神の子と聖霊会④
リナウテキメノスの街に、突如として『邪の神』が降臨した。
宗教団体『聖霊会』が執り行う、月に一度の神迎えの儀式。
神聖なる鐘の音が街に響き渡り、広場には白装束を纏った信者たちがひしめいていた。
彼らは清らかな祈りを捧げ、神の加護を受けるべく天を仰いでいる。
空気は厳粛であり、静謐であり、敬虔なる信仰心が街全体を包み込んでいた。
だが、その調和は突如として崩れ去る。
場違いな不穏の気配が広場に満ちた。
「この御方こそ邪神様っ…讃えなさい、震えなさいっ!」
高らかに響くエリザベートの声。
群衆の中心へと歩み出たのは、紅き瞳を持つ魔族の女。
赤黒いローブを翻し、その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいる。
その傍らには、赤い毛並みに黒い縞模様を持つ巨大な魔獣。そして彼らの背後には、禍々しき異形の邪神がそびえ立っていた。
空間を侵すように蠢く無数の触手。
その表面に無数の眼が瞬き、闇を孕んだその姿は神話に語られる邪神そのものであった。
「邪神…だと……?」
信者たちの顔が恐怖に歪んだ。
誰かが小さく悲鳴を上げたのを皮切りに、人々は大地を踏み鳴らすように後ずさり、次々と逃げ惑い始める。
信仰するは神のみ。邪神など論外なのだ。
「くっ…まさか、大事な儀式に…あんな異物が乗り込んでこようとはっ…」
「セ、セラリウス様っ…こ、これはっ…!?」
「な、なんということだ……!?」
動揺する信者たちの間を縫うように、静かに前へと歩み出た男がいた。
リナウテキメノスの『聖霊会』の教祖――セラリウス。
色素の抜けたエメラルドグリーンの髪を持ち、威厳に満ちた眼差しを持つ男。
その端正な顔に刻まれた皺は、数多の戦乱を潜り抜けてきた証でもあった。
彼は邪神を名乗る異形を見据え、毅然と言い放つ。
「…邪神を名乗る者よっ!。我らが信仰の地を汚すことは許さぬっ。今ここで討ち果たす!」
その言葉が号令となり、未だ広場に残っていた信者たちの怯えは怒りへと変わる。
「皆の者っ…武器を取れっ。邪神の降臨は、˝真˝の神による試練なのだっ!」
「その通りっ…私たちは、邪神を自称する異端者に正義の裁きを与えるのだっ!」
セラリウスの指導者としてのカリスマが、パニックに陥った信者たちの心を引き締めていく。
恐怖は消え、信念へと変貌する。
「私たちは…神の名の元…戦うっ!」
「我々は…邪神などに負けんっ!」
決意の声が上がる。
数十人ほどの信者が武器を取り、邪神討伐の名のもとに一斉に襲い掛かる。
静寂に包まれていた広場は、今や戦場へと変貌した。
聖なる鐘の音が鳴り響く中、戦いの幕が上がる。
―――
信仰。それは、人の理性すら超えた執念を生む。
クトゥルの眼前に広がる光景は、まさにその証明だった。
「あの邪神を討つのだっ!我々の信仰する˝真˝の神のために!!」
「神のためにっ!」
聖霊会の信者たちは、声を張り上げながら一斉に前進した。
手にした剣や槍が煌めき、彼らの目は狂信の炎に燃えている。
彼らは、恐怖を捨てたのだ。
いや、捨てたのではない
――信じる神の名のもと、恐怖を信仰で塗りつぶしたのだ。
先ほどまでクトゥルの異形の姿に震えていたというのに。
神のためなら死も厭わない。
いや、むしろ彼らは、それすらも誇りに思っているのかもしれない。
彼らの、狂気に満ちた信仰に、クトゥルは内心、滝のような汗を流していた。
「(あれだけビビらせたのに!? 普通、ここはひれ伏す流れだろっ!?)」
それがこの世界の住人の反応だとばかり思っていた。
どんなに強気な相手でも、クトゥルの禍々しい姿を見れば恐れおののくはずだった。
だが、違った。
彼らは恐怖を力に変え、信仰という名の狂気に身を委ねて突き進んでくる。
「(いやいやいや、無理無理無理無理!!)」
焦燥に駆られながらも、クトゥルは冷静に状況を整理する。
そもそも、クトゥルのスキルは戦闘力など皆無。
『オール・オブ・ラグナロク(サウンドクリエイト)』のスキルはあるものの、所詮は音を出すだけの無害な能力。
そして『トリックスター』による変身も、この状況では無意味だろう。
すでに、邪神の姿を見せてしまった以上、何に化けようと状況が好転するとは思えない。
現状、クトゥルには武装した信者たちを倒すどころか、傷つける手段すらない。
「(……くそっ……どうする!? どうすれば俺が戦わなくて済む!?)」
脳内で必死に策を巡らせる。
逃げるか? いや、それでは邪神としての威厳が失われる。
ここで「俺はただの一般人でした。ごめんなさい」と正体を明かせばどうなる?
