ひまわりは夜に咲く 3
三
わたしと麻衣がカフェに来てから、数十分が経過した。
ときおり本の感想を言い合いながら、お互いに読書を進める。ペラペラとページをめくる音が辺りに響く。
わたしが読んでいるのは、百合小説。
併設されている書店で「なにを買おうか?」と悩んでいるときに、麻衣がオススメしてくれたもの。科学系の読み物を好んで読むわたしにとって、百合小説のイノセントな世界観はすごく新鮮。「こんな美しい世界があったなんて……」と、目から鱗が落ちるような思いがした。
まぁ、目に鱗は付いてないんだけど。わたし、魚類じゃないんだけど。
麻衣が読んでいる本もまた、百合小説。「さいきんハマってるんだ〜」と口にしていただけあって、熱心に読み進めているようす。集中して読んでいるのがビシビシ伝わってくる。
小説を読み進める麻衣が、ときおり「はあぁ……」とか「ふむぅん……」などと吐息をもらす。その音が気になって彼女のほうを見ると、満足げな表情をした麻衣の姿が目に映った。
なんて締まりのない顔なんだろう。なんて幸せそうな顔なんだろう。見てるコッチまで幸せな気持ちになる。
あんまり彼女の反応が面白いので、声をかけてみる。
「その本、おもしろい?」
すると、麻衣は恍惚の表情を浮かべながら「最高です……」と言った。
「最高以外の言葉が出てきません……」
「そ、そっか。それは良かった」
最高だそうです。
なによりですね。
「麻衣、ほんとに百合小説ハマってるんだね」
「百合は人生……」
「え、なんて?」
「ううん、気にしないで」
なにか壮大なことを口にしていたような気がしたけど……まぁ、いっか。麻衣が楽しそうで何よりだよ。
手元の時計を見ると、時間は午後の二時を指していた。お昼は軽食を注文して食べたので、お腹は満たされている。それに、さっき麻衣にクッキーもごちそうしてもらった。おいしかったなぁ、クッキー。
もひもひクッキーを食べる麻衣が見たかったので、わたしは彼女に「あーん」してあげた。すると、麻衣はお返しとばかりに私にも「あーん」してくれた。
食べさせ合いっこするわたしたちのことを、他のお客さんが微笑ましい目で見ていたことを思い出す。さすがに、ちょっと恥ずかしかった。
食べさせ合いっことか、バカップル感やばいもんね。いくら女どうしとはいえ、照れちゃうものは照れちゃう。スキンシップ多い系女子の麻衣と違って、わたしはこういったことに慣れていない。「あーん」なんて、せいぜい小学生のころに朋花にやってあげたくらい。なので、わたしは「あーん耐性」に乏しい。だから、ついつい周りの目を気にしちゃうんだ。
その点、麻衣は動じないよなぁ。さっき私が「あーん」してあげたときだって、迷わず口を開けてもひもひしたし。ハムスターばりにもひもひしたし。かわいかったし。めっちゃ可愛かったし。し。
麻衣は、女の子だなぁ。きっと、わたしがやるくらいのスキンシップは慣れっこなんだろうなぁ。彼女の女の子らしいところが、ちょっとだけ羨ましい。
麻衣は、女の子だね。
かわいい女の子だね。
麻衣から視線を外し、ふたたび活字を追い始めるわたし。ペラペラとページをめくっていると、途中で女の子ふたりが描かれたイラストが目に入った。その挿絵は、百合耐性のないわたしには刺激が強すぎた。
き、キスしてるぅ……。
女の子どうしでキスしてるぅ〜……。
こ、こういうの……百合小説では普通なのかなぁ。
まったく知らない世界に足を踏み入れたような感覚。わたしの百合小説に対する知識が浅いせいか、動揺を隠せない。こういう描写が普通に出てくるものなの、百合小説って?
