第8話 「画面が先に語るとき」

朝は急がなかった。

ブラインドの隙間から光がこぼれ、

床とキーボードの上に細い線を落とす。

そこにはまだ昨夜の指の跡が残っていた。


時計は10時43分を指していた。

エイリドはゆっくりと目を開け、息を吸った。

少しこもった空気の中に、

コーヒーと冷めきらない夜の街の匂いが混じっている。


白い髪は乱れ、Tシャツはしわだらけ。

青い瞳は少し疲れていたが、穏やかだった。


彼は湯を沸かした。

ポットが低く唸り、

立ちのぼる湯気はまるでまだ眠っているようにゆるやかだった。

カップの中でコーヒーが溶け、

スプーンが小さく鳴った——その音がなぜか心地よかった。


テーブルには昨日のラーメンの皿。

冷めてはいたが、まだ食べられた。

窓の外ではもう街が動いている。

誰かが急ぎ、誰かがゆっくりと仕事へ向かう。


食後、彼はテーブルを拭き、食器を洗い流した。

棚には古い心理学と観察記の本が数冊並んでいる。

勉強のためではなく、ただ興味で買った本。

隣には薄いノート。

昨夜の記憶のように短いメモが並んでいた。


頭の中ではまだサオリの声が響いていた。

「もし明日、時間があったら。話したいことがあるの。」

彼は微笑んだ。

「時間はいつだってある。ただ、人は別のものに使ってるだけだ。」


窓を開けると、新しい空気が流れ込んだ。

濡れたアスファルトが光を返し、街が少しきれいに見えた。

ポットが冷める間、エイリドはほうきを取り、床を掃いた。

昨日の小さな誤りのように、ほこりが消えていく。

手を洗い、イヤホンをつける。


流れるのは静かなLo-fi。

彼はパソコンの前に座った。

モニターが白く光り、デスクトップが開く。

フォルダ名は「試合」「分析」「観察」。

指が自然にキーボードへ——まるで帰ってきたみたいに。


タブにはすでに大会サイト「FARA-NET」。

かつてのHLTVのように、世界のチームがランキングされている。

トップ300、分析、ピック、ドラフト。

彼の目はリストの行を滑り、

他人が見落とす細部を拾っていく。


保存してある試合ID。


Runa Blue vs Apex Core — 2:1、Runaのサポートのタイミングがずれた。

Zenith Edge vs Odin Line — 0:2、ドラフトミスとキャプテンの焦り。

Crysta vs Runa Blue — 1:1、均衡したシリーズ、終盤でマップコントロール喪失。


ノートの一行一行が生きている。

彼はゲームを見ながら、人間を見ていた。

呼吸、動き、リズムの途切れる瞬間。


モニターが通知で光った。


WorkLink.Pro:

エイリドさん、前回の勤務報告が承認されました。

Crysta社より次回イベントへの参加要請が届いています。


彼は瞬きをし、もう一度読んだ。

「へえ……ガルデローブの方が履歴書よりコネを作るとはな。」


スマホが震えた。


Eirid > Saori: 君の仕業?

**Saori > ** まぁ、ちょっとは押してあげないとね ;)


彼は笑った。

「押す、ね。さて、どっちがどっちを動かすか。」


冷めたコーヒー。

窓の外では街が新しい一日を始めていた。

モニターにはグラフと顔。

一人一人のプレイヤーが、新しい章のように見えた。

エイリドは初めて感じた。

これは仕事じゃなく、意味を読むための行為だと。


モニターが再び点滅する。


WorkLink.Pro:

Crysta Group提携勤務に割り当てられました。

シフト有効期間:2週間。


画面をクリック。


CrossLight Theatre — 夜勤 × 週3回。

Media Hall CRYSTA — テクニカル補助 × 週2回。


「なるほど、ガルデローブがフランチャイズ化か。」

心は落ち着いているのに、指先だけが微かに震えた。


彼は立ち上がり、伸びをしてシャツを脱いだ。

鏡の中には淡い肌、濡れた髪、手首の跡。

白い髪が光を拾い、青い瞳が少し明るく映る。

「同じ顔なのに、俳優が変わった気分だな。」


シャワーを浴びる。

熱い水が夜と疲れを流していく。

ミントの香りが微かに漂い、朝が彼に少しだけ猶予をくれる。

目を閉じると、サオリの声がよみがえる。

「あなたって変わってる……でも、忘れられない。」

彼は微笑み、

「俺も、多分ね。」と呟いた。


シャワーの後、ゆっくりと体を拭き、黒いパンツと灰色のシャツを着た。

再び湯を沸かし、パソコンを開く。

画面は同じFARA-NET。

更新された試合結果をクリック。


Crysta vs Zenith Edge — 1:2。

「リズム外したな。」

ノートに書き込む。

“Crystaキャプテン、コール前に瞬き多し。

カメラ光で自信変動。”


彼の指はもう迷わなかった。

少しして、即席スープを作り、ソファに腰を下ろす。

スマホが肘掛けで震えた。


**Saori > ** 今日、働く?

**Eirid > ** ああ。同じ劇場みたいだ。

**Saori > ** みたいじゃないよ、確定。スケジュール見たもん ;)


彼は小さく笑い、フォークを置いた。

「やっぱり、押してくるな。」


🌇夕方


窓に金の光が滑り、街が柔らかく染まる。

袖を留め、WorkLinkのバッジを確認し、ノートをポケットへ。

外では雲がまた集まり始め、傘を手に取る。

ドアが閉まり、後ろにコーヒーと清潔な空気の匂いを残した。


「Crystaの勤務……同じ芝居でも新しい幕ってことか。」


通りへ出る。

濡れた舗道が灯りを映し、

遠くの窓にはもうネオンが灯っていた。

時刻は18時02分。

あと二十分で開演。


風が髪を揺らし、屋上に新しい看板が光った。

“CRYSTA Media Hall — Tonight Event”。

彼は微笑んだ。

「さて、今日の演目は誰だ?」


そして光の中へ歩き出す。

街が再び彼のために幕を開けた。

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