信者たちは冷静さを取り戻し離れるかもしれない。
それなら、まだ良い……それ以上に問題なのは――
背後にいるエリザベートとルドラヴェールの存在だ。
彼女たちは、クトゥルを「唯一無二の邪神」として崇拝する狂信者たち。
もし「自分は邪神ではない」と言った瞬間、この場で粛清されるのはむしろクトゥルの方だ。
エリザベートの黒き雷(超広範囲殲滅魔法)。
ルドラヴェールの圧倒的な牙。
どちらも、クトゥルが敵に回したくない相手だ。
「(詰んだ……! いや、違う……俺は邪神だ。邪神らしく、策を巡らせればいい……!)」
クトゥルは、考える。
どうすれば、自分が戦わずに済むか。
頭に走馬灯が流れそうになるが、その瞬間、全身の神経が研ぎ澄まされる。
閃きが脳内を駆け巡る。
「(……そうだ……これしかない……!)」
クトゥルは、ゆっくりと笑みを作り、堂々とした態度で口を開いた。
「ククク…エリザベート、ルドラヴェール。」
「はっ」
「グル」
後ろに控えた1人と1頭は、クトゥルを見つめる。
「居もしない˝神の信者˝どもにお前たち˝邪神の信者˝としての実力を見せつけるのだ…」
クトゥルは、堂々とした態度で命じた。
まるで「この程度の雑魚は手を汚すまでもない」とでも言わんばかりに。
「邪神クトゥル様の導きのままに」
「オ任セヨ」
静寂を裂くように、エリザベートが一歩、前へと進み出た。
その瞬間、彼女を包む赤黒のローブが音もなく蠢き、滑るように形を変えていく。
禍々しい意志を持つかのようにうねったそれは、血に染まった夜のような布地へと姿を変え、彼女の身体にぴたりと沿うように変形し、妖艶なドレスと化した。
次いで――彼女に変化が訪れる。
彼女の右肩から、不意にそれが伸び上がった。
生物的な脈動を帯び、じくじくと拡がるそれは、まるで翼のような形状をした蔓である。
表面は滑らかさとは無縁で、ねじれた棘が並び、無慈悲に尖ったそれはまるで血の薔薇の枝のような美しさと殺意を湛えていた。
それは、エリザベートが戦うと決めた合図だった。
「ククク…」
やる気のある2人を見て、クトゥルは笑い声を上げた。
「…邪神クトゥルに敵対する愚かなる者どもよ――その身をもって知るがいい。」
低く響いたその声は、夜の底に響く鐘のように広場に染みわたる。
そして次の瞬間、彼女の足元に奔るのは、澱んだ深黒の魔力。
瘴気にも似たそれは、渦巻くように彼女の周囲を取り巻き、空気の色さえ濁らせてゆく。
「我に従える信者の力をな…(いけいけっ…頑張れ、エリザベートっ。ルドラヴェールっ)」
クトゥルの内心の声は軽やかだが、それを口にすることはない。
彼はただ、静かに見守っている。主として、神として、彼女たちがなす破壊の過程を。
ルドラヴェールは無言のまま、静かにその場に佇んでいた。
エリザベートは表情一つ変えぬまま、細く白い指をすっと前方に差し出す。
指先が広場の信者たちを指し示すと同時に、空気が揺れた。
音のない重圧が空間を満たし、視界が歪む。魔力による圧迫だ。
信者たちは一瞬、怯んだ。
それでも、剣を握る手は放されない。かろうじて保たれた信仰が、彼らを縛っていた。
「皆の者っ…私たちには神の加護がついている…恐れるなっ」
祭壇の壇上から、セラリウスが声を張り上げる。
その声は鼓舞であり、恐怖の封印でもあった。
「そ、そうだっ…そ、そんなもの、我らの信仰の前では――」
その言葉が終わるよりも早く――。
