神の子と聖霊会①

静寂に包まれた魔族の集落に、朝日がゆっくりと差し込んでいた。


東の空が淡い金色に染まり、山間の霧が風に流されるたび、光が一筋ずつ地面を撫でていく。


かつて、命が交錯し、絶望と怒号が渦巻いたこの地。


今はただ、戦いの名残を静かに湛えていた。

焦げ落ちた木々の残骸、砕けた岩、地に刻まれた裂傷――それらが、昨夜の激戦を物語っていたが、それでも、そこに立つ者たちの顔に悲しみの影はなかった。


中央の広場。

そこに、異形の姿を象った一本の木像が立っていた。


邪神クトゥル。全身を赤黒く染め、後頭部から伸びる触手、全身に浮かぶ赤き眼。


それはまさに、神聖と畏怖を象徴する像だった。

朝日がその像を照らすたびに、木肌に染み込んだ塗料がわずかに光を反射し、どこか荘厳な雰囲気を纏っていた。


まるでそれが、この地に新たな加護と未来をもたらすことを告げるかのように。


広場の周囲には、ノクスとルーナを筆頭に、生き残った魔族たちが整然と並んでいた。

歓声も喝采も、今はない。ただ深い敬意と、祈りに満ちた沈黙が場を満たしていた。

彼らの前に立つのは、黒き威容を纏った邪神クトゥル。そして彼の左右には、忠臣たるエリザベートとルドラヴェールの姿。


ノクスは静かに歩み出ると、胸に手を当て、厳粛な声音で口を開いた。


「クトゥル様、どうかご無事で……。そして、またいつかお会いできますように。」


風が吹き、ノクスの灰色の髪をそっと揺らす。

その金色の瞳は、強い信念の輝きをたたえていた。


続いて、ルーナが穏やかに微笑みながら、首を縦に振る。


「あたしたちはいつでもクトゥル様をお待ちしています。」


その一言一言が、迷いなき信仰を映していた。


クトゥルはその視線を静かに受け止めながらも、邪神としての威厳を崩さぬように背筋を伸ばし、ゆっくりと頷いた。

漆黒の髪が風に舞い、まるで生き物のようにふわりと揺れる。


「…ククク!貴様たちの忠誠、しかと受け取ったぞ…しかし、我は束縛を嫌う……待つ必要などない。ただ、己の道を進め(少しでも、幸せになってくれよ…うん)」


その声は高く、堂々とした響きを持って集落全体に届いた。

しかしその内には、どこか温かく、密かな願いが滲んでいた。


そう言い放つと、クトゥルは手をひるがえし、踵を返す。

その動作には一切の迷いがなく、絶対的な存在としての矜持が宿っていた。

エリザベートとルドラヴェールもまた、それに続いて静かに歩き出す。


その背中を見つめながら、集まった魔族たちの間から、深い感嘆の息が漏れた。


「はい。クトゥル様の天命…しかと拝聴しました…僕達は己が道を進みます…クトゥル教の信仰を広めるために…」


「クトゥル様の偉大さを…あたしたちで、知らしめないと…」


次々に上がる声。

それらは一つとして作られたものではなく、魂から絞り出された本心だった。

彼らの目には崇拝の炎が燃えていた。信仰は、もはや疑いのない真理となっていた。


だが、クトゥルは一度も振り返らなかった。

その背に感じる熱き信仰と期待を、無言で受け止めながら。


――彼らの未来が、少しでも安らぎに満ちたものであってほしい。


誰にも告げることのないその願いを、心の奥深くにしまいながら、クトゥルたちは歩みを進めた。


やがて、その姿が朝の靄に溶け、地平線の向こうへと消えていく。

それでもなお、ノクスたちはただじっと、崇高なる背中を見つめ続けていた。


それは一つの別れであり、同時に、神話の始まりであった。



―――



朝の光が山の端から差し込み、大地をやわらかく照らしていた。木々の葉は金色に輝き、澄んだ風が肌をなでるように通り過ぎていく。その風は、どこか清々しさとともに、別れの余韻を含んでいた。


