勅命を拝す
第5話 嘉定帝
にもかかわらず、官服は同じ緑袍で
(こいつと一緒なのが、納得いかねえ……)
汗一つ流さず禁中にやってきた、涼しい顔の史鳳を、景雀は恨みがましい目で睨んだ。
準備が整ったのは未時も半ば[* 午後二時~三時頃]を過ぎた頃。殿廊から仰ぎ見た日差しはまだ高いが、傾くのもじきだろう。
「礼はよい。面をあげ、立ちなさい」
御年五十一歳の皇帝――嘉定帝は柔らかな声で二人に呼びかけた。戸惑いながら互いの顔を見、恐る恐る景雀は立ち上がる。
「
嘉定帝から、やたら親し気に呼びかけられて、景雀は戸惑った。
「あ、ええ、まあ。陛下にそのように気にかけていただけるとは、光栄の至りでございます」
「先日は五人がかりで剣を向けてきた相手を、一人で打ち負かしたそうじゃな」
「そ、それは……」
「よい、よい。朕はそなたのそういう快活なところが気に入ったのじゃ」
「……」
喧嘩するほどの粋のよさを気に入られたのは事実だが……とはいえ、面白がって観察するのは止めて欲しい。
戸惑い、困る景雀を見て満足した嘉定帝は、何事もなかったように表情を引き締める。
「そなたらは、
「……えっと……」
動揺のあまり、素が出そうになった。助けを求めるように史鳳を見ると、動じぬ顔で静かに長揖の体勢を取ったところだった。
「存じております、陛下。かつて宋の都が開封にあった頃に造られた、観測施設の傑作のことでしょう」
「さすが太史局正、そのとおりじゃ」
(俺は皇城司なんですが!?)
……と、言いたい気持ちを堪えながら、淀みなく答えた史鳳を見る。彼はまだ言葉を続けたいようで、「恐れながら――」と言葉をつづけた。
「高さは約四丈におよぶ巨大な
史鳳の答えに満足したように、嘉定帝は大きく頷く。
「惜しむらくは、開封が金に攻め入られた際に水運儀象台が持ち去られてしまったこと。百年以上前の作品でありながら、いまだに我々は同じ境地にたどり着くことができておりません」
「うむ。金は持ち去った儀象台を
当時のことは景雀もよく覚えている。燕京――いまは中都というそうだ――に皇城を構えていた金の皇帝たちが、一族を率いて一斉に開封へと移ってきたのだ。仇敵同士とはいえ金と宋とは形ばかりの和解をし、交易も盛んである。首都が開封に移ったことで、臨安内に流通する金からの品物が爆発的に増え一気に交易の様相が様変わりした。
燕京が陥落したとの知らせが臨安内を走ったのは、それからしばらくあとのこと。
そんな景雀の思いをよそに、嘉定帝はなおも儀象台の話を続ける。
「よくよく考えれば、金に奪われて以降、儀象台がどのような運命をたどったのか、現在どうなっているのか。我々は何一つ知る術を持ってはおらぬのだ」
そう語った嘉定帝の口調は、口惜しそうだ。
「現状――
嫌な予感が背筋を伝う。
(ちょっと待て。燕京に潜入って言ったよな。陛下に呼ばれたのは俺と丁太史局正の二人。ということは……)
嘉定帝は玉座から立ち上がると、ゆっくりと史鳳の前に歩み寄る。やや足元がおぼつかない様子を見かね、無礼であるのは承知の上で景雀は嘉定帝の手を取り歩みを支えた。
「
史鳳は厳かに頭を下げる。
「そのとおりでございます、陛下。蘇頌を祖先に、そして
「そなたが天文について善く学んだのは養父の影響が大きいと聞いておるぞ」
「はい。私を拾い、育ててくれた養父は、我が子と比べても謙遜ないほど分け隔てなく天文についてのさまざまな知識を教え導いてくださいました。私はその恩に報いるために、そして養父の名に恥じぬよう、これからも陛下にお仕えする所存でございます」
「朕が申すことを、そなたならすでに理解しているであろうが……」
ぼんやりと二人の様子を見守っていた矢先、嘉定帝の視線が景雀を見た。目が合った気まずさに、景雀はぎくりと視線をそらす。
(理解してないのは俺だけか!)
ついでに嘉定帝の向こうより、史鳳の冷たい視線がぐさぐさと刺さる。
そうはいっても己は完全に門外漢。史鳳が呼ばれた理由は分かったが、どうして自分が呼ばれたのか、まだ理解していないのだ。
「朕は儀象台についての知識を持つ太史局と、その護衛として皇城司親従官から一人ずつ選び出し、蒙古領となった燕京に潜入させることにしたのだ」
なんだって――と叫びかけた喉をぎゅっと締め、代わりに景雀は目を見開いた。ようやく自分が呼ばれた理由を理解したからである。
「養父の悲願を叶えることこそ、わが生涯の悲願にございます」
涼しい顔で即答した史鳳に呆れる余裕もなく、景雀に視線は向けられた。
「では二人とも、
覚悟を決めて、景雀は長揖の体勢をとる。
「臣」
二人の声が重なった。
勅命を断ることなど、不可能なのである。
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