第15話 伝えたかったこと

 愛紀の呼吸は穏やかになっていた。

 ひどくもがいていたので心配だったが、愛紀の腕の出血は治まっている。

 愛紀を幸人と共にベッドに寝かせると、祈は大きく息をつきながら床に膝をついた。


 怨霊にとり憑かれた人の説得は、確かに難しいものであったのだと祈は身をもって理解した。幸人が半分抑えてくれたから辛うじて上手くいったものの、やはり何かしようとせずに幸人に任せた持久戦の方が良かったかもしれない。


 ああ、やっぱり失敗した。祈は拳を握りしめた。自分はいつもこうだ。良かれと思って先走って、結局迷惑をかけてしまうのだ。

 それなのに、幸人は祈に対して感心したように笑った。


「片葉すごいな。まさか説得するとは思わなかったぞ」


 看護技術が苦手な祈が、出来ることがあるとすれば精神科での経験で培った患者への傾聴だった。時には患者の話を聞きながら、拘束をするのだ。話が聞けるのならば拘束は不要なのでは、そもそも話が入らないのでは、と言われるがそう単純なものではない。


「たとえ病状が落ち着いたとしても、嫌なことをされたという気持ちは残ると思うから……。話を聞くだけでも、患者さんが落ち着いてからの治療への取り組みや、医療スタッフへの信頼感は変わるんです」


 祈は、愛紀の手首をそっと擦った。

 幸人は棚から血圧計を取って来て、愛紀の腕に巻いて測定した。出血もあり心配していたが、値も正常値内に収まっている。

 祈は愛紀の腕や手に付着している乾いた血液を、濡れたガーゼで拭き取った。


『ありがとう』

 声が聞こえて、ふと祈は振り返った。今、小さな子どもの声がしたのだ。

 気のせいだろうか。見ると、愛紀はうっすらと目を開けている。祈は思い切って、愛紀に尋ねた。


「天野さんの息子さん、お名前何ていうんですか?」

 息子のことを尋ねるのは、また辛いことを思い出させてしまうかもしれないので、一か八かだった。けれど、その想いを共有してあげたいと思ったのだ。


「ゆうき……」

 振り絞るような声で、彼女は答えた。

「ゆうきくん」

 愛紀は頷く。ゆっくり愛紀は体を起こすと、空中に指を伸ばして、漢字を書く。


「優紀って、名前なの。男の子でも、女の子でも、優紀にしようって決めてたから。……私、あの子を産むまでに、流産してるの」

 ぴたり、と祈の手が止まった。既往歴の欄は目を通していたが、流産のことは知らなかった。考えてみれば、あえて書かないということがあってもおかしくない。


「早期の流産だから、元々そうなんだよって産婦人科の先生に言われた。あなたのせいじゃないんだって。でも……」

 生んであげたかった、と愛紀は呟く。その目はどこか遠くを見つめている。


「亡くした子も、違う子じゃなくて優紀なんです。私にはわかるの。その子が私達の子になりたいからって、あきらめずに来てくれたんです」

 愛紀は顔を歪める。幸せと不幸を抱き合わせたような表情だった。

「生まれた時、やっと会えたねって思ったんです。生まれつき体は弱かったけど……」

 そこで彼女は言葉を止めた。


「会いたい、会いたいよ……。会って、今度こそ大きく育ててあげられなくてごめんねって言いたい」


 愛紀はそう呻いた。零れ落ちた愛紀の涙がシーツの上へと染み込んだ。

 祈は口を開きかけて、そして声が出なかった。

 何か言ってあげないといけない。そう思うのに、言葉が全然出てこない。


 辛かったですね。苦しかったですね。


 そう言葉で返したいのに、空虚な言葉になってしまいそうで。

 看護師なのに、ずっと患者の力になれるように働いていたのに。

 彼女を慰める言葉が何一つわからない。

 伝えた言葉が余計傷付けてしまわないか、私の苦しみなんてわからない、と言われるんじゃないか。

 祈は涙が滲みそうなのを必死でこらえた。


 二人の静かなやり取りを見ていた幸人は、ふと微かな声に気が付いた。

『おかあさん』

 この声は。

 幸人は神経を研ぎ澄ませてその声の主を探る。


 ベッドの傍に小さな男の子がいた。二歳ぐらいだろう。さらりとした髪が母親に、つぶらな目が父親に似ていた。

 本当に儚げな気配で、幸人もこの桜の結界という自分の領域内だから気付けたくらいだ。幽霊というより、魂や意識の残滓だろうか。


 男の子は、幸人の白衣の裾を引いた。

 何か言いたいことがある。けれど、その何かを上手く伝えられない。

 おかあさんのせいじゃない。その子はまだその言葉すら覚えられないまま、亡くなったのだ。


『おかあさん』

 男の子はそう言って泣いている母を指す。

 こんなに叫んでいるのに、彼女には息子の声は聞こえない。

 幸人はその子の頭をそっと撫でた。

 目で任せろ、と伝えた。

 幸人は腰をかがめて、愛紀に目線を合わせた。


「天野さん。息子さん、いましたよ。来てくれたのはね、おかあさんのせいじゃないって言いたかったんだって」

「本当ですか……?」

「ええ。本当です」

「良かっ……」


 愛紀は大粒の涙を零した。

 それを見て、祈もこらえきれなくなって、我慢していた涙が零れてしまった。

 愛紀は今のたったその一言で救われたのだ。


 この瞬間、祈は何故幸人が陰陽心療科を作ったのか、痛いぐらいわかった。

 どれだけ辛くても、苦しくても。あなたの苦しみに寄り添っているからと。

 ただそれだけでも伝えてあげたいと思うのだ。

 祈は愛紀の肩を支えるように、優しく抱きしめた。

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