静まり返った山道を、三つの影がゆっくりと歩いていた。


先頭に立つのは、漆黒の髪を揺らす邪神クトゥル。その後ろに、金髪を黒髪に染めたエリザベートと、巨大な魔獣ルドラヴェールが控えていた。


背後には、彼らが先ほど旅立ったばかりの魔族の集落が遠ざかっていく。山の中腹に広がるその地は、未だ戦いの爪痕を残しながらも、確かな再生の息吹に満ちていた。


その光景を振り返りながら、クトゥルはふと一息ついた。目を細め、微かに口元を緩める。


「盛大な見送りだったな…(ここまで感謝されるとは思わなかった)」


吐き出すようなその呟きは、虚無の仮面の下に隠された素の感情だった。


隣を歩くエリザベートは、嬉々として声を弾ませ、胸を張る。


「当然ですっ。クトゥル様の偉大さに気づかぬ者など、この世界に存在しないですからっ」


その言葉には、盲信ではなく揺るぎなき信頼が宿っていた。彼女の赤い瞳はまっすぐで、神を崇める信徒そのものだった。


ルドラヴェールも、エリザベートの言葉に同調するように「グル…」と低い唸り声をあげ、静かに頷く。その双眸には主への忠誠と信頼が宿っていた。


クトゥルは二人の反応を見て、満足げに腕を組む。肩を揺らしながら歩くその姿は、威厳に満ちていた。


そして、空を見上げる。高く澄んだ青空の中に、流れる雲がいくつかたなびいていた。


「ふっ…そうか(うんうん…転生生活は…絶好調だっ…)」


胸の内で密かに喜びをかみしめる。邪神としての威光は、確実にこの世界に根付き始めていた。


しばらく歩くと、山道の先に人影が現れた。どうやら別のルートから下山している一団らしく、旅人や商人らしき人間たちが数人、ゆっくりと道を歩いている。


彼らの視線が、ふとクトゥルたちの方へ向いた。そして次の瞬間、驚きと恐怖の混じった空気が漂う。


「っ…」


一人が小さく悲鳴を上げた。数人が慌てて道の端へ避け、腰を抜かしかけた者すらいた。


まるで天敵の前に立った小動物のように、彼らはクトゥル一行から目を逸らし、頭を低くして道を譲る。


その様子を見て、クトゥルは内心で勝利の笑みを浮かべた。


「(ふっ…ようやく、俺も強者のオーラを放てるようになったか…)」


人々の視線、畏れ、避ける動作。それらすべてを、自身の放つ威圧感によるものだと信じて疑わなかった。


だが真実は異なる。


人間たちが見ていたのは、クトゥルではなく、彼の背後に歩いていたルドラヴェールだった。


全身を覆う炎のような赤い体毛、鋭い牙、野生を秘めたエメラルドグリーンの眼――彼はただ黙って歩いているだけで、見る者すべての本能を恐怖で締めつける異形の存在だった。


それでもクトゥルはその事実に気づかないまま、自らの「カリスマ」がもたらした影響だと信じ込んでいた。


山道を抜けると、視界が一気に開ける。丘の先、広大な平野の中央に、城壁に囲まれた街が見えてきた。陽の光に照らされ、白い石造りの壁が遠くに輝いている。


「エリザベート…あの街は名は何だ…?」


そう問いかけるクトゥルに、エリザベートはすぐさま地図を取り出し、確認して答えた。


「はい。…リナウテキメノスという街になります。」


「リナウ……そうか…(言いにくいな…)」


長く、舌を噛みそうな名だったが、それなりに栄えた街のようだ。城門の前を通る街道には荷馬車が行き交い、旅人や商人たちが列をなしている。活気と商業の匂いが遠目にも伝わってきた。