「『サンダーボルト』」
エリザベートの冷ややかな声が広場に響くと、閃光が走った。
雷は細く鋭いレーザーとなって、一直線に信者の頭部を貫く。
――鋭すぎたがゆえに。
貫かれた信者は、その場に立ち尽くす。
一歩、前に出る。だが次の瞬間、膝から崩れ落ち、音もなく倒れ伏した。
「っ…ど、どうし――っ!?」
「う、うそよ…し、死んで――っ!?」
言葉にならぬ叫びが信者たちの口から洩れる。
錯乱する彼らの叫びを塗り潰すように、エリザベートの指先から次なる電撃が放たれる。
次々と雷が空気を裂き、信仰と恐怖の狭間に立つ者たちを容赦なく撃ち抜いていく。
ひとり、またひとり――その場に崩れ落ちてゆく。
そして――
ドンッ!!!
広場全体を震わせるような轟音が響いた。
大地が裂ける音。砕ける音。石畳が吹き飛び、白い粉塵が夜の中に舞い上がる。
振り返れば、そこにはルドラヴェールの姿。
その右腕――否、巨大な前脚が、地面を叩き割ったばかりだった。
「な、何だっ…!?」
「グルゥ…エリザベート殿ダケデハナイ事ヲ忘レテ貰ッテハ困ルゾ」
ルドラヴェールが、喉を鳴らした途端、目の前の巨体が消える。
「消え――っ」
気付いた頃には、数十人の信者たちが、ルドラヴェールによって吹き飛ばされていた。
「……ッ!!?」
生き残った信者たちは、思考を奪われたように立ち尽くす。
「(よし、よし、よし!!これだ!!!)」
クトゥルは内心でガッツポーズした。
「ククク…神を信じる弱き魂たちよ…問おう。邪神たる我を信じる信者と貴様らが崇める神の信者…どちらが強い存在だ…?」
声を低く、威厳たっぷりに。
信者たちは、青ざめながら剣を握る手を震わせた。
「どうしたのかしら…?これが貴方たちの言う神への加護なの…?」
嘲笑するエリザベートの言葉に、セラリウスは唇を噛む。
完全な戦力差。
聖霊会の信者たちにとって、エリザベートとルドラヴェールは、あまりに強大すぎる存在であった。
「……くっ……退け!! 撤退だ!!」
誰かが叫び、信者たちは武器を落とし、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ふふ、取るに足らないわね。」
「クトゥル様カラノ力ガアル限リ、俺タチハ負ケン」
クトゥルは、それを見届けると――
「流石我の信者だ…(勝った……! 俺は何もしてないけど…勝ったっ)」
邪神らしく立ち尽くしながら、心の中で安堵の息を吐いた。
―――
「…これは…凄まじいですね……」
呆然とした声が、静まり返った街の空気を震わせた。
それは、広場の隅に佇むセラフィスの口から漏れた言葉だった。
かつて整然とした石畳が広がり、人々の笑い声と靴音が交差していたこの場所は、いまや原形を留めていない。
地面は深く裂け、硬質の石は粉々に砕け散り、瓦礫となって無残に転がっている。
あちこちには焼け焦げた痕跡が黒々と残り、鼻腔をつくのは焦げた鉄と立ち昇る煙の混ざり合った匂い。
肌を刺すような微かな痺れが、空気の中にまだ残る邪気の余韻を思わせた。
戦いが終わってなお、惨劇の名残は街を包み込んでいた。
セラフィスは動かず、ただ琥珀の双眸で眼前の光景を見つめていた。
その頬を伝う汗は、恐怖か、あるいは興奮ゆえのものか――本人にも分からなかった。
(……なんて……なんて凄まじい力なんだ……)
彼の思考は断続的に回りながら、現実を受け止めようと懸命にもがいていた。
