ひまわりは夜に咲く 4


 部屋に入ると、ほのかに甘い香りがした。麻衣の部屋の匂い。彼女の好きなルームフレグランス。麝香のような甘い香り。

「いい香りだね」

 わたしの言葉に、麻衣が返す。

「あ、そう?」と麻衣が言った。「部屋で百合小説よむとき、ムスク焚くと甘い気持ちになれるんだよね〜」

 なるほど、本を読んでるときの気持ちと香りをリンクさせるのか。

 たしか、嗅覚って脳と直結してるんだったっけ。香りによって過去の記憶が思い出される『プルースト効果』が起きるのは、匂い刺激が大脳辺縁系にある海馬にも伝達されるから。記憶情報に関与する脳のエリアに伝わるから。

 幸せな気持ちのときに嗅いだ香りは、幸せだったときの記憶を呼び起こす。麻衣が百合小説を読んでいるときの甘い時間は、ムスクによっても補強される。

 なるほどなぁ。

 麻衣、百合小説を全力で楽しんでるね。

「うん、すごく良い香り。読書もはかどりそうだね」

「そうなの〜。そこのソファーでゴロゴロしながら読むのが、とくにお気に入りなんだ〜」

 麻衣が指差したのは、真っ白なソファ。人一人が横になるには充分すぎるほどの大きさ。

「よかったら、そこ座ってて。なにか飲みもの持ってくるよ」

 麻衣の言葉に、わたしが返す。

「ん、ありがとう」

「ダージリンでいい?」

「うん、大丈夫」

「おっけー」

 貴族か。

 上流貴族か。

 ティータイムに紅茶って、上流貴族か。いや、上流貴族がダージリン飲むのか知らないけど。わたし、一般庶民だし。ブルジョワジーの日常とか、一般庶民のわたしが知る由もないし。

「麻衣、ダージリン好きだよね」

 わたしの言葉に、麻衣が返す。

「コーヒーもそうなんだけど、紅茶も香りが好きなんだよね〜」

「リラックスできる香りだよね」

「葵は分かってるなぁ〜」

 くすりと笑うわたし。

「お褒めにあずかり光栄ですよ」

「ふふ。じゃあ、待っててね」

 そう言い残し、麻衣は部屋を出ていった。

 気持ちスキップしていたように見えたけど、気のせいかな。今日び、喜びをスキップで表現する人は珍しいよね。まぁ、麻衣ならやりそうだけど。かわいいなぁ。

 部屋を見回すわたし。

 麻衣の部屋、すごく「女の子」だ。

 白を基調とした壁紙に、ホワイトベージュや薄桃色のアイテムがチラホラ。やさしげな色が多く使われているせいか、部屋全体が柔らかい印象がする。ブラックやネイビーといった色調は少なく、トゲトゲしさを感じることはない。わたしの部屋とは大違い。

 思えば、わたしの部屋って男っぽい。性別が違っていたときの名残りなのか、ブルー系のアイテムが多いし。そのせいか、全体的にクールな印象がする。『冷たい』と言ってもいいくらい。

 ほんと何なんだろう、この世界。どういうことなんだろう。

 朝起きたら女になってたなんて、きっと誰も信じてくれないだろうな。なにより、わたし自身がイチバン信じられないと思ってるし。

 ……の割には、けっこう順応しちゃってるけど。あは。

 部屋のインテリアは性別が違っていたときと同じだけど、女性用の下着はキッチリ置いてある。クローゼットの中は女性用の服であふれている。当然と言えば当然なんだけど、やっぱりフシギ。

 逆に、男性用の服は一着ずつしかない。性別が変わった日の朝、わたしが着ていた水色のポロシャツとボクサーパンツ。朝起きたときに着ていたあの寝巻きだけが、わたしの性別が違っていたことを示してる。

 制服は女子用のものがハンガーにかけられていたし、わたしが通学時に履いているローファーだってそう。部屋のインテリアは性別が違っていたころの名残が残っているけど、ファッションに関してはソレが全くない。ゼロと言っていい。なんだか、いろんなところがアベコベだ。