クトゥルはその風景を眺めながら、満足げに言った。


「今日は、あの街で休むぞ。」


その一言に、エリザベートは即座に姿勢を正し、声を張る。


「はい。クトゥル様の答えに従いますわ。」


ルドラヴェールもまた、無言のまま、主への忠誠を示すように深く頷いた。


朝日が高く昇りつつある空の下――三人の影が街道を進んでいく。




―――



リナウテキメノス――


壮麗な神殿と石造りの街並みが広がるその都市は、古より「神に選ばれし聖域」として知られていた。


白大理石で築かれた尖塔と神殿が空に向かってそびえ立ち、その麓には格式ある建造物が整然と並ぶ。


街の中心に位置する巨大な広場では、月に一度、神を迎える儀式が厳粛に執り行われようとしていた。


この日も例に漏れず、広場には無数の信者が集まり、静寂のうちに祈りを捧げていた。


広場の近くにある聖霊会の教会。

高く広がるドーム状の天井には天使のフレスコ画が描かれ、燭台の淡い炎がその絵を揺らめかせている。


大理石の床に反射する光は神秘的な光彩を帯び、全体を包む香の甘い香りが、この場をより神聖なものに変えていた。


その教会の二階、彫刻が施された石の手すりに身を預け、一人の青年が信者たちを見下ろしていた。


セラフィス・ヴァルド。


腰まで届く深いエメラルドグリーンの長髪は滑らかに揺れ、右目の黒子が彼の顔立ちに艶を添えていた。


琥珀色の瞳は、炎の明滅の中で氷のような光を放ち、今も無言で人々の祈る姿を見下ろしている。


その身を包むのは、白を基調とした聖職者の礼装だった。

緻密な刺繍が裾にまで施されたそれは、陽光と燭火を浴びて鈍く輝き、見る者に威厳と神性を思わせる。

だが、その衣の奥にある彼の心には、微塵の信仰も宿ってはいなかった。


「……はぁ、今月も…また、くだらない儀式をやるつもりなのですね…」


琥珀の瞳がうんざりした色を帯び、誰に語るでもなく、静かに呟いた。

その声は祈りに没頭する群衆には届かない。だが、その場にいた者のうち、ただひとりだけがそれを聞き取った。


「…セラフィス…こんな所で何をしている…?」


深く、威厳に満ちた低音。

その声と共に、荘厳な気配を纏った壮年の男が現れる。


長身で背筋を真っすぐに伸ばした彼は、セラフィスと同じくエメラルドを思わせる髪を持っていたが、色は淡く落ち着いた光を宿していた。

灰色の瞳には、一点の迷いも曇りもない。


彼が歩くたび、首から下がる金のネックレスが炎の光を反射し、厳かな存在感を示していた。


セラフィスはその姿を一瞥したものの、すぐに視線を逸らし、興味をなくしたように肩をすくめる。


「…父さん…いえ、特に何もしていません…」


飄々としたその答えにも、男は怒りを露わにすることはなかった。

ただ静かに、教会の中心――祈りの場を見下ろしながら告げる。


「…なら、降りてこい…広場にて、もうじき儀式が始まる。将来は、私の跡を継ぐのだ…しっかりするんだな…」


そう言い残し、男は踵を返す。

背に燃え尽きる炎のような威圧感を残しながら、彼は荘厳な階段を下っていった。


