神の子と聖霊会⑤

夜の帳はとうに落ち、空は漆黒のヴェールに包まれていた。


西の空には残照ひとつ残らず、ただ雲の切れ間から覗く白銀の月だけが、静かに大地を照らしている。


まるで世界が深い眠りについたかのように、街はひっそりと沈黙していた。


その沈黙を縫うようにして吹き抜ける夜風が、石畳をかすかに撫でる。

昼の名残を残していた熱はとうに失われ、冷たく澄んだ空気が、街路を満たしていた。


そしてその冷えた空気の只中に、異様な影がひとつ、佇んでいる。


――クトゥル。


闇に溶け込むような黒い肌。

それでいて、月光を受けた彼の輪郭は、淡い光をまとい、ぼんやりと輝いていた。


その存在は、言葉では到底語り尽くせない。


ただそこに在るだけで、空気が変質し、世界が不協をきたすような、圧倒的な威圧と異質さ。

神話の書にのみ記され、人々の記憶から久しく消えた異なる理が、いまこの場所に顕現していた。


セラフィスは息を詰めた。


肺が縮こまり、鼓動がひとつ、ふたつと激しさを増す。


理解が、否定を押し流していく。


――神は、いる。


それは啓示のように、全身を突き抜けた。

信仰を手放し、教義を捨て、偽りの偶像に背を向けてきたはずの男が、いま確信している。

この世に神は実在する――と。


聖典に記された理想の像ではない。

教会の壁画に描かれた柔和な顔でもない。

この夜に現れた存在こそが、神。

それも唯一にして絶対の、˝真なるもの˝だ。


善か悪かなど、もはや問題ではなかった。

そのような人間の尺度を超えた邪神に、ただ膝を折るしかなかった。


胸の奥にある、かつて信仰と呼ばれていた感情の残滓が、いま熱と共に蘇ってくる。

震える足が自然と地に触れ、セラフィスの膝が、石畳に音を立てた。

その音は小さく、しかし確かに夜の静寂の中で響いた。


あたりには、誰もいない。

窓は閉ざされ、家々はすでに闇に沈んでいた。

この場に存在するのは、ただひとりの神とその信者、そして、ひとりの人間だけ。


クトゥルの影が、月の光に背を押されるようにして長く地を這う。


その影はまるで意思を持つかのように壁をよじ登り、屋根を伝い、空へと広がっていった。

それは夜そのものを呑み込み、大地の全てを覆わんとしているかのようだった。


セラフィスは、かすれた声で言った。


「……神の御言葉を…私にお聞かせください……」


乾ききった喉から、熱に浮かされたような囁きがこぼれる。

それは祈りか、願いか、それともただの懇願か――。

本人にも分からなかった。ただ、彼はそう口にせずにはいられなかった。


クトゥルは何も言わなかった。

だがセラフィスは、その沈黙をもってしても、神の試練であると受け取った。


これは問いかけだ。

この無言こそが、己の魂を量るための天秤なのだ。


動かず、声も発さず、セラフィスはひたすらその瞬間を待った。

この夜の只中で、自分という存在が新たな˝秩序˝に包まれるそのときを。


風が、また一度、冷たく吹き抜ける。

そのたびに月光がいっそう冴え渡り、クトゥルの姿が幻想のように浮かび上がる。


そしてその光景を前に、ひとつの信仰が、音もなく芽吹いた。


新たなる神のもとに。

新たなる時代の到来と共に。

邪神の命を受ける、その時を――。


クトゥルは、深く、重たく、ひとつ溜め息をついた。


「(これ…言葉をかけなきゃダメな感じ…?……いや、もうホントにこの街を一刻も早く出たいんだけど……)」


その吐息に混じるのは、神の威厳でも啓示でもなかった。

