神の子と聖霊会②
リナウテキメノスの石畳を、三つの影が静かに進んでいた。
夜の空に月はなく、星々もまた雲の帳に覆われ、世界そのものが呼吸を忘れたような静けさに包まれていた。
教義が形として刻まれた幾何学的な道は、不自然なほどに整然と磨かれており、石畳には人の気配も塵も感じられない。
ただ、そこを歩く三人の足音だけが、硬質な音となって宵闇に溶けていく。
それはまるで、意図的に整えられ、選ばれた者を導くための儀式の回廊のようだった。
先頭に立つのは、異形の神性をその身に宿した存在――クトゥル。
その後ろを歩くのは、赤黒いローブに身を包んだエリザベートと、現在は大型の猫に見せている魔獣ルドラヴェール。三者三様に異質な存在でありながら、彼らの歩みに迷いはなかった。
「…この厳かな雰囲気…まるで、クトゥル様を迎え入れる準備をしているようですっ。」
エリザベートが、僅かに口元を綻ばせながら言った。
月の見えぬ夜でもなお妖しく輝く彼女の紅の瞳が、敬愛の色を込めてクトゥルを見上げる。
揺れる黒髪は夜そのもののように、風もないのにふわりと広がった。
彼女の言葉は、讃美であり、同時にこの場を支配する緊張感に対する皮肉でもあった。
「人ノ子デモ、我ガ主ヲ信仰スル実二素晴ラシイ事ダ。」
その隣で、ルドラヴェールが静かに言葉を紡いだ。
「(違うんだよなぁ…絶対)」
クトゥルは何も言わなかった。
その神格に近い存在から発される気配は、まるで深淵の底から湧き出る沈黙の圧力のようであり、並みの者であればそれだけで精神を蝕まれていたことだろう。
だが彼の内心では、ほんの僅かに肩をすくめるような呆れにも似た否定の感情が流れていた。
――これは俺を祀る儀式ではない。ただの思い上がりだ。
その想いを胸に、クトゥルは歩を止めず、闇を裂くような視線で前を見据えていた。
闇のように澄んだ瞳が捉えたのは、聖域の中心にある荘厳な広場。
そこには、まばゆい光に包まれた円形の祭壇が設けられており、百人を超える信者たちが、蝋燭の光に照らされながら整列していた。その中央、最も高き壇上に立つ人物の姿があった。
純白の法衣をまとい、両手を広げ、まるで神託を受けた預言者のように、天を仰ぐその姿。
その名は――セラリウス・ヴァルド。「神の代弁者」として人々から崇められる存在。
「私を差し置いて、クトゥル様の代弁者を名乗るなど…おこがましいわ」
エリザベートが低く呟く。
その声には静かな怒りが込められていた。
白磁のような手が口元に上がり、彼女は親指を噛む。
細く整った眉がわずかに吊り上がり、嫉妬と憤りが入り混じった感情がその表情に浮かんだ。
そして、三人の足がぴたりと止まった。
彼らの立つ場所は、広場を取り囲む大理石の回廊の陰。
光の届かぬ暗がりから、まるで裁きを下す神々のように、彼らは冷ややかに祭壇を見下ろす。
炎のゆらめきに照らされながら、儀式は今まさに最高潮へと向かっていた。
祈りの声が、鈍く蠢く空気の層となって広場を包み込んでいく。
だがその中に立つ異形の三者だけが――
その全てを、冷めた目で見下ろしていた。
―――
リナウテキメノスの広場には、どこか現世離れした荘厳な空気が漂っていた。
夜空に揺らめく星々を背景に、円形に広がる広場の中心には大きな焚火台が据えられ、その炎は風にたなびきながら、周囲の人々を暖かく照らし出していた。
淡く燃えるオレンジの光が、信者たちの身にまとう純白の法衣に反射し、まるで天使たちの群れが舞い降りたかのような幻想的な光景を作り出していた。