男の名は――セラリウス・ヴァルド。

宗教団体『聖霊会』の教祖にして、この教会における絶対の権威を握る人物だった。


誰もが彼を「神の代弁者」と呼び、膝を折り、恭しく額を地につける。

その統率力と信仰心は誰しもが認めるところであったが――セラフィスにとっては、ただ一人の父であり、同時に檻の番人でもあった。


この教会、この組織、この信仰。

すべては幼い彼を閉じ込めるために設けられた牢獄でしかなかった。


セラフィスは「神の子」として育てられ、笑顔、慈愛、敬虔さ――聖なる者としての˝役割˝を父から課せられ続けてきた。

それは彼の人格や意思とは無関係に定められた宿命であり、逃れる術はなかった。


しかし――彼の中には、最初から神など存在していなかった。


信仰も、奇跡も、救済も、すべては人間が作り出した虚構。

この神殿で語られる˝目に見えぬ神˝など、ただの幻想でしかない。

人々が縋るその概念を、彼は冷ややかに見つめていた。


けれど、その本心を口にすることは叶わない。

彼は聖霊会の後継者として生まれ、教祖の息子という重い十字架を背負ってきた。

もしもそれを放棄すれば――彼を待つのは追放か、あるいは異端者としての粛清だ。


だから、彼は逃げることができなかった。


この日もまた、父の演説が始まり、信者たちは喜々として跪く。

祈りの言葉が天を仰ぎ、涙を流しながら赦しを乞う姿が広がっていく。


セラフィスの胸に広がるのは、冷たく沈殿した倦怠だけだった。


「また、いつも通りの退屈な一日が繰り返される……」


彼は静かに呟くと、手すりに肘をつき、琥珀色の瞳をそっと閉じた。

まるでその奥に、本当の神が現れる日を夢想するように――あるいは、それすらも信じていないように。



―――




石造りの城壁が空を裂くように聳え立ち、陽光を跳ね返す灰白の石肌は、威容と歴史の重みを同時に感じさせた。


その巨大な門の前には、鋼鉄の鎧に身を包んだ兵士たちが数人、槍を携えて直立不動の姿勢を保っていた。彼らの眼差しは厳しく、街の入口に近づく者一人一人に警戒を向けている。


一触即発の緊張感が張りつめるその場から少し離れた木陰に、数人の影が身を潜めていた。


先頭に立つのは、どこか異様な雰囲気を纏った青年だった。


クトゥル。

この世界のどの種族にも属さない異質な容姿を持ち、まともな市民であれば一目で「何かおかしい」と察するであろう男。


その黒い装束(学ラン)にはどこか重たげな空気が彼の周囲にまとわりついている。


だが、そんな彼以上に周囲の注意を引く存在が、彼の傍らにいた。


「(俺も異質ではあるけど、それより…ヤバいのは…)」


ちらりと視線を送った先に立っていたのは、獣の王と呼ぶに相応しい魔獣――ルドラヴェール。


その巨躯は二メートルを優に超え、赤銅のような毛並みには黒い縞が奔る。肩幅は広く、隆々とした筋肉が体躯の至るところに浮かび上がっていた。牙は鋭く長く、岩をも噛み砕きそうな迫力を帯びており、前脚の爪はまるで武器のように鋭利だった。


