇示しながら、真正面に立つ無垢なる夜のメンバーを威嚇した。


しかし。


彼らは怯まなかった。


ティファーは剣の柄をしっかりと握りしめ、鋭い眼光をクトゥルに向けている。


その視線には揺るぎない意志が宿っていた。


彼女の背後に控える仲間たちもまた、呼吸を整え、戦闘の気を高めている。


その姿は、単なる信者の群れではなく、信仰を捨て、己の意志で道を切り拓こうとする者たちだった。


「(やばい……どうする……?)」


クトゥルは焦燥感を抱えながら、改めて自身のスキルを脳内で確認した。


――デスティンド・グレイス。

眷属を強化するが、今は自身が戦わねばならないため意味を成さない。


――トリックスター。

頭で思い浮かべた姿に自在に変身できるが、質量は人間形態のまま。たとえ百メートルの巨人になっても張りぼて同然。


――オール・オブ・サウンド(サウンドクリエイト)。

頭で想像した音を発生させる。音だけは強大な演出ができるが、実際の衝撃は皆無。


「(いや、これもう一択しかないだろ!!)」


クトゥルは腹をくくり、意を決して腹部に大きな口を開いた。


「ククク……フハハハハハッ!」


闇夜に響く狂気じみた笑い声。大気が震え、まるでこの場を支配するかのような不吉な響きが辺りを包み込む。


「我こそは、邪神クトゥル=ノワール・ル=ファルザスなりっ」


しかし、それはクトゥルが精一杯の虚勢を張った結果だった。


「(頼む、これでビビってくれ……!)」


心の中では神に祈るような思いで、彼はさらに高らかに笑い続けた――。


クトゥルは「オール・オブ・ラグナロク」を発動した。


直後、エリザベートの黒き雷の時と似たような効果音が虚空に響き渡る。


鋭く、重く、耳を劈くような雷鳴が夜空を支配し、その余韻は大気を震わせたような錯覚にさせる。


瞬間、エリザベートとルドラヴェールの目が怪しく輝いた。


まるで、クトゥルがついにその秘められた真の力を解放したかのように思えたのだ。


一方、無垢なる夜のメンバーたちは、一気に緊張感を増していた。表情は強張り、冷や汗を滲ませる者もいる。


「こ、これは……!?」


「この雷鳴……魔力を感じない…魔法じゃ、ないっ…これが、邪神の力が……!?」


疑念と畏怖が交錯する。


クトゥルは必死に雷鳴を鳴らし続けた。より強く、より荘厳に。しかし、それはあくまで音であり、実際の雷撃ではない。


しかし。


異変が起こった。


空が、まるで深淵へと飲み込まれるかのように徐々に暗くなっていく。


「っ!(ま、まてっ、これは…まさか!?)」


雲が渦巻き、月光さえも呑み込まれ、影が地上を支配し始めた。


「(ついに…ついに…!俺が持つ本当の力が目覚めたのかっ!?)」


内心で歓喜するクトゥル。


だが、どれだけ雷鳴が轟こうとも、雷は決して落ちてこなかった。


その代わりに――


神殿の奥から、突如として禍々しい闇の風が吹き荒れた。


「……!?」


クトゥルは無意識のうちに身をすくませる。


風はまるで意思を持っているかのように神殿を駆け巡り、纏わりつく闇がねっとりと肌を撫でるように蠢く。


ぞわりと、戦慄が全身を走った。


無垢なる夜のメンバーたちも、この異常事態を察知し、それぞれの武器をしっかりと握りしめる。


ティファーが一際鋭い眼光を放ち、剣を構える。


「来る……!」


彼女の声が張り詰めた空気を突き破った、その刹那――神殿の闇の奥深くから、三つの巨大な影が、静かに、そして確実に姿を現した。




――ー




クトゥルは、胸の奥で高鳴る心臓の鼓動を否応なく感じていた。


無数の目が焦燥と恐怖を滲ませながらギョロギョロと動き、周囲の様子を探る。


張り詰めた空気が肌にまとわりつき、乾いた喉がわずかに音を立てた。


無垢なる夜のメンバーたちは、それぞれの武器を固く握りしめ、闇の奥から現れる存在に警戒を強めている。


しかし、クトゥルの視界の隅に映る彼らの手は、わずかに震えていた。それも無理はない。


神殿の奥深く、揺らめく闇の中から、三つの影がゆっくりと姿を現した。


先頭に立つのは、黒曜石の甲冑に身を包んだ巨大な騎士。


その全身は漆黒の光沢を帯びた装甲に覆われ、深淵の力を宿していた。


ただそこに存在するだけで周囲の空間が歪んで見えるほど、その存在は異質だった。


鎧の継ぎ目からはかすかに暗黒の霧が立ち昇り、牛を模した兜の奥に揺らめく青白い炎が、無機質な眼差しをティファーたちに向けている。


