番外編 第4話 管理者の武装


十月詩音が、いかにしてその「完璧な管理」に必要な武器を揃えていったのか。

その資格取得の裏にあった、響塔子とのエピソードを、物語の形でお届けする。


十月詩音の社長室エリア。施錠された引き出しの奥には、彼女の「戦歴」を示すファイルが静かに眠っている。

それはK大学経営学部の卒業証書ではない。

響塔子という名の「国宝」を守り、「株式会社ひびき」という「聖域」を経営するために、血のにじむ努力で勝ち取ってきた「武器」の証。数々の資格認定証である。


詩音は時折、そのファイルを取り出す。

一枚一枚の無機質な紙片は、彼女にとって、塔子とのポンコツで愛おしい日々の記録にほかならなかった。


すべての始まりは、高校三年生の冬。

大学受験を控えた、雪のちらつく日だった。

詩音はリビングのローテーブルで、K大学の赤本(数学)と格闘していた。

週三回のアルバイトとして塔子の生命維持は完璧にこなしていたが、彼女の「社会的生命」はまだ風前の灯火だった。


「しおーん」

書斎から這い出てきた塔子が、詩音の背中にもたれかかってきた。

「……なに、これ……むずかしい……」

「受験勉強です。先生は、気にしないでください」

「……ふぅん……」

塔子は、詩音の手元に散らばる、もう一冊のテキストを指差した。

「……こっちも? じゅけん?」

「……これは、違います」


そのテキストの表紙には、無機質なゴシック体で『秘書検定2級』とあった。

「ひしょ……?」

「先生が、二度と、恩人の編集者に『おにく、またちょうだい』などという、乞食のようなメールを送らないために、必要な知識です」

「……う……」


塔子は、先週、詩音に死ぬほど怒られた「お歳暮メール事件」を思い出し、気まずそうに顔をそむけた。

「……だって、おいしかったんだもん……」

「そういう問題ではありません」


詩音は赤ペンの先でテキストの「贈答のマナー」を強く叩く。

「先生の才能は、国宝です。ですが、その国宝を収める『器』である、先生の社会的常識が、ゴミ箱以下では、誰も、先生を尊敬しなくなります」

「……ごみばこ……」

「そうです。だから、私が、先生の『完璧な器』になります。先生が、何も知らなくても、外では『完璧な常識人である、響塔子先生』でいられるように。私が、全部、代行します」