静かに焚かれた香が、甘くも深い匂いを空気中に滲ませている。その煙はゆるやかに立ち昇り、天を仰ぐ信者たちの頭上に白く絡みつきながら広がっていった。信者たちは目を閉じ、その香煙を胸いっぱいに吸い込みながら、深く静かに祈りの言葉を捧げていた。
彼らの視線の先――広場の正面には、純白の大理石で築かれた大祭壇がそびえていた。幾何学模様と聖印が刻まれたその祭壇は、まるで天界への門を象徴するかのように神秘的な輝きを放ち、今まさに神の気配が降りてきそうな気配さえ感じさせる。
「教祖様。準備が整いました。」
その沈黙の中、一人の司祭が静かに歩み寄り、深々と頭を垂れて報告する。
報を受けた教祖――セラリウス・ヴァルドは、わずかに頷きながら自らの衣服に目を落とし、装束の乱れがないことを確認すると、まっすぐに壇上の階段を上っていった。その姿は威厳に満ち、信者たちの目を自然と引き寄せた。
「教祖様…」
「セラリウス様がお見えになった…」
広場のあちこちから小さな囁き声が漏れる。人々の間にざわめきが広がり、やがてそれは静かな感嘆となってひとつの信仰心に収束していった。
壇上に立ったセラリウスは、聖なる衣装に身を包み、天を仰ぎ見るようにして一瞬まぶたを閉じた。銀糸を織り込んだ法衣が焚火の光を受けて柔らかく輝き、その姿はまさしく「神の代弁者」にふさわしい神聖さを帯びていた。
年輪を重ねた顔には確かな威厳が刻まれ、無駄のない所作が、その存在の重さを物語っている。色素をほとんど失ったエメラルドグリーンの髪は月光と焔の光に照らされ、まるで後光が差しているかのようだった。
セラリウスは、広場に満ちる信者たちの熱心な視線を一身に受けながら、静かに口を開いた。
「私の名は神の代弁者っ。聖霊会の教祖。セラリウス・ヴァルドっ」
その言葉は夜空に深く響き渡り、広場の空気をさらに引き締める。信者たちは息を呑み、ただその声に耳を傾けた。
「この儀式に参加した信者たちよ…よくぞ、集まってくれたっ!」
高壇の上から放たれたその声は、雷鳴のように広場に響き渡った。
セラリウス・ヴァルドの灰色の瞳は鋭く光を放ち、その一言一句が聴衆の胸を深く打つ。夜空の下、焚火台の炎がその瞳に揺れ込み、まるで神意を告げる使者のように荘厳な気配を放っていた。
信者たちはその声に背筋を伸ばし、教祖の言葉を一語たりとも聞き漏らすまいと、真摯な面持ちで耳を傾ける。
白い衣装が一斉に揺れ、無数の人影が一点に向かって信仰を傾ける様は、まるでひとつの生命体が息を合わせたかのようだった。
「この世の闇を…そして、混沌を清め、聖なる秩序を取り戻すために――神の名において…我らは祈るっ!――聖なる神のためにっ!!」
「聖なる神のために…!」
その掛け声とともに、信者たちは一斉に膝をついた。石畳が軋む音すら、聖なる行為の一部であるかのように荘厳な調和をもって響き渡る。人々の目は閉じられ、両手が胸の前で組まれる。広場に充ちていたざわめきはぴたりと止み、そこには静謐と信念に満ちた祈りの空間が広がっていた。
風が優しく吹き抜け、焚火台の炎を揺らす。甘い香の煙が波のように流れ、人々の間を縫って漂っていく。やがて祈りの声が、低く、しかし確かな力をもって響き始めた。
「聖なる炎よ……我らの祈りにより、汚れし混沌を…悪しき存在を浄化せよっ!」
人々の視線は一斉に神聖なる祭壇へと向けられた。その目には疑いの色は一切ない。全ての心が、今ここに、神へと向かって捧げられていた。
その場には、祈りに没頭する者だけがいた――はずだった。
だが、その群れの中に、たった一人だけ、まったく別のことをしている者がいた。