彼の手には二メートルを超える大剣が握られ、その刀身からは霧のような影が溢れ出し、地面に染み込んでいった。


その後ろに続くのは、黒曜石の甲殻を持つの女。


漆黒の肌が妖しく輝き、背後から伸びる触角のような長髪が、不気味に蠢いている。


額には六つの赤い宝石のような目が並び、それぞれが不規則な間隔で瞬いていた。

彼女の唇からは、鋭い牙が覗いており、不敵な笑みが浮かぶ。まるで獲物を品定めするような視線が、ティファーたちを射抜いた。


そして最後に現れたのは、黒曜石のコアを持つスライム。


ねっとりとした暗緑色の液体が形を定めずに蠢きながら、ゆっくりと神殿の出口へと流れ込んでくる。


その中心には、不気味に鈍く光る黒曜石のコアが浮かび、その周囲にはまるで神経のように脈動する黒い筋が広がっていた。


時折、コアの内部から囁くような音が響き、それがクトゥルの耳に絡みつく。


無垢なる夜のメンバーたちは、その圧倒的な異質さと存在感に呑まれながらも、恐怖を押し殺し、武器を握り締める。


「全員…気を引き締めろっ…!」


ティファーの鋭い声が静寂を切り裂いた。


クトゥルは、ごくりと唾を飲み込む。


果たして、ここからどうなるのか——。




―――




三体の異形がその場に降臨したとき、空気が一変した。


周囲の空間が歪み、まるで世界そのものが彼らの存在を反映するかのように震えている。


だが、目の前に立つクトゥルの体は、硬直して動けない。


彼の脳内で、文献の出来事が再び起こるのだろうと予測し、クトゥルの心を打ち砕く。


逃げ道など一切ない。


ヴァラキリオン=コープの大剣がゆっくりと振るわれれば、その重みだけで空間が裂けるだろう。


その一撃を浴びれば、クトゥルの体は文字通り半分にされ、魂すらも消し去られるに違いない。


アラク=ゼルカの微笑みが、もはや心を狂わせ、迫り来る獄鎖の羽音は精神を蝕み始めているかもしれない。


そしてマジク=イーターの黒いコアが彼を取り込み、焼き尽くし、溶かし去る瞬間が訪れることを、クトゥルは間違いなく予感していた。


死のビジョンが無数に頭をよぎる。


突然、異形たちが周囲を見渡しながら、クトゥルに視線を集めた。


「…(あ、死んだ…)」


そしてその視線が、まるで視覚の中で全てが引き寄せられるかのように一点に集まり、異形たちは忽然と膝をついた。


「……え…?」」


目の前で膝をついたその姿に、クトゥルは目を見張る。


いや、違った。


それは、まるで崇拝する者が神へ祈りを捧げるような動作だった。

異形たちが、頭を下げ、彼に忠誠を誓っているのだと、理解するのに少し時間がかかった。


「ご無沙汰しております。邪神様」


ヴァラキリオンの兜の奥から青い炎が揺らぎ、アラク=ゼルカの唇には恍惚の笑みが浮かび、その目はクトゥルに深い敬意を示している。リクスの黒いコアがわずかに震え、その振動から低い、不協和音のような響きが生まれる。


「(いや、あの…ご無沙汰って初対面だけど…こ、これって、俺の事、本物の邪神って思ってる…?)」


一瞬、困惑がクトゥルの心を掠める。しかし、そんな心情を露呈することなく、彼は冷静を装って返事をする。


「ククク…久しいな…お前たち…(初対面だけど…と、とりあえず知り合いのフリしとこ)」


「オォ…ワレラガ…ジャシン」


ヴァラキリオン=コープの青い炎が揺れ、その声が神殿に響き渡る。


ヴァラキリオンの姿は、まるでその存在そのものが永遠に束縛されているように感じさせるが、その言葉には確固たる忠誠が込められていた。


「この身、永久の呪いに囚われし者なれど……いまこそ、貴方に忠誠を誓いましょう……」


アラク=ゼルカは艶然とした笑みを浮かべ、指を唇に這わせながら囁くように言う。


マジク=イーターの黒いコアから、意味不明の言葉のような音が響き渡る。その音は、言語を越えた不安定な、まるで古代の呪文のような響きだ。


「●▼……●◆●……▲●■■◆……」


その音を聞き、クトゥルは心の中で絶叫を上げた。


「(また面倒なことになってるぅっ!?)」


だが、その混乱を顔に出すことなく、クトゥルは平静を装った。これ以上、真実を悟られるわけにはいかない。気を取り直し、彼は口を開く。


「我の元に良くぞ集まった…」


その言葉が、どこまで真実を伴っているのかは、誰にもわからない。しかし、クトゥルの心中では、事態が予想外の方向へ進んでいることに気づき、再び深いため息をつくのだった。


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