ほんの少し前まで、そこには聖霊会の信徒たちが確かにいたのだ。
彼らは神への信仰を背に、剣を取り、命を賭してこの場に立った。
恐怖を押し殺し、最後の瞬間まで神の名を信じていた――はずだった。
だが、その信仰も覚悟も、何の意味もなさなかった。
砕け散ったのは石畳だけではない。
信仰そのものが、一瞬で消し飛ばされたのだ。
紅黒のドレスを纏い、雷撃を操る少女――エリザベート。
彼女の指先がわずかに動くだけで、命は絶たれた。
そして魔獣ルドラヴェールの一撃は、大地そのものを割った。
圧倒的だった。抗えないほどに。
信仰の力を以てしても、届かない絶対的な暴威。
それを行使していたのは、紛れもなく――邪神を戴く異形の信徒たちだった。
神の加護を信じ、剣を掲げた者たちが、
異形に、そして邪神を信奉する者たちに、蹂躙されたのだ。
セラフィスは、己の指先が僅かに震えているのを感じた。
だがその震えが、恐怖によるものか、あるいは別の感情によるものか――それはまだ、彼にも分からなかった。
ただひとつ確かなのは、彼が見ている存在の異質さだった。
目の前に立つその者――邪神クトゥル。
セラフィスはただ、無言で見つめ続けていた。
「(あの信者がこれほどの力を持つなら、彼らの崇める邪神様は、一体どれほどの存在なのか……?)」
セラフィスの胸が高鳴る。
心臓が、まるで鉄槌を受けたかのように激しく鼓動し、血潮が熱を帯びて全身を駆け巡る。
呼吸が乱れる。
胸の内で抑えきれない熱が、内側から彼を突き動かす。
セラフィスは震える手を押さえながら、乾いた喉を潤そうと唾を飲み込んだ。
「本物の……神だ。」
思わず、言葉が零れ落ちる。
それは独白というにはあまりに確信に満ちた呟きだった。
今まで表向きだが、信じた神がいた。
人々が崇め、教会で語られ、絵画の中に収められた神。
幾世代にもわたり信仰され、人々の心を支えてきた存在。
だが、目の前に広がる現実は、そんな空想の神とはかけ離れていた。
この目で見た。
この肌で感じた。
確かな存在。
圧倒的な力と共に、現世に顕現する邪の神。
それこそが――邪神クトゥル。
ぞくり、と背筋を駆け上がる熱があった。
それは恐怖ではない。
純粋な、敬意。
畏怖と畏敬が渦を巻き、彼の内側から溢れ出す。
これは運命だ。
否、邪の神の啓示だ。
セラフィスの中で何かが崩れ落ちる音がした。
古びた信仰が、塵のように砕け散る。
その代わりに、新たな光が差し込む――否、それは深淵。
「(私は……ようやく、本当の神を知った……!)」
邪神クトゥルは人へと体を変え、信者たちは、すでに背を向け、静かにその場を後にしようとしていた。
その背中が遠ざかる。
セラフィスの鼓動が、さらに速まる。
焦燥が胸を締め付ける。
「(このままでは……!)」
もし、彼らがこのまま行ってしまえば――
二度と、真の神の御姿を直に拝むことはできないかもしれない。
セラフィスは思う
――自身の姿を認知して貰わなければならない。
―――この信仰を、今ここで掴まねばならない。
セラフィスは、荒れる呼吸を整えようとした。
だが、昂ぶる感情に体がついていかない。
「……ッ」
揺れる視界。
熱に浮かされたようにくらくらとする頭。
それでも、彼は走った。
たった今、目覚めたばかりの信仰を胸に抱き、邪神の御元へと向かう。
―――
「(よし……何とかこの街を抜けられそうだ)」
