第5話 カズヤという過去

午後1時38分


僕は、大学の本を読んでいた。

秋の風にページの端がペラペラと捲られる。

その煩わしさと鼓膜を揺らす声高い笑い声に僕は何度も現実に引き戻されてしまう。


本の中の世界と講堂の前に広がった芝生にたむろする学生たちの声の間を僕は行き来していた。


本の中の世界では主人公が自分の恋愛観と社会とのズレに悩んでいる。

僕はどうだろう?向き合えているのだろうか。


本に影が落ち「何読んでんの」とカズヤが上から僕を見下ろす。


僕は彼に微笑みかけて「なんでもいいだろ」と返した。


「まあ、いいか。昼飯食っていくか?」

「いや、外で食べようよ。学食は飽きたし」

「値段の割に美味しくないしな」


そう言うと彼は、パーカーのポケットに手を突っ込みながら背伸びをして「行こうか」と笑った。


僕はカバンに本を突っ込むと立ち上がった。

ああ、きっとどこまで読んだか分からなくなったな……


「どこ行く?」

「いつものカレー屋でいいだろ。ハルト、あそこ好きだし」

「遠いじゃん。567限あるんだよね」

「うぇー!なんでそんな授業取ったんだよ」

「仕方ないよ。卒業要件だし」

「あっそ」


僕らは談笑しながら大学の南門を出てすぐのラーメン屋へ向かった。


そこには二軒のラーメン屋が並んでいて、僕らは醤油豚骨を出す店を贔屓していた。


「カズヤは今日はもう終わり?」

「まあね。4限はサボり確定してるし」

「4限?あと10分じゃん」

「だから、サボり確定」


彼はニッと笑うとピースした。


そこへ店員がやってきて「好みはありますか?」と聞いてきた。


「麺は硬めで、あとは普通。あ、コイツも同じで」とカズヤが僕を指差す。


それを聞いた店員が僕をチラッと見たので、黙って小さく頷いた。


「来年からのゼミ、どうすんの?ハルトはやっぱり、このまま哲学?」

「うーん……悩んでるんだよね。哲学なんかやってどうすんのー、って親がうるさくて」

「でも、他に要件満たしてる専攻あんの?」

「一応、文学……」

「文学?変わんねえじゃん」

「だよね。そう言ってんだけどさ」


僕らが話しているうちにラーメンを運んだ店員がやってきた。

やけに早いな、と僕は思いながらラーメンが机に置かれる様子を見ていた。

湯気が微かに揺れては消えていく。


カズヤは割り箸を口に挟んで割ると、サッサッとすり合わせて「いただきます」と手を合わせた。


僕も「いただきます」と手を合わせて割り箸を割った。


「縁起悪いな」とカズヤが僕の割り箸を指差す。

僕は先が細く尖った割り箸に目を落としてから「食えりゃいいよ」と呟いた。


「冷たいな」とカズヤが言った。

「え、ごめん」

「いや、ほうれん草。凍ってる」

「ああ、ラーメンの話か。出るの早かったもんね」

「それでかなー」


僕らがラーメンを食べ終わる頃、外には少しだけ列ができていた。


「良かったな、混む前で」

「そうだね」


カズヤはまたポケットに手を突っ込むと背伸びをして「戻りますかー」と言った。


「カズヤはもう授業ないんだろ」

「まあねー」

「帰れよ」

「まあ、いいじゃん」


僕らはキャンパスまで歩いて戻った。

講堂の中、大理石の床の音を響かせて学生たちが歩いていく。


カズヤは僕を教室の前まで送ると手を出した。

僕はその手を覆うようにして握ると「また明日」と言った。


これが僕らにできる精一杯の愛情表現だった。


午後7時30分までの授業を僕は集中できずにいた。いつものことだが、この授業をとったことを後悔している。


黒板の前では、海外から来た教授が熱心に日本文学について語っている。

暗喩や婉曲表現、歴史的な背景など……

まるでその時代、その場で作者と会って話してきたかのような口ぶりで彼女は滔々とうとうと話を続けていた。


ふと窓に目をやると暗い影は教室の光を反射して僕の顔をぼんやりと浮かび上がらせた。


僕は昔から鏡が苦手だった。僕は自分を愛せなかったし、男に生まれたことを恥じていた。

いいや、男としての役割を到底果たせそうにない自分を恥じていたのだ。


そして同時にカズヤを想った。

彼は唯一、僕にとって「それでもいい」と思わせてくれる存在で……

一方の彼は僕と居て「それでもいいか」と思えているのだろうか。

彼が彼らしくいるために、僕に何か意味はあるのだろうか。


チャイムが鳴り授業が終わる。

教授は生徒に「黒板を消しておいて」と言って、足早に教室を出ていった。


カバンにノートをまとめて入れようとすると、昼間に読んでいた本が床に落ちて開いてしまった。


自認と社会の役割との間で揺れていた主人公が自害する描写が目に止まる。

ああ、主人公は自分を罰したんだな……思わぬネタバレだ。


そう思いながら、僕は本を拾い上げてまたカバンにしまった。


キャンパスを出て駅に向かっていく道中、僕はカズヤの姿に気がついた。誰かを待っているようで、彼は僕に背を向ける形になっていた。

いつも大学の名が入ったパーカーを着ているので彼はどこにいても目立っている。


僕は声をかけようと近寄ったが、その時カズヤは右手を挙げて誰かに手を振った。


素朴だが小綺麗な服をした女性が駆け寄ってきて「ごめんね、待たせたよね」と声をかけている。


カズヤは「全然」と首を振ると徐にパーカーから手を出した。


そして2人は手を握り、繁華街へと歩いていった。


僕は何だか悔しいような、悲しいような……

それでいてどこか納得感のある気持ちがして、ふーっと息を吐き出した。


冬の訪れを告げるように、僕の息は白く染まり

秋の夜空にふわっと溶けて消えていった。

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