それは紛れもなく、迷惑を被った人間の、げんなりとした本音だった。


この場にあるのは、ただ静寂と、狂信の眼差し。

その中心にいるクトゥルの心中は、焦燥と混乱に満ちていた。


まさか、異世界に転生してから――

よりにもよって、宗教とこんな形で関わる羽目になるとは、誰が予想できただろうか。


自信が見た目だけの雑魚の転生してからは、ただひっそりと生き延び、目立たず、関わらず、平穏な日々を過ごそうとしていたのに。

いまや目の前には、月光に照らされ膝をつき、神の御言葉を乞う青年がひとり。

その瞳に宿る光は、信仰という名の狂気すら帯びている。


逃げ出したい――

そう思うのに、セラフィスの視線が、それを許してくれなかった。


純粋だった。あまりにも、純粋すぎた。

その無垢な信仰心こそが、クトゥルにとって何よりも手に負えない存在だった。


この手の狂信者は、一度信じ込めば、何を言っても無駄だ。

否定も拒絶も、警告すら届かない。

信じたものが˝神˝である限り、どこまでも盲目的に従い続ける。


後方に控える、エリザベートの姿が脳裏にちらついた。

彼女もまた、似たような目をしていた。

一線を越えてしまった者たちの目――その純粋さゆえの、恐ろしさ。


「(マジか……もう何言っても無駄なやつじゃん…)」


唇は動かず、心の中だけで呻く。

だがその顔には、表情ひとつ浮かんでいなかった。

まさに神の沈黙としか思えぬ厳かな無言が、偶像としての威厳を高めていく。


その時だった。


背後にいたエリザベートが、一歩前へと進み出る。

彼女の唇がわずかに弧を描き、静かに、しかし確信を持った声音で告げた。


「クトゥル様のお言葉よ……良く聞きなさい。」


エリザベートの声が夜気を裂き、静寂をさらに深めた。

その声音は優しく、だがどこか妖しい熱を孕んでいた。


「はっ……」


セラフィスは陶酔したように目を細めると、静かに頭を垂れた。


両膝を地につけ、両手を胸元に組み、まるで神前の巫のごとく完全なる服従と崇拝の姿勢を示す。

その頬には薄く紅がさし、瞳には狂信に似た光が宿っていた。


「(んーっ…エリザベートめ、勝手なことをっ……)」


その一方で、当の˝神˝であるクトゥルの額には、冷や汗が滲み始めていた。

胸の奥に、焦りがじわじわと広がっていく。


背筋を伝うのは冷たい戦慄。

まるで夜の月光が、その身を貫いていくような錯覚さえ覚える。


「(……いや、マジで勘弁してくれ……)」


こんな展開は、まったくもって予想外だった。

言葉ひとつで人の運命を変える――などという責任を背負う気は、これっぽっちもなかった。


だが、今さら何も言わないという選択肢はない。

このまま黙っていれば、それこそ神の沈黙が新たな神話になってしまいかねない。

それだけは絶対に避けなければならなかった。


「(適当に言って、やり過ごすしかない……!)」


葛藤の末に、クトゥルは静かに息を吸い込んだ。

わざとらしく、ゆっくりと腕を組む。

演技じみた仕草で、あたかも深淵なる叡智を秘めた存在のように装い、表情を引き締める。


そして――

わざと低く、重みのある声で、静かに言葉を発した。


「信者セラフィスよ……お前にこの街の未来を委ねよう……我が期待に応えてみせるがいい。お前の運命、見届けてやろう……!」


それは、ただ場を繕うためだけの、即興の台詞だった。

本心も信念もない、空疎な言葉。

だが、それがこの場では――最悪の一言だった。


セラフィスの身体が、一瞬、ぴくりと震えた。


――ッ!


