番外編 第14話 塔子の嫉妬

その日、十月とつき詩音しおんは勝利を手にして帰還した。

午後七時。

聖域の分厚い玄関ドアが開く。

「ただいま戻りました、先生」

詩音はハイヒールの踵を鳴らしながら、濃紺のパンツスーツのジャケットを脱いだ。

疲労は濃かった。

だがその目は、複雑な権利交渉をまとめ上げた経営者としての高揚感に輝いていた。


「……しおん」

書斎から響塔子が這い出てきた。

その顔は詩音の凱旋を喜ぶものではなかった。

どこか不機嫌に歪んでいた。


「どうしました? 執筆、進んでいませんね」

詩音の問いに答えが返ってくる前に、マンションのコンシェルジュから内線が鳴った。


「はい、十月です。

……ええ。お願いします」

詩音が短く応えると、数分後玄関のチャイムが鳴り、台車に乗せられたおびただしい数の贈り物が運び込まれてきた.


「……なに、これ」

塔子の声が低くなる。

聖域の玄関ホールが色とりどりの過剰な花カゴと高級ワインの桐箱で埋め尽くされていく。


「今日の交渉相手からです」

詩音は疲れた頭で差し出されたカードを仕分け始めた。

「K談社から。A氏ですね。相変わらず手堅い」

「こっちはS英社……ああ、今日の若い担当者か」

「これはフランスのエージェントから」


詩音はそれらを「業務の戦利品」として処理していく。

だが塔子は違った。


彼女はその花々が放つ強い匂いに怯えていた。

聖域を満たすいつもの詩音のアロマとはまるで異なる「俗世」の匂いだった。

「外」の匂いだった。


「……くさい」

塔子がぽつりと言った。

「え? そうですか? 高価な百合ですよ、先生」

「……いや。しおんの、におい、じゃ、ない」


塔子はその中でも一際大きく派手な真紅のバラの花束に添えられたカードを見た。

そこには達筆な文字でこう書かれていた。

『素晴らしい、経営手腕に、感服いたしました。十月社長の、若さと、美しさに、乾杯。木島』


木島(きじま)。

今日詩音が「やり込めた」と報告していた新興IT企業の若きイケメン社長だった。


「……しおん」

塔子の声が震えていた。

「……なんですか、先生?」

「……これ、うれしいの?」

「うれしい? ……まあ、ビジネスとしては大勝利ですから」

詩音はまだ事態の本質に気づいていなかった。


「……ちがう」

塔子はそのバラの花束を掴むと、床に叩きつけた。

ガシャン!