まだ百合小説を読み始めてから日が浅いわたし。この本で二冊目だし、百合小説がどんなものかも完全に把握できたわけじゃない。もちろん、背景知識も浅い。
たとえるなら、お化粧を始めて二日目の中学生みたいな感じ。チークの加減も分からないし、きれいなマスカラの塗り方だって分からない。アイロンを当てすぎて髪が焼けちゃったり、ビューラーで痛い思いをしちゃうこともしばしば。
やっと道具の使い方を覚えてきたと思ったら、ファンデーションなんていうアイテムも出現。『オークル』とか『ホワイトナチュラル』なんて呪文みたいな名前のカラーバリエーションがあって、どれを選べばいいのか分からない。
「え、え? コスメって、どんだけアイテム数あるの?」なんて戸惑いが頭をもたげる。そりゃあ、化粧品会社が儲かるわけだ。こんだけアイテム多いんだもん。一個一個の値段もそれなりだし。『かわいい』は、女性たちの朝の努力によって作られてるんだねぇ。なんて。
小説内に差し込まれているイラストに視線を戻すわたし。
どきどき。
どきどき。
どきどきしながら次のページをめくる。しかし、キスシーンの挿絵は一枚だけだったようす。次のページからは、普通に活字でストーリーが描写されていた。
ホッとしたような、残念なような。
もっと見たかったという気持ちがないではなかったけど、これ以上みたら深みにハマっていきそうな感もあった。なにか大きな沼にハマっていきそうな感があった。なので、とりあえず良しとしておこうかな。ちょっとだけ残念だけど。ちょっとだけだよ?
やがて小説を読み終わると、わたしはパタンと本を閉じてテーブルに置いた。本を読み終わったあとの達成感と、うつくしいものを見たという満足感が心のなかに同居する。
読書体験って言うのかな。本を読み終わったあと、どうにも言葉にできない達成感と満足感があるんだよね。これだから、本はやめられない。はしゃぐのが得意じゃない私は、こうして静かに読書を楽しむほうが性に合っている。気がする。
わずかに残ったブラックコーヒーをストローですすっていると、麻衣もまたパタンと本を閉じた。
「あ、読み終わった?」と声をかけるわたし。
「うん、最高でした」
それ、さっきも聞いた気がするけど。まぁいいや。
「このあと、どうしよっか?」と麻衣が言った。
そういえば、本を読み終わったあとのことは考えていなかった。もう一冊くらい買って読んでもいいけど……さて、どうしようか。
「うーん、そうだなぁ……」と、あいまいに答えるわたし。
「葵は、今日ずっとヒマ?」
「うん、暇だよ」
「じゃあさ、ウチに来ない?」
「え、麻衣の家に? お邪魔していいの?」
「もちろん!」
麻衣の家かぁ。
そういえば、この姿になってから遊びに行くのは初めてだ。おばさんにも挨拶できてないから、いい機会かもしれない。せっかく麻衣が誘ってくれたことだし、おジャマさせてもらおうかな?