クトゥルは、わずかに緊張を滲ませながらも、静かに息を吐いた。
広場に立ち込めていた戦の気配は、今や消えつつあった。
エリザベートとルドラヴェールがその圧倒的な力を示したことで、街の人々は震え上がり、恐れ慄き、家の窓を固く閉ざした。
通りには誰一人として姿を見せず、ただ風が吹き抜けるだけの無人の街と化している。
だが、それはクトゥルにとって望ましいことだった。
クトゥル自身が戦わずしてこの場を後にできるなら、それに越したことはない。
そもそも、自分には戦闘能力がないのだから。
「(とはいえ、神の信仰ってのはすごいな……俺は神とか、ほとんど信じちゃいないけど……あ、でも俺を転生させた創造主は信じてるか)」
自分の中に芽生えた妙な納得に小さく頷きながら、クトゥルは足を進める。
あと数メートルほどで、この街リナウテキメノスを出ることができる。
だが、そのときだった。
――ぴたり。
エリザベートとルドラヴェールが、足と前足を揃えて止まった。
「……?」
クトゥルは違和感を覚えたが、すぐに内心で嫌な予感が膨らんでいくのを感じた。
こういう場面、だいたい何か起こるのが定番だ。
「(……まさか、戦闘フラグ? いや、俺が戦うのはマジで勘弁してほしいんだけど)」
クトゥルは渋々、ゆっくりとした動作で振り向く。
そして、視線の先に一人の男が立っているのを目にした。
人間形態のクトゥルよりも二十センチ以上は高い身長。
貴族のような端正な顔立ちを持ち、右目に泣きホクロ。長身を包むのは純白の聖職者の衣装。
エメラルドグリーンの髪が、風に靡いて揺れ、琥珀の瞳が細められる。
まるで、神の使徒のような神聖さを帯びた青年だった。
「……」
彼は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、静寂の街をゆっくりと見渡した。
「もうお帰りですか…邪の神よ…」
穏やかに響いたその声は、どこか含みを持っていた。
エリザベートが目を細める。
「貴方……誰かしら……?」
対峙する彼女の声には冷えた警戒の色が含まれていた。
「(な、何か強キャラっぽい……?)我が命ずる名を名乗れ…」
クトゥルは内心ビビりつつも、邪神ロールプレイを崩さないよう腕を組み、余裕の表情を装う。
その様子を気にすることなく、青年は静かに名を名乗った。
「失礼しました……初めまして。私は、セラフィス・ヴァルド。教祖セラリウス・ヴァルドの息子です。」
「(あぁ…教祖の子供か…イケメンで羨ましことで…)」
「……教祖の息子…ね。それで?何の用かしら?」
エリザベートが冷ややかに睨みながら問いかける。
「貴方たちが信仰する神を愚弄されて、怒ってる…?まさか、その報復かしら……?」
「まさか…報復何てとんでもない…」
だが、セラフィスはその言葉に対し、微笑を崩すこともなく、静かにクトゥルへと目を向けた。
「……あなたを見た瞬間、私は悟ったのです。」
そう呟くと、セラフィスは静かに、だが確固たる意思を持って膝を折る。
クトゥルを見上げるその瞳には、確かな熱が灯っていた。
「真なる˝神˝は、私の理解の外にあるのだと。…」
その瞬間、クトゥルは凍りついた。
「(……? え、何だこれ?)」
先ほどまで、広場で向けられていた敵意とは違う。
まるで信仰者が神を目の当たりにしたような、純粋で狂気にも似た熱を孕んだ視線。
彼は心からの崇拝を捧げる者の目をしていた。