花瓶が割れ、水とガラスが飛び散った。


「先生!!」

詩音が驚いて叫んだ。

こんな暴力的な行動は塔子らしくない。

「何をするんですか! 危険です!」

「……みんな、しおんが、すき」

塔子は割れたガラスも構わず、詩音を睨みつけた。

その目は涙で溢れていた。


「……わかい、おとこ、も、しおんが、すき」

「……え……?」

「……うつくしい、って、かいてる!」

「……」

「……しおん、うれしかったんでしょ!」


そこでようやく、詩音はすべてを理解した。

自分の経営者としての若さと有能さ。

それが外部の人間を惹きつけ、その「賞賛」の証である花束が今、自分の天才の嫉妬に火をつけたのだ。


詩音は深く深くため息をついた。

それは怒りではなく、疲労でもなく、どうしようもない愛おしさからだった。


「先生。あなたは本当に馬鹿ですね」

「……ばか、じゃない!」

「いいえ。世界一の大馬鹿です」


詩音は割れたガラスを踏まないよう慎重に歩み寄り、泣きじゃくる塔子を抱きしめた。


「あのね、先生。あの人たちは『人間』ではありません」

「……にんげん、じゃない……?」

「はい。私の経営計画の上では、彼らは『障害物』か『利用できるリソース』のどちらかです」

「……」

「私が有能で若く美しくあることは、彼らを油断させ、交渉を有利に運ぶための、ただの『武器』です。あなたを守るための城壁です」


「……じょうへき……」

「そうです。彼らが褒めているのは、私ではなく、私の『武装』です」


詩音は塔子の顔を両手で包み込み、その濡れた目を覗き込んだ。


「彼らがどれだけ花を送ろうと、ワインを送ろうと、どうでもいい」

「……」

「私がこの『武装』を解いて、ただの十月詩音に戻る場所は世界に一つだけ」

「……」

「この聖域だけ。先生の前だけです」


「……しおん……」

「彼らは私の手にキスをしようとするかもしれない」

「……!」

「でも、私がキスをするのは先生だけ」


詩音はそう言うと、証明するように塔子の涙で濡れた唇に深くキスをした。

所有権を主張する強いキスだった。


「……ん……」

塔子は詩音の首に腕を回し、それに必死で応えた。

聖域の安全を確認するように。


「……もう、分かりましたか、先生」

唇が離れ、詩音が尋ねる。

「……うん……」

塔子は安心しきって頷いた。


そして床に散らばった真紅のバラを、勝利者の目で見下ろした。


「……やっぱり、これ、くさい」

「はいはい。私もそう思います。今すぐ片付けます」

詩音は笑った。

「その代わり、先生」

「……なに?」

「……私も今日は疲れました。お風呂に入りますから」


詩音は今日一番の「経営者」の顔で命じた。

「……先生が、私の髪を洗ってください。外の匂いを全部落としてくれないと、眠れそうにありません」


「……! わかった! ぼく、やる!」

塔子は今や世界で一番重要な任務を与えられた子供のように、勇んで浴室へと向かった。

嫉妬という雑音は、こうして二人の聖域をさらに強くする儀式へと変換された。


***


十月詩音は業界で密かに、しかし確実に「モテて」いた。


彼女と直接交渉のテーブルについた編集者や他業種の経営者たちは、例外なくその不思議な引力に当てられていた。


理由は三つ。

一つはその若さが生み出すギャップ。二十代半ばという年齢にそぐわない落ち着きと自信。

二つ目はその有能さ。経営学を修め、アートマネジメントで修士号を取得し、弁理士であり、FPであり、秘書の頂点でもある秘書検定一級保持者である上に、完璧な経営手腕。

若さと美しさと有能さ。それだけでも人を惹きつけるには十分だった。


だが彼らが真に心を奪われる最大の理由は別にあった。

それは詩音本人が全く自覚していない、彼女から溢れ出す圧倒的な「バブみ」。


「バブみ」。

すなわち、相手を無条件に受け入れ、甘やかし、庇護し、ダメにしてしまう母性のオーラ。


それは詩音が響塔子という三十路を超えた「巨大な赤ん坊」を長年、世話し甘やかし管理し続けてきた経験から、自然と滲み出てしまう彼女の本質オーラだった。


その「事故」が起きたのは、塔子の新作の映画化契約を巡る大手映画会社との最終交渉でのことだった。

場所は聖域ではなくホテルの会議室。相手は野心溢れる若きプロデューサー。


詩音はいつものように、法律・財務・ビジネスマナーの三つの頭を備えた、ケルベロスだった。

「その脚本改変は原作の根幹を揺るがします。到底、飲めません」

「固定の原作使用料の他に、興行収入と連動したロイヤリティを求めます。契約書の第三条を修正してください」


交渉は難航した。

若きプロデューサーは、詩音の鉄壁の理論武装とタフ・ネゴシエーションに焦りを隠せない(詩音は、「交渉アナリスト資格」や「心理交渉術スペシャリスト」を取得済みだった)。彼は緊張で乾いた喉を潤そうとコーヒーカップに手を伸ばした。


