第3話 三年間の研鑽(ニ)
肉体の鍛錬が二年目に突入した頃、スレイは戦場を地下訓練場から王都の裏社会へと広げた。リゼットの裏切りが、彼女個人の計画に留まらず、次元を逆行させるほどの巨大な力――「魔力の澱み」と関連している以上、その正体を探り、彼女が再び動き出す前に、先手を打つ必要があった。復讐を遂げるためには、王都の光と影、その両方の情報を支配下に置かねばならない。
まず、資金の洗浄。第三神殿の古代金貨は、そのままでは足がつく。スレイは前世の記憶を頼りに、王都の地下深くで暗躍する闇の鋳造師と接触した。莫大な手数料と、もし裏切れば即座に命を奪うという冷徹な脅しを代償に、金貨は純度の高い王国の通用金貨へと変えられていった。この過程で、スレイは裏社会の金銭の流れ、そして隠された権力構造の一端を掌握し始めた。
スレイは前世で得た知識を、人脈という名のチートとして利用した。彼が最も優先したのは、王都の情報網の要となる人物、元王宮諜報部員の老女、アザレアの確保だ。
スレイは、アザレアが身を潜める裏路地の宿屋の隅へと向かった。彼女は、酒とギャンブルで身を滅ぼし、今や高利貸しに追われ、人生のどん底にいた。
アザレアは、突然目の前に現れた、全身を黒い革鎧に包んだ若い男――スレイを見て、すぐに警戒を強めた。その瞳は、裏社会の修羅場をくぐり抜けてきた者の鋭さを持つ。
「ここはあんたのような小僧が来る場所じゃないね。高利貸しの手先かい? なら無駄だよ。今、一銭も持ってない」
アザレアは、乾いた笑いを漏らした。
スレイは、アザレアが今抱える借金の総額、そしてそれが王宮の権力争いに巻き込まれた結果であることを、正確に告げた。
「貴女の借金は、正確には七千三百二十ゴールドだ。そして、それを追う者は、元老院の私兵だ。処理は簡単だ」
アザレアの顔から、笑みが消えた。彼女の個人的な秘密、そして追っ手の正体まで知っている人間は、この世にいないはずだった。
スレイは、テーブルの上に音もなく金貨の袋を置いた。それは、七千三百二十ゴールドを遥かに超える額だ。
「この金は、借金と利息を片付けるには十分だ。そして、残りは前金だ」
アザレアは、金貨には目もくれず、スレイの顔を見つめた。
「あんた、何者だい。そして、私に何の用だ。まさか、この老いぼれの身体が欲しいわけじゃないだろう?」
「貴女の身体など必要ない」
スレイの視線は冷徹だった。
「私が欲しいのは、貴女の能力だ。情報収集、分析、そして、口を割らない忠誠心。これらを金と交換する」
スレイは、アザレアが過去に王宮内で隠蔽した、ある機密文書の場所を具体的に挙げた。それは、彼女のキャリアを完全に断つはずだった、彼女自身の裏切りの証拠だ。
アザレアの目が大きく見開かれた。その情報を持っているのは、世界でたった二人だけのはず。そしてその二人は、今や権力の中枢にいる。
「……信じられないね。あんた、私の未来を見たのかい?」
スレイは、無表情のまま、囁くように言った。それは、アザレアの心臓を鷲掴みにする、絶対的な真実の重みを持っていた。
「未来ではない。私は、貴女の『後』の人生を見た。一度、終わったはずの人生の中で、だ」
スレイは、己の心臓を指差した。
「私は、一度死んだ。殺された。そして、ここへ戻ってきた。信じるかどうかは貴女次第だ。だが、貴女の次の裏切りの一歩、貴女が次に踏み外す人生の分岐点まで、私は全て知っている」
スレイの言葉は、ただの脅しではない。その瞳に宿る、未来を知る者特有の冷酷な光は、アザレアに、自らでは決して抗えない運命の絶対的な重圧を感じさせた。この男が言うなら、全てが真実だ。彼の背後には、この世界の理すら捻じ曲げる、制御不能な闇が潜んでいる。
アザレアは乾いた喉を鳴らし、ようやく口を開いた。
「わかったよ。あんたに、この命を売り渡そう。だが、私の最初の仕事は何だい? 王宮の秘密? それとも、裏社会の抗争?」
スレイは、アザレアの瞳をまっすぐに見つめ、憎悪を込めた名前を告げた。
「リゼット・アージェント。王都から遠く離れた、辺境の村エルダーの薬師見習いだ。貴女の全ての組織を使って、彼女を監視しろ。彼女の日常、接触した人物、村から出た回数。そして、彼女が隠しているかもしれない、身体から発せられる微かな魔力の兆候。一つも、見逃すな」
アザレアは驚愕に息を飲んだ。王都の権力者が欲しがるような機密ではなく、一介の薬師見習い?
「……リゼット、ね。なぜそんな無名の娘を?」
「それは、貴女が知る必要のない情報だ」
スレイはテーブルの金貨に手を触れさせようともしなかった。
「貴女が知るべきは、この監視が、この世界の運命を変える鍵であるということだけだ。報酬は惜しまない。だが、裏切りは許さない。もし彼女の監視を怠り、俺の計画が狂えば……その時は、貴女自身が、俺の最初の人生を終わらせた剣の冷たさを味わうことになる」
スレイの言葉は、アザレアの心を完全に凍りつかせた。この男は、本気だ。そして、彼の復讐のターゲットが、単なる薬師見習いであるはずがない。
こうして、王都の情報網の要となる人物が、スレイの支配下に置かれた。アザレアは、スレイという若き主人の冷酷さと、その背後に隠された闇の巨大さに、戦慄しながらも、即座に組織の再構築に取り掛かった。
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