番外編 第10話 見合いという名のノイズ
その電話は、聖域の完璧な静寂を無遠慮に切り裂いた。
響塔子の執筆が佳境に入り、十月詩音が神経を研ぎ澄ませて彼女のメンタルとフィジカルを管理していた日曜日の午後。
鳴ったのは株式会社ひびきの業務用スマートフォンではない。詩音個人のプライベート用の端末だった。
表示された名前に、詩音はわずかに眉をひそめる。実家の母親からだった。
「はい、もしもし」
詩音は書斎の扉に意識を向けながら、できるだけ声を抑えて応答した。塔子の集中を乱すわけにはいかない。
『あら、詩音? 今、大丈夫?』
母親の、どこか弾んだ声。嫌な予感がした。
「ええ、まあ。どうしたの、急に?」
『それがね、詩音。あなたももう二十五でしょう? いつまでも、その、作家さんの、お世話ばかりじゃなくて……』
詩音のこめかみに青筋が浮かんだ。
母親は、詩音の仕事を「響塔子のお世話係」程度にしか理解していない。
株式会社ひびきの社長であり、辣腕の経営者であるという現実は、何度説明しても暖簾に腕押しだった。
「お母さん。その話なら、何度も」
『違うのよ、聞いて! 近所の、ほら、田宮さんのお宅の息子さん。一流企業にお勤めで、好青年でね。それが、あなたに、ぜひ一度、会ってみたいって……』
「間に合ってます」
詩音は氷のような声で即答した。
『まあ、そんな言い方! これはお見合いなのよ! あなたの将来を、お母さん、心配して……』
「私の将来は、私が完璧に計画しています。心配は無用です。それじゃあ、塔子さんの仕事中だから、切るわね」
『ちょ、ちょっと、詩音!』
詩音が一方的に通話を切ろうとした、その時だった。
ガチャリ。書斎のドアが静かに開いた。
塔子が、亡霊のように、そこに立っていた。
その顔は、執筆中の天才のものではなく、何か不穏な気配を察知した怯えた子供のそれだった。
「しおん?」
塔子は、詩音が自分以外の誰かと、しかも険悪な雰囲気で電話していることに気づいたのだ。
詩音はしまったという顔で、慌てて電話の相手に告げる。
「ごめんなさい、今、手が離せないの。また、こっちからかけ直すから」
そして、母親の返事も聞かず通話を切った。
「塔子さん。どうしました? 集中、切れてしまいましたか」
詩音は何事もなかったかのように、完璧な笑顔で塔子に歩み寄った。
「だれ……?」
塔子は詩音の後ろ、テーブルの上に置かれた詩音の私用スマートフォンを指差した。
「こわい、こえ、してた」
「ああ……実家の母です。少し世間話ですよ。先生はお気になさらず」
「うそ」
塔子は詩音の目をじっと見つめた。
「しおん、なんか、かくしてる」
詩音は内心で舌打ちした。
この天才は、俗世の嘘は見抜けないくせに、自分に向けられる、ほんのわずかな感情の揺らぎには驚くほど敏感なのだ。
「隠してなんかいませんよ。さあ、先生。執筆に戻らないと。今日のノルマ、まだ……」
「おみあい?」
塔子がぽつりと、その単語を口にした。
詩音が電話口で拒絶した言葉。
塔子はその意味を完全に理解したわけではない。
だが、詩音が嫌がっていた。詩音が、自分から隠そうとした何か。それだけは分かる。
「なんのことですか、先生」
詩音はあくまで平静を装った。だが塔子は、もう詩音の動揺を確信していた。
「しおん……」
塔子の大きな瞳が、不安に潤んでいく。
「おみあい、するの?」
「しません!」
詩音は思わず強い口調で否定した。
「じゃあ、なに……?」
塔子は詩音の服の裾を弱々しく掴んだ。それは彼女が最大の不安に襲われた時の癖だった。
「しおん、どこか、いっちゃうの?」
「行きません!」
「でも、こわい、こえ……」
「それは、母が私にくだらないことを押し付けようとしたから、私が怒っただけです」
「くだらないこと……?」
詩音は観念した。
このまま誤魔化し続けても、塔子の不安は増すだけだ。
そして、その不安は確実に彼女の執筆に影響する。
詩音は経営者として、リスクを判断した。
「塔子さん、落ち着いて聞いてください」
詩音は塔子の冷たい手を両手で包み込んだ。
「お見合いというのは、結婚相手を探すための古い習慣です」
「けっこん……?」
塔子の顔がさらに青ざめた。
「しおん、けっこん、するの?」
「しません!」
詩音はもう一度、強く否定した。
「母は、私が普通の結婚をして普通の家庭を持つことを望んでいます。ですが、私はそのつもりは一切ありません」
「ほんと……?」
「本当です」
詩音は塔子の潤んだ目をまっすぐに見つめ返した。
「私の人生計画に結婚という項目はありません。
私の人生計画のすべては、先生、あなたと共にあります」
それは、プロポーズよりも重く、絶対的な誓いの言葉だった。
塔子は詩音の揺るぎない瞳とその言葉に、しばらく見つめ返していた。やがて彼女の顔から不安の色がすっと消えていく。
「そっか……」
塔子は心底安心したようにふにゃりと笑った。
「じゃあ、いいや」
「よくありませんけどね。母には後で、きつく言っておきます」
「うん」
塔子は納得すると、途端にさっきまでの不安など忘れたかのように詩音にもたれかかった。
「しおん」
「はい」
「こわかったから、じゅうでん、へった」
「はいはい」
「おなかも、すいた」
「さっき食べたばかりでしょう」
「へったの!」
詩音はもう何も言わなかった。
ただ、そのどうしようもない天才で、子供で、恋人である存在を、強く抱きしめた。
「分かりました。特別におやつのプリンを出してあげます。その代わり、ちゃんと仕事に戻ってくださいね」
「わーい」
聖域に一瞬吹き込んだ俗世の風は、こうして完璧な管理者の手によって、何事もなかったかのように鎮められた。
だが、詩音は知っていた。
自分たちのこの歪で完璧な世界は、常に外部の「常識」という名の脅威に、今も晒されているのだと。
そして、それを守り抜くことが、自分の唯一にして絶対の使命なのだと。
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