「じゃあ、途中で何か手土産でも買って行こっか」と、わたしは言った。
「えー、そんな気を遣わなくていいのにー」
「だーめ。おばさんにも挨拶しなきゃだし、菓子折りくらい持っていかないと」
「葵はマジメだねぇ。よくできた良い子だねぇ」
「ふつーだよ、ふつー」
「葵のそういうところ、あたし好きだなぁ」
ふ、ふぐっ。
唐突な「好き」に動揺するわたし。ナチュラルにそういうこと言うんだからなぁ。油断ならないなぁ、麻衣は。
「そ、そう……ありがと」
「あー、照れてるー」
「照れてないっ」と返すわたし。「ほら。買い物もするんだから、はやく行くよっ」
「はぁ〜い」
手早く荷物をまとめて、カフェを後にするわたしたち。途中、麻衣がわたしの頬をツンツンしてきた。「どうしたの、麻衣?」と訊くと、彼女は「照れてる葵、かわいいなって」なんて返してきた。その言葉を聞いて、さらに顔が熱くなるわたし。デパ地下で菓子折りを買うまで、そのことをネタに何度かからかわれた。くそう、麻衣めぇ。
雑談しながら道を歩いていると、やがて麻衣の家に着いた。
玄関のカギを開け、ドアをひらく麻衣。彼女が入室した後で、わたしも続く。
「どうぞ、上がって」
「おじゃましまーす」
あいかわらず、大きな家だなぁ。タタキだけで、わたしの部屋の半分くらいのスペースがある。パッと見で、三〜四畳くらいの間取り。このくらいの広さを備えた家は、そうそうないだろうなぁ。
いくつもの事業をおこなっているという麻衣のお父さんは、かなりの資産家。お金持ちが集まるパーティーに出席することも多いらしく、家を空けることも多々あると麻衣から聞いている。そのせいで、小さい頃は寂しい思いをしたこともあったのだそう。
そういった原体験があるからこそ、麻衣は人に甘えるのが好きなのかもしれない。スキンシップ多めなのは、さびしさの裏返し。小さい頃に感じた寂しさを埋め合わせるように、彼女は他人との交流を求めるのかもしれない。
じっさいに、そのことを示唆する研究がある。
データによれば、幼少期に寂しい思いをすることが多かった子どもほど、他人との身体的な接触を多く求める傾向にあるのだそう。かんたんに言うと、さびしさという心の隙間は、他人との交流をうながす接着剤になる。
実験結果によっては、幼い頃に親との分離を拒みがちだった子どもほど、大人になってからも愛着不安を抱えやすい傾向にあるという。「人と接していないと不安になる」という被験者の言葉は、まさにその心理を突いている。
心の奥に巣食った「さびしさ」という感情は、確かに、対人交流をうながすための接着剤となる。しかし一方で、心の奥底にあるネガティブな感情のせいで、対人交流において「見捨てられるかもしれない」という気持ちに囚われてしまう場合がある。『見捨てられ不安』に突き動かされてしまう場合がある。各種の研究結果が、その可能性を示唆している。
麻衣は、どうなんだろう。
彼女の家は、とってもお金持ち。物質的には、これ以上ないくらい満たされているはず。同級生たちと比べても、麻衣の家はかなり裕福なほうだと思う。彼女のお父さんが与えてくれた物質的な豊かさは、麻衣の人生にとって大きなプラス資産と言えるかもしれない。
でも、とわたしは思う。
麻衣は、小さい頃から寂しがり屋だった。だから、いつもわたしと一緒にいた。麻衣が「学校に行きたくない」と言ったときは、家まで迎えに行ってあげた。麻衣が「塾に行きたくない」とゴネたときは、いっしょにサボってあげた。もちろん後日、お父さんにもお母さんにも叱られちゃったけど。てへ。
麻衣は、寂しがり屋だ。すごく、寂しがり屋だ。
でも、とわたしは思う。
だからこそ、わたしが一緒にいてあげたい。もし麻衣が寂しさを抱えているなら、わたしが彼女の心を溶かしてあげたい。「さびしくないよ、大丈夫だよ」って、そう言ってあげたい。もしも麻衣が泣いているなら、わたしが彼女の涙を拭いてあげたい。「わたしがいるよ、大丈夫だよ」って、そう言ってあげたい。
麻衣は、わたしの大切な友だちだから。