その震えは、確かな衝撃の証だった。


白く細い指先が、かすかに痙攣していた。


それでも彼――セラフィスは、その震える手を堅く握りしめる。

月光の下、血の気の失せた指先がぎゅっと爪を食い込み、手の甲に白い筋が浮かび上がった。


夜は静かに、だが確実に深まっていた。

空を覆う濃藍の天幕には、銀色の月が静かに輝き、淡く冷たい光を地上に注いでいる。

その光に照らされるセラフィスの瞳――琥珀色の双眸が、静かに、そして力強く光を宿す。


大きく見開かれたその目には、驚きと喜び、そして何より、選ばれし者の歓喜が溢れていた。

理性と狂気の境界が、ほんの一瞬、継ぎ目なく融け合っていく。


「(この街の……未来を……!?)」


その思考が、心の内で強く反響する。

まるで神の声が、脳髄に直接焼きつけられるかのように――。


彼の耳には、クトゥルの言葉が繰り返し、鼓動のように打ち鳴らされていた。


クトゥルの言葉、それはすなわち。

――聖霊会を乗っ取り、この街を邪神の信仰に染め上げよ。


それが、セラフィスにとっての「啓示」だった。

確かに彼にはそう聞こえた。


いや。

それは、もはや聞こえたのではない。


彼は、そう『理解』したのだ。


神が言葉を授けたとき、それは解釈ではない。

絶対的な指示として、魂に焼きつく。


セラフィスの頬がかすかに紅潮し、身体の奥から熱が湧き上がる。

それは恐れではない。

むしろ、かつてないほどの高揚だった。


「(そうか……クトゥル様は私に、この大いなる使命を与えてくださるのか!)」


セラフィスの胸の奥に、灼熱のような想いがこみ上げてきた。

それは理性では抗えない熱――歓喜、畏怖、そして、祝福された者としての高揚。

胸郭が波打つように震え、心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響く。


まるでこれまでの人生のすべてが、この一瞬のために織り上げられていたかのように。

数奇な運命も、苦難の修行も、すべてはこの「選ばれる」瞬間へ至るための布石だった。

今、彼の魂に刻まれたのは、神の言葉――否、邪神の啓示。


セラフィスはゆっくりと姿勢を正した。

まるで神殿で聖句を捧げる祭司のように、静かに、そして厳かに。

地に膝をつき、深く、深く、額が地を打つほど頭を垂れ、そして拳を握りしめる。


その唇には、陶酔を孕んだ微笑が浮かんでいた。

理性と狂信の境界が、今、完全に溶け去った。


「(邪神様の御心のままに……この街を、新たな魔窟とする……!)」


その決意は、もはや迷いのない確信へと変貌していた。

彼の内には「信仰」の名を借りた凶悪な意志が芽吹き、燃え上がろうとしている。


しかし――。


その向かいに立つ張本人、クトゥルは、まるで状況を理解していなかった。


「(えっ…まずいこと言った…?)」


セラフィスの異様な反応に、クトゥルは眉を寄せ、うっすらとした違和感を覚える。

あまりにも嬉々とした反応、あまりにも真剣な眼差し。

だが、考えを深めるには、あまりに面倒だった。


「(まあ、これで納得したならいいか。うん……いいよな?)」


心の奥に渦巻く不安を押し込め、クトゥルは肩の力を抜き、そっと溜め息を吐いた。

思えば、この街での出来事そのものが、彼にとっては不愉快極まりない。

宗教団体との絡みなど、二度と味わいたくもない煩わしさだった。


一刻も早く、ここを離れたい。

それだけを願って、クトゥルは無言のまま踵を返す。


その背後で、セラフィスが静かに立ち上がった。


足取りはまっすぐ、確かな意志に満ちている。

彼の中では、既に答えは出ていた。

この地に新たなる信仰の炎を灯し、聖霊会を内側から覆す。

そのための準備に、今こそ取り掛かる時。


燃え盛る夕陽が、低い角度から差し込み、セラフィスの影を長く伸ばしていく。

だが、その影は、どこか異様で、禍々しい輪郭を帯びていた。

それは、街全体にゆっくりと迫りくる夜の兆し――いや、破滅の前兆。


「……クトゥル様の名において、私は使命を果たします。」


静かに、しかし確かな誓いが口から漏れる。

その声音には疑いも迷いもない。


クトゥルが、何も知らぬままに――。


そして、彼の意図せぬ一言が、やがてこの街全体を歪め、根底から変貌させる引き金となることを、この時、誰も知る由もなかった。



―――




リナウテキメノスの街を後にしてから、どれほど歩いただろうか。

クトゥルたちは人気のない街道をゆっくりと進んでいた。


湿り気を含んだ夜風が木々を撫で、葉擦れの音が涼やかに耳をくすぐる。

空にはまだ雲が残り、黒々とした流れが月を隠しては見せ、朧な光が時折地表を照らす。

その淡い光は、彼らの影を道に滲ませ、ゆっくりと形を変えていった。


街の喧騒は遠く、今ここにあるのは、彼らの足音と風の声だけ。

旅の先はまだ長く、今宵は宿にありつくことも叶わず、やむなく野営を選ぶこととなった。


適当な森の外れで焚き火を起こし、彼らはその周囲に静かに腰を下ろす。

薪がぱちぱちと音を立ててはじけ、橙色の火の粉が夜空へと舞い上がる。

揺らめく炎が、仲間たちの顔に影を落とし、背後の木立に歪んだ輪郭を描いた。


そんな中、炎の向こう側で、ルドラヴェールがぽつりと呟いた。


「……セラフィス、カ」