一歩踏み出せば地が軋み、ただ立っているだけでも周囲を威圧するような存在感。ルドラヴェールは、紛れもない魔獣の頂点に立つ存在だった。


クトゥルにとっては誇り高き仲間だが、一般の人間にとっては悪夢そのものである。


このまま堂々と門へ向かえば、兵士たちは間違いなく剣を抜くだろう。街の中は瞬く間に恐慌に陥るに違いない。


彼は静かに、深く息を吐いた。


「……ルドラヴェールは…見張りを突破できないか…」


その問いに、ルドラヴェールは誇らしげに牙を覗かせ、どこか愉しげな響きを込めて応えた。


「オ任セヨ。俺ノ牙デ、アノヨウナ貧弱ナ門ヲ突破シテゴ覧二イレマショウ…グルゥ…」


その頼もしい――しかしあまりに物騒な返答に、クトゥルは眉根を寄せた。右手をそっと掲げ、制止の意思を示す。


「力での突破のことではない…エリザベート。何か策はあるか…?」


視線を向けた先に立っていたのは、混沌のローブを優雅に纏った真祖の吸血鬼――エリザベート。


彼女は一瞬だけルドラヴェールに目を向け、小さく溜息をついた。紅い瞳に宿る冷静な光が、状況を即座に分析しているのが見て取れる。


「ルドラヴェールはここで待ってなさいと言いたいけれど、クトゥル様のためだし…仕方ないわね…」


彼女は静かに右手を掲げ、指先に淡い魔力の粒子が集まり始める。そして、感情のこもらぬ抑揚で呪文を口にした。


「トランスフォーム」


「グルッ!?」


魔力の光がルドラヴェールを包み込んだ。幻想的な光彩が彼の巨大な体を包み、次第にその姿を小さくしていく。


猛々しい鬣は丸くまとまり、鋭い爪はぷにりとした肉球へと変わる。牙も収まり、やがて目の前に現れたのは――気品すら漂わせる赤い毛並みを持った、ふわりとした猫の姿だった。


ルドラヴェールは無言でエリザベートを睨んだ。

エメラルドグリーンの瞳が鋭く輝き、その視線は「勝手にやるな」と語っていた。


だが、エリザベートは涼しい顔のまま、感情の欠片もない声で告げた。


「これで問題はないかと。」


その様子を見たクトゥルが、感嘆混じりの声を漏らす。


「ほぉ…それは、変身魔法か…?(唯一のスキルだと思ってたのに…)」


だが、エリザベートは首を静かに横に振った。


「いえ、クトゥル様のお力とは天と地の差があります。この魔法はトランスフォームですが、実際は幻影を見せるだけの魔法です。それに触れられれば、すぐに魔法が解けてしまいます。」


