第9話「街が二度目に語るとき」

彼はジャケットを羽織り、WorkLinkのバッジを確認し、ポケットにノートを滑り込ませた。


ドアのそばには傘。濡れた骨組みが、ついさっきの雨を思い出すように軋んでいた。


部屋にはコーヒーと清潔な空気の匂い。




「CRYSTAのシフトか……」と彼は笑い、スイッチを押した。


「同じ芝居の、次の幕が始まるみたいだな。」




ドアが閉まり、街が彼を再び飲み込む。


湿り気と騒音、そしてネオンの蒸気に包まれた夜。


アスファルトは映画のワンシーンのように輝いている。


細かい雨が頬に冷たいキスを落としながら、すぐに消える。


埃とコーヒー、燃える看板の匂い――


疲れていても美しくあろうとする、東京の典型的な夜。




エイリッドはゆっくりと地下鉄へ向かう。


一歩ごとの足音が路地にこだまし、まるで街が囁くようだった。


「ほら、また働きに行くんだな。」




階段の手前で、古びたスマホを取り出す。


角のひび割れが光に反射した。


画面が点滅し、メッセージ。




Saori > 本当に行くの?雨なのに?


彼は口の端を上げ、一歩も止まらず片手で返信する。


Eirid > 君、見張ってるのか?


すぐに返事が来た。


Saori > 予想を確かめてるだけ。たまには当たるのよ。


Eirid > 天気ぐらいじゃシフトは中止にならない。


Saori > じゃあ見せてもらおうか、嵐の中での“フォーム”を ;)




彼は小さく鼻で笑い、スマホをしまった。


「フォーム、ね……。人の中身は輪郭だけじゃないのにな。」




地下の空気は重く、


レールの低い唸りが胸の奥まで響く。


鉄と温い水の匂い。


天井のライトは均一に光り、街が“もう瞬かない”と決めたみたいだった。




電車が滑り込む。


思考をリセットするような音。


彼は乗り込み、窓際に座り、傘を立てかけた。


乗客はまばら。


弁当の袋を抱える人、イヤホンの中に沈む人、


手に顔を埋めて眠る人。




スマホが再び震えた。




WorkLink.Pro > 通知:Eirid様、CRYSTA Groupのスタッフリストに追加されました。


シフト:CrossLight Theatre 19:00~23:00 左ウィング入口より入場。




彼は眉を上げた。


「仕事が早いな。」と小声で呟き、


「俺のスケジュール、運命の契約書みたいになってきた。」と苦笑した。




電車が揺れ、トンネルの光が流れる。


窓に映る自分――白い髪、青い瞳、


それでも消えない疲れを纏った目。


そしてふと気づいた。


本当に興味が湧いている。


シフトでも、サオリでも、金でもない。


“次”が、ただ知りたかった。




地上に出ると、東京の夜は違う顔をしていた。


急がず、脈打つように動いている。


濡れたアスファルトに灯りが映り、


車は静かに滑り、


人々は過去の設計図から抜け出した幻のように歩いていく。




空気に潮の匂いが混ざっていた。


遠く地下のどこかで、波がまだ息をしているように感じた。




スマホが震える。


Saori > バッジ忘れないでね。前、ロッカーに置きっぱなしだったでしょ。


Eirid > 今回は完璧だよ。傘まで持ってる。


Saori > お、傘とは進歩したね :3




彼は返信せず、ただ笑ってポケットにしまう。


サオリの言葉はいつも軽くて鋭い。


その一言に、言葉以上の意味が隠れている。




CrossLight駅への角を曲がると、空気が重くなった。


風が古いポスターを揺らす。


長いコートの女優、その下に書かれた文字:


「二度と訪れない舞台」


彼は呟いた。


「人生も同じだな。」




劇場前の路地は静かだった。


パン屋の少年がシャッターを下ろし、


イヤホンの少女が窓に映る自分を見つめている。


エイリッドはその音の間を歩き、


雨粒と足音が作るリズムを聞いていた。




スマホをもう一度見た。新しい通知はない。


それでも、誰かがまだ“送信”を押していない気がした。


彼の脳裏にサオリが浮かぶ。


オフィス、マグカップ、強気な瞳。




「君は言ったね。『変わってる』って。」


彼は笑った。


「シーンを間違えるなよ、サオリ。」




劇場の入口にはWorkLinkのスタッフが二人。


灰色のベストに、お決まりの丁寧な頷き。




「エイリッド・Kさんですね?確認します。」


端末が緑に光る。


「どうぞ。左ウィングでお待ちです。」




中は温かく、


ワニスと電気の匂い。


廊下の灯りは柔らかく、まるで舞台の息遣いでできていた。


彼はゆっくり歩き、心臓が静かに拍を刻む。




ドアの向こうから声とざわめき。


観客を迎える準備が進んでいる。


「街が最初に語るなら、今度は俺の番だな。」




内部は雨と金属の匂いが混じり、


どこか現実と舞台の境界が曖昧だった。


青いバラが花瓶に並び、


冷たいスポットライトを反射して淡く光る。




彼は静かにホールを抜けた。


足音がBGMのように響く。


今日は芝居ではない。


CRYSTAのイベント――


静かなプレゼンテーション、


それでも休憩もコーヒーも観客もある、


「信じるより、聞く」人たちの集まり。




彼は細部を観察する。


音響は左に偏り、


受付のペアは欠け、


通路のカメラは点灯を待っている。




そして、劇場そのものが誰かを待っているように感じた。


たぶん――彼自身を。




クロークには仲間が二人。




「エイリッド?またお前か?」とユウジロウ。


「運命だよ。」と彼は笑った。「このドアと契約したらしい。」


ナオミが名簿を見ながらため息をつく。


「今日は半分がCRYSTAのエージェント。


無口でね。“こんばんは”って言っても、


再生速度0.5倍で返される感じ。」


「慣れてるよ。俺も急がない。」




彼は左のカウンターに立った。


指は記憶している――


番号札、コート、他人の言葉。


だが今日は、音が柔らかく、


まるで雨越しに聞こえる会話のようだった。




最初の客たちは静かに入ってくる。


スーツ、整った動作、無色の声。


胸にはCRYSTAのロゴバッジ。


完璧な礼儀と、完璧な距離。


「ありがとう」さえ言わず、


無言のうなずきで“入力完了”。




エイリッドは彼らを観察する。


全員、姿勢も歩調も同じ。


「なるほど。人を操る者たちは、


自分の手を使わないのか。」と心の中で呟く。




「エイリッド。」ナオミが囁く。


「一人、こっちに来る。」




振り向くと、


黒いコートの男。三十五歳前後。


手にはタブレット。海の匂い。


雨にも洗われない冷たい塩の香り。




「番号札を。」


男はコートを差し出し、じっと見つめた。




「あなたは推薦されています。」


「誰に?」


「CRYSTAに。」


「なら、俺はここで正しい。」




「私たちが何をしているか、知っていますか?」


「いいえ。でも聞かない。俺はただ、ドアを開ける側です。」


男はわずかに口元を動かした。


「それが、正しい立場です。」




彼が去ると、


空気がわずかに重くなった。


ホール全体が同じ呼吸を始める。




続いて数人。


グレーのトレンチの女、MediaWingの二人。


皆、静かに、同じリズムで歩く。


目はカメラのレンズのように、


見ているが記録していない。




「彼らは観客じゃない。」


「コントロールだ。」




音楽が変わる。


軽いビートの向こうに女性の声。


遠く、澄んでいて、


スピーカーではなく空気そのものから響く。




青いバラが微かに震え、


会場全体が一瞬止まった。




「綺麗だな。」とユウジロウ。


「音響テストだろ。」とエイリッド。


「あるいは……警告かもな。」




彼の声は落ち着いていたが、


心の奥で何かが動いた。


恐れではなく、既視感。




街と劇場が再び密かに語り合う。


そして、彼だけが――


その会話を聞き取っていた。

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