その声はかすかなものでありながら、夜の静寂の中ではひどく明瞭だった。

エメラルドグリーンの瞳が火を映してわずかに揺れ、静かな興味を秘めて細められる。

その表情に浮かぶのは冷ややかさでも嫌悪でもなく、むしろ淡い関心の色だった。


「中々良イ目ヲシテオリマシタ。」


炎が、彼の厳しい横顔を照らし出す。


「信念ヲ貫ク者ノ目ダ。己ノ信ジル道ヲ見据エテイタ…」


ルドラヴェールの低く抑えた声が、焚き火のはぜる音の合間に溶け込んだ。

その言葉には、静かながらも確かな余韻があった。どこか満足げで、心の奥に響く熱が滲んでいる。


炎の揺らめきが、彼の顔の左側だけを淡く照らし出す。

その鋭い輪郭と、静かに燃えるような瞳が、まるで過去の記憶を見つめているようだった。


ルドラヴェール――荒野の中で鍛え上げられたその肉体と精神は、幾度となく死と隣り合わせに生きてきた。


血の海を渡り、屍の山を越え、ただ生き残るために刃を振るい続けてきた歴戦の猛者。

彼の瞳は、多くの生と死を見てきた者のそれだった。


だからこそ、わかるのだ。

信念という名の火が、いかに人間を燃え上がらせるか。

それが理性を逸した狂気であっても――いや、むしろ、狂気だからこそ、時に人は神にも抗えるほどの力を発揮する。


セラフィスの眼差しには、それがあった。


単なる狂信者ではない。誰かに操られた操り人形でもない。


己の意志で、己の信仰を選び、己の足でその道を進もうとする覚悟。

あの琥珀の目に宿ったものは、偽りのない決意だった。


ルドラヴェールは、心の中でそれを認めた。

戦士として、信念の重さを知る者として。


しかし、彼の隣に座っていた女性は、その言葉に一切の興味を示さなかった。


「ふぅん……興味ないわね…」


エリザベートが、長いまつ毛の下からちらりとルドラヴェールに目を向け、肩をすくめる。

口元には退屈そうな笑み。鼻を鳴らし、焚き火に背を向ける仕草はあまりにも気だるげで、

彼の言葉など、初めから耳に入れる価値もないとでも言いたげだった。


彼女の視線は、焚き火の向こう側――ただ一人の存在に向けられていた。


赤々と揺れる炎を隔てたその先に、静かに佇む青年の姿がある。

クトゥル。

かつて世界の底で目覚めた異形の神性は、その不定形の姿を潜め、今は人間の貌を纏っている。

だが、エリザベートにとっては、形など些細なことだった。


人間の姿であろうと、邪神であろうと。

この世界において、彼以上の存在はないのだから。


焚き火の光が彼女の頬を淡く照らす。

深紅の瞳は、炎そのものよりも深く、激しく燃えていた。

それは信仰という名の熱。

それは、恋にも似た――いや、それを超える、狂おしいまでの憧れ。


「だって、私にはクトゥル様がいるのだからっ」


囁くように放たれたその言葉は、夜の静けさに溶け込みながら、彼女のすべてを語っていた。


微笑は優しく、穏やかで、どこか夢見る少女のようでもある。

だが、その裏には、決して揺るがぬ狂信の炎が燃え盛っていた。


それだけでいい。

それだけが、彼女にとっての絶対的な真理。


パチ、パチ…と焚き火が音を立て、静寂の中に命の気配を添える。

その火音に重なるように、エリザベートは思い出したかのように小さく笑った。


「ふふっ…リナウテキメノスの街の人間たちの顔、素晴らしかったわ…」


あの混乱、あの恐怖、あの畏怖――

すべては、クトゥルの名が刻まれた証。

その記憶が、彼女の唇に妖艶な笑みを浮かべさせる。


「クトゥル様の偉大さが、またひとつ世界に刻まれたのねっ」


世界に広がる彼の名。


それは、まるで闇が夜空を覆っていくように、静かに、しかし確実に人々の心を侵していく。

その現象すらも、彼の威光のひとつ。

エリザベートにとって、それはこの世で最も美しい現実だった。


「…はぁ…最高だわ」


陶酔にも似た吐息が漏れ、彼女の瞳が、炎の光に揺らめく。

それはただの炎ではない。


まるで神聖なる狂気の灯火――信仰と愛情が混ざり合った、ひとつの焔だった。


――だが、そんな視線の先に座するクトゥル本人はというと、実のところ完全に困惑していた。


「(なんか、ただ旅してるだけなのに、勝手に信者が増えてるんだがっ!?)」


思考は混沌とし、戸惑いを隠しきれない。

元々、彼は世界を統べる邪神などではなく、単なる転生した異形にすぎない。

それがなぜか、気がつけば崇拝され、讃えられ、挙句の果てには信仰の対象となっていた。


――本当に、いつの間にこんなことに?


「…………」


周囲の空気が、妙に神聖な静寂に包まれる中、彼はひとつの決断を下す。


――否定するのは、もう遅い。


焚き火の炎を見つめながら、クトゥルはゆっくりと頷いた。


「……ふん…そうなるのも道理よな…」


その声は低く、落ち着いていて、まるで最初から全てを見通していた賢者のようだった。


「(いや、道理じゃないんだけど!?)」


内心で思わずツッコミを入れながらも、それを顔に出すことはなかった。

表情は平静そのもの、邪神たる威厳を保ったまま、彼は夜空を見上げる。


雲間から覗く月が、淡く、どこか不吉に光っていた。

まるで、その月さえも、彼を讃える信者のひとりであるかのように――。



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