祭壇のすぐ近く、玉座を囲む司祭席の隅に座っている一人の若者――セラフィス・ヴァルド。教祖セラリウスの直系の息子であり、聖霊会において「神の子」と称される存在である。
その身にまとう装束は司祭たちと何ら変わりなく、静かに組んだ両手を膝に乗せ、頭を深く垂れているその姿は、一見すると最も敬虔な信徒そのものであった。
だが――
「…すぅ…すぅ…」
かすかに聞こえるその寝息は、周囲の荘厳な雰囲気を裏切るかのように穏やかで、あまりに無防備な音だった。
彼は、眠っていた。
教祖の息子でありながら、父の儀式の最中に眠っているなど、誰かが気づけば一大事であることは間違いない。だが、奇跡的にその事実は誰にも気づかれていなかった。
その顔立ちは整っており、閉じられた瞼にかかる長い睫毛が焚火の揺らめきに照らされて微かに影を落とす。その様はまるで、深い祈りの中に没入し、神の御声をその身に受けているかのようでさえあった。
「(流石、教祖様のご子息…神の子セラフィス様。我々の祈りなど些細なものだ…)」
傍らの若い司祭が、胸の内でそう嘆息しながら頭を垂れる。その眼差しには羨望すら宿っていた。
だが実際のところ、セラフィスがしていたことはただの居眠りであった。
何百回、いや千に届こうかというほど繰り返し聞かされてきた父の演説――彼にとってはもはや子守唄と化していたのだ。
式典の中心で、誰よりも神聖に見えるその姿は、じつは夢の中を漂っているだけだった。
それでも、彼が「神の子」と呼ばれる理由があるとすれば、それはこの絶妙な欺瞞すらも神聖に見せてしまうその天性の存在感ゆえであろう――。
―――
荘厳なる広場に響き渡るのは、教祖セラリウス・ヴァルドの演説だった。
その声は確固たる信仰の響きを携え、空を仰ぐ無数の信者たちの胸に染み渡る。
燃えさかる焚火台の光が彼の灰色の法衣を照らし、漂う香の煙とともに、まるで神の意志が人々のもとに降り注いでいるかのような、神聖な雰囲気がそこにはあった。
信者たちは一様に膝をつき、両手を組んで祈りに没入していた。
その場は、沈黙すらも祝福と感じられるほどに統一された祈りの空間。まさに聖域だった。
――しかし。
その静謐を、あまりにも場違いな音が打ち破った。
「うふふっ!くだらないわっ!」
狂気を孕んだ、少女のように甲高く、それでいて何かを嘲笑うような声。
「な、何だ…」
「だ、誰が言った…?」
戸惑いと困惑が広場に走る。
静寂に慣れ切っていた信者たちは一斉に顔を上げ、辺りを見回した。
その声は、神聖なる空間には似つかわしくない――いや、まるで神聖さそのものを真っ向から否定するような不遜な響きを持っていた。
全員が祈りに集中していたはずの空気が、まるで硝子のように脆く崩れ落ちる。
「混沌を清める…?聞いてたけど、そんなのは神じゃないわっ。バカバカしいっ!」
声は広場の端、群衆の外れたあたりから響いてくる。
それはどこか艶めきすら感じさせる美しさを帯びながらも、その内容はあまりに挑発的だった。
教祖の演説をまるごと笑い飛ばすかのような物言い。
その大胆さは、信者たちの信仰心を侮辱するに等しい。
「っ…だ、誰だっ…この神聖な儀式を邪魔する不届き者はっ…!?」
壇上のセラリウスが声を荒げた。
その声音は、先程までの威厳ある布教者のものではない。怒気を帯び、明らかに激情の色が滲んでいる。
灰色の瞳が広場を鋭く睥睨し、全身から威圧の気配が放たれる。
ざわめきが信者たちの間を走り、聖域にあったはずの統一感は崩壊寸前だった。
周囲に控えていた司祭たちもただちに動いた。
