第3話 レオナルド・ディカプリオは私におむすびを握ってくれるか?


 散々だった。


 病欠仮病の常習犯による職場の慢性的な人員不足でオーバーワークが加速し、飼育しているハムスターはめばちこを作り、忙しくて構えなかったぬか床は拗ねてセメダインの臭いを発した。


 私の人生は大体こうだ。


 34年も生きていると、大体のことに諦めがついてくる。


 自分で自分に与えられる喜びなんてたかがしれているし、そうなると必然的に人生で掴める幸せの大きさと言うのも想像がつくようになる。


 無計画に家電を買うことはやめて、きちんと置く場所の寸法を測ってからホームセンターへ行くように、手に入れられる範囲での幸せに甘んじるのだ。


 レオナルド・ディカプリオが私におむすびを握ってくれることはないが、パートから帰った私のために夫は残り物で雑炊を作ってくれている。


 それでよかった。


 そこへ行くと、なぜ身の丈に合わない創作活動をしているのだろうと思う。矛盾している、私の人生訓に。


 哲学の考え方に、オッカムの剃刀というのがある。「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」というものだ。


 例えば、魂を定義した時に、人間の脳みそが司る機能と重なるし、わざわざ魂という別のものを仮定せずともいいではないかということ。


 果たしてそうだろうか。脳みそは肉体と共に滅ぶが、魂はそうではないはずだ。


 私は、魂を残したい。


 誰かに届くとか響くとか、それは私の持ち場に置ききれない幸せだが、私は私の作品として自分の手の中に収まる幸せを作り温めていこうと思う。


 以前、こんな短歌を作った。

「とりあえず島忠に行く あらかじめ測った幸せの大きさで」

 多分、これが私の人生におけるスタンスの全てだ。


 人員不足は障害者雇用の新人で補充され、ハムスターのめばちこは点眼してもあまり効果が見られない。ぬか床は少しずつ機嫌を戻して、また良い匂いに戻ってきた。


 寝る前に少しずつ、温めた物語を紡いでいく。


 当面、それでよかった。

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