 どうして、わたしの性別は突然かわっちゃったんだろう。

 もしかしたら、性別が違っていたころの人生のほうが夢だったんじゃないか。いまとなっては、そんなふうに考えることも少なくない。あまりに不思議な体験すぎて、自分に都合のいいように解釈しないと頭がヘンになりそうだから。

 もう一度、部屋を見回すわたし。

 白。

 薄桃色。

 ベージュ。

 パールホワイト。

 やさしげな色調で統一された麻衣の部屋、すっごく「女の子」してる。

 いいなぁ。うらやましいなぁ。

 わたしも今の部屋、模様替えしちゃおうかなぁ。いまなら、かわいい部屋にしても許されるもんね。お父さんに頼んで、今度ホームセンターにでも連れて行ってもらおうかなぁ。

 わたしが室内をキョロキョロと観察していると、やがて麻衣が部屋に戻ってきた。手元におぼんを携えながら、後ろ手にドアを閉める彼女。紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。

「おまたせ〜」

 おぼんをテーブルに置いて、わたしの前にティーカップを差し出す麻衣。

「ありがと」

「葵が買ってくれたお菓子、少しだけど持ってきたよ」

「うん。一緒に食べよ?」

「んふふ〜」

 くす、と鼻を鳴らすわたし。

「なに、その笑い?」

「葵ちゃんは良い子だなーと思って」

「もう、なにそれぇ」

 にこにこと微笑む麻衣に構わず、小さく「いただきます」と言ってからティーカップに口を付けた。ダージリン特有の上品さがノドを通っていく。

「ん、おいし」

「昨日、お母さんが良い茶葉買ってきてくれたとこだったんだぁ」

「うん、おいしいよ。クッキーに合いそうだね」

「ほんとそれ〜」

 麻衣に「いただくね」と断ってから、彼女が持ってきてくれたお菓子の封を開けるわたし。

 ひとつ一つ包装されているクッキーを二つに割って、ひと口サイズにしてから口に運ぶ。カリッと噛むと、じんわりとバターの甘みが口内に広がった。サクサクとしたクッキーの食感を味わいつつ、少量のダージリンをノドに流し込む。

 うん、おいしい。

 天気の良い午後に、友だちとティータイムを楽しむ。贅沢すぎる時間。

 なんか、上流階級になった気分。わたしの家、ごくごく普通の一般家庭なんだけど。資産家の麻衣の家と違って、貴族でもなんでもないんだけど。

「葵が買ってくれたクッキー、おいしいね〜」

「あー、ね。バターがきいてて美味しいよね」

 ところでさ、と続けるわたし。

「麻衣の部屋って、すごく女の子っぽいよね。色調といいインテリアといい、大っきなぬいぐるみも置いてあって……女の子の部屋って感じ」

「そう?」

「うん。わたしの部屋は無骨な感じがするから、ちょっと羨ましいな」

「葵の部屋もステキだよ? クールでシックな感じがして」と麻衣が言った。「でも確かに、葵の印象とは少し違うかもだね。葵って、もっと女の子っぽい部屋に住んでそうなイメージあるから」

「そ、そう?」

 うん、とノドを鳴らす彼女。

「だって葵、昔っからぬいぐるみとか好きだったでしょ?」と続ける彼女。「その割には、いまの部屋にはクマちゃんとか置いてないから。葵だったら、ぬいぐるみの一つくらいは持ってそうなのになーって」

 クマちゃんて。言い方、かわいすぎか。

 まぁでも、たしかに麻衣の言うとおりかも。

 ぬいぐるみが昔から好きなのに、わたしの今の部屋には一つもない。好きなものを部屋に置いてないって、なんだか変な感じだ。性別が違ってた頃の部屋のままだから、当然といえば当然なんだけど。

 だから、これから増やしていくのはアリかもしれない。

 だって、いまのわたしは女の子だから。女の子っぽいものを存分に楽しめる女の子だから。もう、あの頃のわたしはいない。『かわいい』を表現できない苦しみやフラストレーションを抱えていた頃のわたしは、もういないんだ。