長衣を揺らしながら祭壇から身を乗り出し、声の聞こえた方角――広場の東端へと視線を集中させる。
焚火の火影がゆらりと揺れ、広場の隅に誰かが立つ人影を映し出した――。
そこに立っていたのは――美しい女だった。
その姿はまるで闇夜の幻想。
風にたなびく漆黒の髪は、夜空よりも深く、光を吸い込むかのように艶めいていた。
肌は青白く輝き、冷たさと気品を宿している。
一目見た瞬間、見る者すべてが息を呑む。だが、それは畏敬でも憧れでもない。
その美しさの奥底には、言い知れぬ異質さと、形容しがたい恐怖が潜んでいた。
彼女の唇に浮かぶ笑みは、狂気そのものだった。
常軌を逸した愉悦がにじみ出ており、ただ立っているだけで人々の心の平衡を奪っていく。
周囲を埋め尽くす信者たちは、皆一様に純白のローブをまとい、清廉なる神の加護を体現していた。
だが、彼女の装いはそれとは対極にあった。
身体を覆うのは、漆黒と深紅が複雑に編み込まれた、見る者に不吉な予感をもたらす異形のローブ。
それはただの衣ではない――身に纏った者の存在そのものを、神聖の対極へと塗り替える、異界の布だった。
「…あら…?誰って私に決まっているでしょう…?」
その声は、聴く者の耳を優しく撫でるような甘美さを持っていた。
柔らかな響きに、まるで夢の中に引き込まれるような錯覚を覚える。
彼女は顎に指を添え、ゆっくりと赤い唇を舐める。その動きすらも艶めいていて、場の空気を狂わせた。
「ふふ…貴方たちは本当の˝神˝を知らないようね…」
その一言が、静まり返った空気に火をつけた。
広場を埋める信者たちの間に、ざわめきが走る。
否定の声ではなかった。信仰の厚い者たちでさえ、彼女が纏う異質な魅力に抗えずにいた。
「…う、美しい…」
「…まるで混沌の女神…」
「…素敵…」
声に出すことすら憚られるような賛美の言葉が、まるで呪文のように囁かれる。
目の前の存在に、自らの信じてきた信仰心すら揺らいでいく――それは、彼女がただそこにいるだけで起こる、圧倒的な現象だった。
祭壇の上、セラリウスはその光景を目の当たりにし、静かに拳を握り締めた。
群衆に走る混乱を鎮めようと、彼はその鋭い眼差しで全体を睥睨しながら、深く息を吸い込む。
そして、鋼のように威厳を宿した声で告げた。
「っ!?…皆の者…静まるのだっ!!」
その一声が広場を貫き、魔法のようにざわめきが収束していく。
神託を聞くかのように信者たちが頭を垂れ、一瞬にして空気が緊張に包まれた。
セラリウスは、ゆっくりと壇の上から彼女――エリザベートに視線を向ける。
「…貴様…いや、貴殿は先ほど仰った…本当の˝神˝を知らないと。それは、˝本当の神˝を知ってると言うことだな…?」
その問いかけは、決して好奇心などではなかった。
そこには明確な敵意と、信仰の正統を脅かす者に向けた警戒が滲んでいた。
この世界における神は、ただ一柱。
それ以外の存在を口にすることは、異端の証。
セラリウスの教義に従う者にとって、それは許されざる背信だった。
だが、彼女は怯むどころか、唇の端をさらに吊り上げ、不敵な笑みを深める。
「…えぇ…もちろんよ…」
その目が、ぞっとするほどに妖しく輝く。
瞳の奥に宿るものは、信仰でも善意でもない――狂気だ。
その瞬間、空気が変わった。
神聖なる儀式の場に、異質な何かが、確かに入り込んだ。
それは、神と信じていたものを根底から覆す、深淵の気配だった。
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