完全に、クトゥルを――神として見ていたのだ。
「(……ヤバい、これ、どう対応すればいいんだっ!?)」
戸惑いに思考が追いつかない。
だが、そんなクトゥルの混乱を余所に、セラフィスの表情はただ恍惚としていた。
静まり返った街の中で、彼の信仰は確かな形となっていた。
「私が神を信じなかったのは、そこに˝神˝がいなかったからです。
しかし、今は違う……真なる神は、目の前にいらっしゃる。…それが貴方様ですっ…」
跪いたまま、セラフィスは熱に浮かされたような目でクトゥルを見上げた。
琥珀色の瞳は、狂信の光を宿して揺らめいている。
その姿は、まるで天啓を受けた巡礼者のようだった。
「(よりによって教祖の息子が邪神を信仰するって……大丈夫か、これ……?)」
内心の動揺を押し隠しながらも、クトゥルはなんとか冷静を装っていた。
表情筋をピクリとも動かさず、荘厳な沈黙を保つ――邪神ロールは既に慣れたもの、のはずだった。
だが、今回は違う。
これまで幾度となく演じてきた邪神という設定が、今になって予想外の結果を引き起こしつつあるのではないか。
嫌な予感が背筋を駆け上がり、思わず内心で冷や汗が滲む。
そんなクトゥルの沈黙を、目の前の青年はまったく異なる意味で受け取っていた。
それはまるで、神の啓示を授かったかのように――
「……ふふ、可笑しいですね」
セラフィスは微笑みながら、ゆっくりと首を振った。
その表情は静謐で、どこか陶酔にも似た色を帯びている。
「私の人生は、神を避けるためのものだったはずなのに……気づけば、こうして膝をついているとは…。」
かすれたような声が、静寂に包まれた広場に響く。
リナウテキメノスの街は、なおも沈黙を続けていた。
割れた石畳、燃え残る匂い、窓の奥に潜む気配。
誰もこちらを覗かず、誰も声を上げない――恐怖と畏怖が支配する、重苦しい沈黙。
「(……あれ? 俺、またなんかやっちゃいました……?)」
クトゥルは内心で呻きながら、ぎこちなく視線を巡らせた。
それでも態度には一切動揺を見せず、ただ威厳ある沈黙を貫いている。いや、貫くしかなかった。
ふと横を見ると、エリザベートとルドラヴェールは何も言わずに立っていた。
二人とも、どこか達観したようにセラフィスを見つめている。
まるで、何かを察しているかのように――沈黙は肯定であると告げるように。
その時、風が音もなく吹き抜けた。
夜空を覆っていた雲が流れ、月が顔を出す。
銀白の光が、セラフィスのエメラルドグリーンの髪を照らし出した。
その髪がそよ風に揺れるたび、彼の聖職者の衣が光を反射し、まるで神聖な輝きを纏ったかのように見えた。
そして、彼は口を開く。
「私は……貴方様を、邪神クトゥル様を信じ、崇拝します」
その声音はあくまで穏やかで、静かだった。
しかし、そこには一切の迷いがなかった。
信仰者の、それも極めて純粋な信徒のものだった。
「……貴方こそが、私の信じるべき真の神なのですから」
それは、クトゥルの意志など一切関係なく、
彼自身の心から絞り出された、確かな言葉だった。
――そしてこの瞬間。
異端の中の異端、聖光教会の教祖の血を継ぐ者が、
真にして新たなる「クトゥル教」の信者として、誕生した。
世界は、また一歩、狂気に染まっていく。
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