ガシャッ。


緊張から目測を誤った彼の手の甲が当たり、カップが横転した。

熱い黒い液体が彼の重要な企画書と白いワイシャツの袖口に広がった。


「あ……!」

プロデューサーは顔面蒼白になった。最悪だ。この氷の女社長との重要な局面で、なんという失態。契約が飛ぶ。いや、首が飛ぶ。


彼が「申し訳ございません!」と叫ぶ前に、詩音は動いていた。


「動かないでください」


その声は驚くほど穏やかだった。ケルベロスの冷徹さはいつの間にか、全く別のものに置き換わっていた。

詩音は瞬時に鞄から新品のハンカチを取り出し、彼の手を遮ると、まずテーブルの上の液体を手際よく吸い取った。

そのあまりには、塔子が日常茶飯事にこぼすお茶を処理する時のそれと全く同じ「慣れ」だった。


「お怪我は? 火傷はしていませんか?」

詩音はプロデューサーの顔をまっすぐに見た。

その瞳には軽蔑も怒りもなく、ただ純粋な「心配」だけが宿っていた。


「あ、い、いえ……大丈夫です……それより、資料が……」

「資料は電子データで頂いていますから問題ありません。ですが、シャツが」


詩音は今度は自分のポーチから、塔子のために常に持ち歩いている携帯用のシミ抜きを取り出した。

「気休めかもしれませんが、応急処置です。どうぞ」

「……え……あ……どうも……」


プロデューサーは呆然としてしまった。

自分のミスを一切咎めず、完璧に後処理し、挙句の果てにはシミ抜きまで差し出された。この二十代半ばの美しい社長に。


彼の中で緊張の糸がぷつりと切れた。交渉のストレスが溶けていく。

彼は、自分がまるで巨大な母性に包み込まれ、庇護され、全肯定されたような錯覚に陥った。

この人に頭を撫でられたい。

この人に「しょうがないですね」と笑ってすべてを許されたい。

彼は無意識に「バブみ」に当てられていた。


「……すみません、十月社長。私のミスです。先ほどの契約書の第三条ですが、御社の修正案を飲みます」

「……!」

詩音は驚いた。あんなに難航していた条項を、相手があっさりと受諾した。


(……コーヒーをこぼした程度で買い取れる譲歩だったのかしら)

詩音は自分の「世話スキル」が交渉を動かしたとは夢にも思わなかった。


***


その夜。聖域に戻った詩音は上機嫌だった。

「先生。映画化、決まりましたよ。かなりの好条件です」

「……ふぅん」

ソファで寝転がっていた塔子は興味なさそうに返事をした。


だが彼女は詩音に近づくと、くんくんとその匂いを嗅いだ。

「……しおん」

「はい」

「……へんな、におい、する」

「え?」

詩音は自分のスーツを嗅ぐ。

「……ああ、コーヒーですか。今日、相手がこぼして少しかかってしまいました」


「……ふぅん」

塔子は目を細めた。

「……その、あいて、おとこ?」

「ええ。まあ、そうですね」

「……しおん、ハンカチ、だした?」

「……どうして、それを?」

詩音は驚いた。


生活面でも社会面でもポンコツの塔子だが、こと詩音に関することでは、作品の中の名探偵のような能力を発揮する。

塔子は、すべてお見通しだった。

「……しみぬき、も、だした?」

「……先生? なぜ……」

「……その、おとこ……」

塔子は詩音の胸に顔をうずめると、赤ん坊が母親の匂いを確認するように言った。

「……しおんに、『ばぶー』って、してた」


詩音は数秒間、硬直した。

そしてその明敏な頭脳は、そのスラングの意味と、今日のプロデューサーのあの急な譲歩を結びつけて、すべてを理解した。


「……はぁ」

詩音は頭を抱えた。

「先生。あれは業務です。事故処理です」

「……やだ」

塔子は詩音にしがみついた。

「……しおんに、『ばぶー』って、して、いいのは、ぼくだけ」

「……」

「……ぼくだけの、『バブみ』だもん」


詩音は自分の対人スキルが塔子の世話によって歪に進化し、変なところで交渉力を発揮してしまった事実に眩暈がした。


「……分かりました、先生」

詩音は観念した。

「私のこの力は、すべて先生を管理するためにあります」

「……ほんと?」

「はい。だから、ほら」

詩音は塔子の頬についていたインクの染みを指で優しく拭った。

「先生こそ、また汚していますよ。手がかかりますね」


「……わーい」

塔子は自分だけがその「バブみ」を独占できる事実に満足し、嬉しそうに詩音に擦り寄った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る