「そのうち、ファンシーショップとか行ってみようかな」

「お、買う気になった?」

「うん。少しずつ増やしていくのも良いかなって、ね」

「それだったら、あたしのオススメのがあるよ〜」

 すっくと立ち上がり、クローゼットを開ける彼女。中から取り出したのは、五十cmくらいのぬいぐるみだった。

 耳に赤色のリボンをしたクマのぬいぐるみ。かわいい。ぬいぐるみもカワイイけど、それを抱きかかえている麻衣もカワイイ。

「これ、どう?」

「うん、かわいい」

 ぬいぐるみを抱えてる麻衣も含めて。

「これ、よかったらもらってくれない?」

「え?」

「置ける場所がなくてクローゼットにしまいっぱなしだったから、ずっと『かわいそうだなぁ』って思ってたの」と麻衣が続ける。「もし葵がもらってくれるなら、この子も喜ぶかなーって。どうかなぁ?」

「いや、わたしは嬉しいけど……その、ちょっと申し訳ない気が……」

「葵、もうすぐ誕生日だよね?」

「え? あ、うん……まぁ……」

「じゃあ、誕生日前プレゼントってことならどう?」

 誕生日 "前" プレゼントって。聞いたことないですけど。

 麻衣がコチラを見つめている。彼女の真っ直ぐな瞳を見ると、あんまり渋るのも気が引ける。なにより、麻衣の好意を無下にしたくはない。

「……分かった。じゃあ、ありがたく」

「やった! ありがと、葵!」

 くすりと笑うわたし。

「『ありがとう』は、わたしのセリフだよ。ありがとね、麻衣」

「こちらこそ〜」

 麻衣からぬいぐるみを渡される。

 もこもこした肌触りが気持ちいい。思わず顔を擦り付けたくなっちゃう。もふもふ、もふもふ。

「やば、かわいいー♡」と興奮したようすの彼女。「ねぇねぇ。写真、撮ってもいい?」

「えぇ? いいけど……」

 ポケットからスマホを取り出す彼女。

「ねね、こう……両手でぬいぐるみ抱えてギュッてしてくれる?」

「こう?」

 言われたとおりに、ぬいぐるみをギュッとするわたし。

「超かわいい……お持ち帰りしたい……♡」

 お持ち帰りもなにも、あなたの家はココですけど?

 パシャパシャと写真を撮る彼女。何枚か撮った後で、わたしに「見てみて〜!」と画像を見せてきた。

「うん。ぬいぐるみ、カワイイね」

「葵もカワイイよ?」

「それは……うん、ありがと」

「カワイイとカワイイが合わさると、超カワイイになるんだねぇ。今日イチバンの大発見!」

「かわいい+かわいい=超カワイイ」とは。

 なんて単純な式。小学校の低学年でも解けそうなほどシンプルな計算式。テストに出るかなぁ。出るといいなぁ。その数学のテスト、満点とれる自信あるよ。

「ねね、コッチのぬいぐるみも持ってみて!」

 ベッドの近くに置いてあるぬいぐるみを持ってくる彼女。

「ぎゅってして、ぎゅって!」

「わ、わかった……」

 彼女に言われたとおり、わたしの身体の半分くらいの大きさのぬいぐるみをギュッとする。

「きゃー♡」

 楽しそうだね、麻衣。

 楽しそうで何よりだけど、わたしは恥ずかしさで居た堪れない気持ちだよ。

 てか、どんだけ写真とってるの? 連写してません? パシャシャシャシャとか連写音が聞こえますけど?

「葵、ちょーカワイー♡」

 ふ、ふぐっ。

 かわいいって言われるの、うれしい。

 なにより、麻衣に『かわいい』って言われるのが嬉しい。

 麻衣のオモチャと化している現状は居た堪れないけど、褒められるのは気持ちいい。やっぱり、お母さんの言うとおり「褒め言葉は心の栄養」なんだね。他人に褒めてもらうと、すごく元気をもらえるような気がするよ。

 エスカレートした彼女の写真会は、窓から差し込む陽の光がオレンジ色になるまで続いた。

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