麻衣に通されるまま、玄関ホールへとあがる。その場で膝を折って屈み、脱いだ靴の向きを揃える。スリッパに履き替えたところで、奥のほうから麻衣のお母さんが顔を出した。
「あら、葵ちゃん。久しぶりじゃない」
鞠を連想させるような、おばさんの丸みのある声が響く。
「ご無沙汰してます、おばさん」
「また可愛くなったんじゃない?」
「おばさんも、あいかわらずお綺麗ですね」
わたしがそう言うと、おばさんは自分の頬に手を添えて「まぁ」と言った。
「葵ちゃん、会うたびに褒めてくれるから嬉しいわ〜」
「最近は、あたしのことも『かわいい』って言ってくれるんだよ!」
陽気な声で麻衣が言う。
「あら、そうなの?」
「うん! 最近の葵、あたしのこと毎日ホメてくれるの!」
「ほんとうに『かわいい』って思ってるから言ってるだけだよ」と、わたしは言った。
「ほら、こんな感じで!」
わたしを指差しながら、ぶんぶんと小刻みに手を振る麻衣。おばさんは「まぁ〜」と口にしたあと、やさしげな笑みを見せた。
「葵ちゃん、麻衣と仲良くしてくれてありがとうね〜」
「いえ、わたしこそ」
にこにこと微笑むおばさんに、わたしも笑顔で返す。
「あ、コレ。手土産のお菓子です。よかったら、召し上がってください」
底面に軽く手を添えながら、お菓子が入った紙袋を手渡す。
「まぁ〜、いつもありがとう」
「こちらこそ。いつもおジャマしちゃって、すみません」
「いいのよ〜、そんなこと」と続けるおばさん。「なんだったら、ウチの子になってもいいのよ?」
おばさんの言葉に続くように、麻衣が「そーだよ、そーだよ!」と言った。
「葵がウチに来てくれたら、あたし毎日ハッピーだよ!」
「あはは。考えておきますね」
「無下にしないあたり、葵ちゃんらしいわ〜」と、おばさんが言った。「飼い主にお手してあげるマルチーズみたいだわ〜」
んん、ぜんぜん分からない例えっ。
え、え? マジで分かんない。ドユコト??
飼い主に? お手してあげるマルチーズ??
どれだけ頭をフル回転させても、わたしにはおばさんの比喩が理解できなかった。
困惑するわたしのことを察してか、麻衣が「ママ、その例えじゃ伝わんないよぉ」と言った。
「あら、そうかしら?」
「そうだよぉ」と続ける麻衣。「それを言うなら、飼い主にゴロンしてあげるポメラニアンだよぉ」
「あ〜、そうかもしれないわね〜」
なんだ。
なんだ、この親子。
比喩ヘタクソ選手権の優勝者か。いくらなんでも、伝わらなすぎるでしょ。
麻衣のユニークな比喩表現は、おばさんゆずりなんだよね。おばさんも独特な例えをするから、聞く側としては困惑せざるを得ない。アーティストが二人もいるとなれば、平均レベルの感性しか持ち合わせていない私は置いてけぼりだ。
てか、比喩表現って遺伝するの? 何%の遺伝率なの、それ?
「もう、ママは例えが独特なんだからぁ」
え、え?
それ、麻衣が言うんだ?
麻衣が言っちゃうの、それ? まじ??
困惑を深めたわたしを差し置いて、ふたりは「どの比喩ならイチバン伝わるか?」について議論を始めた。
「やっぱり、イヌ系で攻めるのがオーソドックスだよね」
「わかるわ〜」
わかるんだ。おばさん、分かるんだ。
「小動物系もアリだけど、ちょっとハードル高くなる感じあるよね」
「魚類は最悪ね。感情の機微が読み取れないから、比喩で伝わる気がしないわ〜」
「あ、あの……」
「あら。ごめんなさい、葵ちゃん」
わたしの困惑めいた声に気づいてか、おばさんがハッとしたようにコチラに顔を向ける。
「玄関先で話し込むのもアレよね。どうぞ、ゆっくりしていって」
「あ、ありがとうございます……」
よかった。
わたしの耳には不毛にしか聞こえない談義が終了した。
まぁ、本人たちが楽しんでるならいいんだけど。ってか、小動物系ってなに? 比喩に「攻めやすいジャンル」とかあるの? 考えたことないんですけど。
はてなマークを頭の上に浮かべたまま、わたしは麻衣と一緒に彼女の自室へと移動した。
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