その冬、詩音は大学合格通知より先に「秘書検定2級」の合格証を手に入れた。

——長い武装の第一歩だった。



大学一年の夏。

経営学の基礎を学びながら、詩音は第二の武器を手に入れる。『食生活アドバイザー』。

書店で出会ったあの日の、グミとエナジードリンクの衝撃への、彼女なりの「回答」だった。


「塔子さん、今日の夕食は、スランプ脱出に効く、トリプトファン豊富な、カツオのたたきです」

「……かつお……?」

「はい。脳内物質のセロトニンを生成し、精神を安定させます。この、ネギと生姜の薬味が、先生の疲れた胃腸を、助けます」

「……ふぅん……」


塔子はよく分からないという顔でカツオを頬張る。

「……おいしい!」

「当然です。これは、私の『愛情』と『経営学』に基づいた、完璧な『栄養戦略』ですから」


彼女の料理は、もはや「家庭料理」の域を超えていた。

塔子の体調、執筆スケジュール、精神状態——すべてをデータ化し、必要な栄養素を最適なタイミングで供給する。

「食」は、塔子という「資産」の最も重要なメンテナンスだった。



大学二年の秋。

詩音は、ついにあの日の「宿敵」に立ち向かった。『2級 ファイナンシャル・プランニング技能士』。


当時まだ学生だった詩音は、ある時、塔子の税理士がリモートで会話していた。


「ここの減価償却の計上ですが、まだ甘いですね。先生の、取材経費は、もっと、アグレッシブに、資産計上できるはずです」


——などと、税理士顔負けの専門用語を操っていた。

塔子はその横で、

「……げんかしょうきゃく……? おいしい、ケーキの、なまえ……?」

と呟き、詩音に、

「先生は、黙って、プリンを食べててください」

と怒られた。


この後、詩音は続いて、超難関の公認会計士と、コンサルティングの公的資格である中小企業診断士に挑戦、どちらも大学在学中に取得する。


高校生のあの日に「ぜいきん、おいしいの?」と聞いた、あのポンコツな天才は、いまや自分よりはるかに優秀なCFO(最高財務責任者)と経営コンサルタントを手に入れたのだ。



大学三年。

塔子の才能は海外にまで届き始める。

それに合わせるかのように、詩音の武器は「守り」から「攻め」の経営へ。『知的財産管理技能士』を取得する一方、実用フランス語技能検定試験(仏検)を受け始めた。


「塔子さん。フランスの出版社との、翻訳権の契約書です」

「……ふらんす……ぱん……」

「パンの話は、後です。……ここの、二次利用許諾の条項。これが三年縛りでは弱すぎます。私は二年で交渉します」

「……うん、しおん、よろしく……」


塔子は自分の物語が海外でいくらで売られようと、まったく興味がなかった。

ただ、詩音が難しい顔で契約書を睨んでいる、その真剣な横顔を眺めているのが好きだった。


同じ頃、詩音は『アロマテラピー検定1級』も取得している。

塔子のスランプがメンタルの不調に由来することに気づいたからだ。


「……だめだ……しおん……書けない……」

「大丈夫です」


書斎にこもる塔子の足元へ、詩音はそっとアロマディフューザーを置いた。

「……集中力を高めるローズマリーと、 先生の不安を取り除く ベルガモットの、 スペシャルブレンドです」

「……いい、におい……」

「さあ。これで、先生は書けます。 私が保証します」

「すごい、しおん。ぼく、かける。うん、かく。……そのまえに、しおん。ごほうびの、まえばらい」

「……仕方のないひとですね。もう、どこで覚えたんですか、そういうこと?」


その香りと、絶対的な信頼の言葉、そして愛情のトッピング。塔子のスランプは、いつも数時間で解消された。



そして大学四年の春。

「株式会社ひびき」の設立登記と同時期に、詩音は最後にして最強の鎧を手に入れた。『秘書検定1級』。

日本における秘書技能の最高峰。

もはや「世話係」ではなく、対等な「ビジネスパートナー」として——いや、彼女を「経営」するトップとして社会と渡り合うための最終武装だった。


その面接試験の前夜。

詩音は珍しくリビングで緊張していた。


「……塔子さん。 ちょっと練習に付き合ってください」

「……れんしゅう?」

「はい。 私が 今から『上司への報告』をしますから。 先生はただ、そこに『偉そうに』 座っていてください」

「……えらそうに?」


塔子は意味が分からぬまま、ふんぞり返る。

詩音は深呼吸し、完璧な角度でお辞儀をした。


「社長。 先日、懸案となっておりました、 K談社とのロイヤリティ交渉の件ですが、 無事こちらの要求通りのパーセンテージで合意いたしました」


塔子は詩音の完璧な立ち居振る舞いに目をぱちくりさせ、そして一言。

「……すごい」

「……え?」

「……しおん、 かっこいい」

「……あ、 ありがとうございます……?」

「……だから、 ごほうび、 ちょうだい」

「……まだ、 練習中なんですが!?」



これらの輝かしい「戦歴」は、いま詩音のデスクの中にある。

彼女は「秘書検定1級」の認定証を指でそっとなぞった。

すべては、ただ一つの目的のためにあった。


——響塔子が、何も知らず、何もできず、ただ無垢に安心して「ポンコツ」であり続けられる世界を守るため。

それこそが、十月詩音の愛であり、経営のすべてだった。


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