「そうか…(良かった。俺のアイデンティティが損なわれる所だった…)」


安堵しながらルドラヴェールを一瞥し、クトゥルはその視線を再び彼女に向けた。

その目はどこか期待と高揚に満ちて輝いている。


「さあ、行きましょう。クトゥル様っ」


「……あぁ…」


エリザベートの言葉に、クトゥルは静かに頷いた。

一度だけ変わり果てたルドラヴェールの姿を見やるが、これ以上彼の機嫌を損ねても厄介だと察し、あえて何も言わず門へと足を踏み出した。



―――



門番の兵士たちは、ちらりとこちらを一瞥しただけで、特に咎めることもなく、そのまま目を逸らした。


異国の風を纏った男と、やや大きめの赤毛の猫――彼らを見て何を思ったのかはわからないが、少なくとも剣に手をかけるような動きはない。

もしかすると、あまりに得体の知れない存在ゆえに、関わりたくないと考えたのかもしれなかった。


いずれにせよ、クトゥルたちは無事に街の中へと足を踏み入れた。


石畳の道を進むと、街は意外なほどの賑わいを見せていた。

通りの上空には色とりどりの布が渡され、風に揺れてひらひらと踊っている。


建物の窓辺には花が飾られ、あちこちからざわめきが聞こえた。


「……何だ…騒がしいな?」


クトゥルが足を止め、眉をひそめながら周囲を見渡す。

広場の方では人々が集まり、何やら神聖な儀式の準備が進められているようだった。

目を凝らせば、祭壇の周囲には白い衣をまとった僧侶たちが並び、荘厳な調べを口ずさむようにして詠唱を捧げているのが見えた。


祭壇の後方には、白石を積み上げたような神殿がそびえ、その正面には神を讃える文様が刻まれていた。


広場の中央には炎が高く燃え上がる巨大な焚火があり、その揺らめく火はまるで神聖な意志を宿しているかのように感じられる。


漂う香は甘く、どこか陶酔を誘うような香気を帯びており、空間全体が幻想に包まれているようだった。


通りすがりの市民たちの会話を耳に入れると、どうやらこれは月に一度執り行われる「神を迎える儀式」らしい。


信徒たちは、この日に祈りを捧げることで神の加護を受けられると信じている。

この街に古くから伝わる、敬虔なる祭礼のひとつだった。


教会前の広場では、多くの信徒たちがひざまずき、両手を天に掲げて黙祷を捧げていた。

一様に厳かな顔つきをし、誰一人としてその静けさを乱そうとする者はいない。


どこからともなく響いてくる鐘の音が、冷たくも美しい余韻を空気に刻み、

この場に立つすべての者を、ただならぬ神聖さの只中へと誘っていた。


その光景を、クトゥルはただじっと見つめていた。


「(神…ねぇ…)」


「ふぅん…神を迎える儀式、ね……ふふっ」


エリザベートが微かに息を吐くように呟いた。

その声音は一見穏やかだが、内側からじわりと熱を滲ませるような、妙な艶と熱気を帯びていた。

まるで、神聖な祈りに触れたことで何かが彼女の中で刺激されたかのように。


クトゥルはそんな彼女の横顔に視線を向け、ふと違和感に気づく。


エリザベートは、広場の神聖な儀式を凝視していた。その瞳は潤み、頬はわずかに紅潮し、唇の端がゆるやかに吊り上がり吸血鬼らしい少し伸びた犬歯がキラリと光った。


不意に胸の奥で何かがざらりとこすれるような、そんな感触がクトゥルの中を走る。


「……?(何だろう…この顔を見ると嫌な予感がする…)」


じわりと警戒心が膨らむ。

クトゥルが目を細めた瞬間、エリザベートが一歩前に出た。

指を組み、胸の前で捧げ持つようにして、興奮を隠しきれない声で言い放つ。


「神を迎える儀式っ。…つまりは、邪神たるクトゥル様を迎える儀式なのですねっ」


その一言に、クトゥルは心底困惑したように首を傾げた。


「え…?」


その言葉が波紋のように広がる前に、ルドラヴェールが喉を鳴らし、体を震わせて共鳴する。


「ッ…ナルホドッ。ココハ、邪神タル、クトゥル様ヲ崇拝スル街ナノダナ。」


「その通りよ。ルドラヴェールっ。」


自信に満ちたエリザベートの声が、場の空気に楔を打ち込むように響く。

一瞬の静寂のあと、クトゥルは内心で大きく絶句した。


「(…いや、違うと思うんだよなぁ…けど、ここで否定するのも…あれだし)」


もはや反論する気力もわかず、半ば自暴自棄に近い感覚で、クトゥルは口元に薄い笑みを浮かべた。

あえて余裕を装うように、わざとらしく低い声で呟く。


「ククク…そうかもしれぬな…だが、我は下らん催し物などに興味はない…」


ゆっくりと腕を組み、その場をやり過ごすように一歩下がる。


威圧とも取れる態度をとることで、せめてこれ以上騒ぎが広がらぬようにと願ったのだ。


だが、その目論見は一瞬で崩れる。


エリザベートの双眸が、夜の焔のように妖しく輝く。


「下らなくなどありませんっ…クトゥル様は崇高な存在。クトゥル様を迎えるという素晴らしい儀式ですっ。」


その声には狂信にも似た確信と情熱が込められていた。

視線はまっすぐにクトゥルを捉え、ひたむきに、どこまでも純粋に、彼を邪神として見つめている。


「…」


クトゥルは返す言葉を失った。

否定して説得するのも面倒。肯定してしまえば、さらに面倒。

何より、押し寄せるようなエリザベートの熱に、もはや抗う気すら起きなかった。


顔にはうっすらと諦めの色が滲む。


その間にも、エリザベートは意気揚々と歩を進める。

まるで勝利の凱旋のように、堂々と、誇らしげに。


「さぁ、行きましょうっ。クトゥル様っ」


「グルッ」


ルドラヴェールも後に続き、先陣を切る軍獣のごとく威風堂々と前を進む。

その尻尾が誇らしげに揺れ、信仰心を宿した者のように誇らしげに歩を刻む。


「…ま、まぁ、見るだけなら…大丈夫か…」


クトゥルは小さく溜息をつくと、仕方なさそうに後を追った。

その背中には、若干の疲労と、言いようのない運命への諦念が漂っていた。


そしてその先では、まさに今――

盛大な『神を迎える儀式』が始まろうとしていた。




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