Timeless End(タイムレス・エンド)

葦原 蒼紫

第0話 プロローグ

 俺の愛した女は、嗤っていた。

 心臓を貫く剣の冷たさなど、大したことはなかった。何よりも俺の意識を灼き尽くしたのは、その剣を握るリゼットの目に宿る、狂気にも似た歓喜の輝きだ。そして、俺の存在の全てを否定する、その残酷なまでの安堵の笑み。


「さようなら、スレイ。あなたのおかげで、私は幸せになれたわ」


 最愛の女性、リゼット。透き通るような銀色の髪は、今、俺の心臓から噴き出した鮮血に濡れて、鈍く光っている。星屑を閉じ込めたような紫の瞳は、まるで遠い未来を見通すかのように澄み切っていた。俺の人生の全てだったその女が、俺を、この上なく甘美な裏切りと、そして祝福にも似た言葉と共に、殺したのだ。

 俺――スレイ・セクタムは、世界を救った英雄だ。この大陸の誰もが俺を讃え、リゼットとの結婚を祝福していた。人生の絶頂期、全てを手に入れたと信じた、その瞬間に。


「リゼット……なぜ……」


 口から血の泡が漏れる。身体は魔力によって拘束され、折れた剣は地面に転がっている。愛する者に殺されるという、この理解不能な結末を、ただ受け入れるしかなかった。抵抗する意志すら、目の前の光景に凍りついていた。

 リゼットは剣をさらに深く差し込みながら、その冷たい指先で俺の頬に触れた。その肌の冷たさが、この出来事が夢や幻ではない、厳然たる事実であることを証明していた。


「スレイ。本当にありがとう」


 その一言。感謝の言葉。裏切りの極致にあるはずの女が口にした、純粋な、救われたような感謝。

 その瞬間、俺の視界は鮮やかな赤に染まり、リゼットの美しい笑顔が、最後の光景として網膜に焼き付いた。意識は、深い、深い闇へと沈んでいった。


 ◇


 目覚め。

 全身を包むのは、強烈な吐き気と、心臓が握り潰されるような幻の痛み。反射的に胸元を押さえたが、服は濡れていない。心臓には、穴など開いていない。


「……は、あ……っ……」


 荒い息を吐きながら、スレイはゆっくりと起き上がった。見慣れた、だが懐かしすぎる天井。王都の裏路地の宿屋の、安普請な木造の天井だ。

 身体に痛みはない。傷一つない。

 慌てて手鏡を探し、覗き込む。そこに映っていたのは、血と絶望に歪んだ最期の顔ではない。十年、いや、十五年ほど若返った、経験の乏しさを残す、かつての自分。


「タイムリープ……だと?」


 掌を強く握る。肉体が若返っていることを肌で確信する。全身に漲る魔力は、前世で英雄になる前の、ひ弱だった頃のものだ。

 テーブルの上の暦を手に取る。


【アストレア歴 987年 霜月(しもつき)八日】


 全てが巻き戻っていた。あの裏切りと死から、過去へ。

 リゼットが俺を殺した。その結果、俺は過去に送られた。

 なぜ、こんな現象が起こった?

 スレイはベッドの上で、荒い息を繰り返した。リゼットのあの歓喜の笑顔。そして、直後に起こった、この時間逆行。


「俺の死が、お前の目的達成のための、何らかのトリガーだった……ということか」


 リゼットは、俺の人生の全てを知っていたかのように、俺を殺すことで、自分の目的を達成し、その上で「ありがとう」と感謝した。俺の愛、俺の努力、俺の命、全てが、彼女にとって都合の良い道具だった。そして、このタイムリープは、彼女の望んだ結果に過ぎない。


「俺の人生が、お前の個人的な欲望や、秘密の計画のために、弄ばれた……ッ」


 強烈な屈辱がスレイの意識を打ちのめす。愛していた女に、全てを否定され、弄ばれた。そして、俺の命と引き換えに、彼女の望む何かが叶った。

 俺の幸せ? そんなものは、もうどうでもいい。

 俺の人生は、お前への復讐のためにある。俺は、もう一度力をつける。あの女が、なぜ俺を殺したのか、その真意を暴き、そして、彼女が手に入れた「幸せ」と、それを可能にした彼女の力を、根こそぎ奪い去る。

 絶望を、裏切りの痛みを、そして、二度と立ち上がれないほどの、徹底的な報復を。

 それが、俺、スレイ・セクタムの、二度目の人生の、唯一の目的だ。

 窓の外では、王都の喧騒が聞こえる。全てが新しく、希望に満ちた世界。

 だが、俺の心は、リゼットの血で描かれた復讐の炎だけを宿していた。

 リゼット。待っていろ。

 俺は必ず、お前を地の底へ引きずり落とす。

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