第15話 風邪とパニック

大学生活が始まって半年が過ぎた、十月の朝。

しんと静まり返ったマンションの一室。

響塔子(ひびき とうこ)は、寝室のキングサイズベッドの中で、もぞりと身じろぎした。


なにかがおかしい。

いつもなら、この時間には、キッチンから土鍋が火にかかるかすかな音や、包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえてくるはずだった。

そして、その音の主である十月詩音(とつき しおん)が、アラームよりも正確に自分を起こしに来るはずだった。


「……しおん……?」


塔子は、重い体を起こした。

隣に置かれた、詩音のシングルベッド。

そこに、あるはずのない膨らみが、まだ残っていた。

詩音が、起きていない。


「……しおん? あさ……?」

塔子は、おぼつかない足取りでベッドに近づき、布団の山を覗き込んだ。


そこには、いつもの完璧な管理者の姿ではなかった。

顔を真っ赤に上気させ、荒い息を繰り返し、額にびっしりと汗を浮かべた、ただの弱々しい二十歳の少女がいた。


「しおん!? しおん、どうしたの!?」

塔子はパニックに陥り、その肩を揺さぶった。

「……ん……とうこ、さん……?」

詩音は、うっすらと目を開けたが、その瞳は熱で潤み、焦点が合っていない。

「……あたま……いたい……」

「あたま!? いたい!?」

塔子は、慌てて詩音の額に手を当てた。

熱い。

まるで、自分が倒れたあの冬の日のように、異常に熱い。


「しおんが、ねつ……!」

塔子の頭の中で、警報が鳴り響いた。

それは、詩音が病気だという心配よりも、もっと根源的な恐怖だった。


しおんが、起きていない。

しおんが、動けない。


それは、この聖域において、太陽が昇らないことと同義だった。

それは、インフラが、システムが、塔子の命を維持するすべての機能が、停止したことを意味していた。


「……ど、どうしよう……」

塔子は、寝室を飛び出し、リビングを意味もなく右往左往する。

キッチンは、冷たく静まり返っている。

いつもなら温かい朝食が並ぶダイニングテーブルには、何もない。


お腹が、空いた。

違う、そうじゃない。


「……きゅうきゅうしゃ……?」

塔子は、壁にかけられた電話に手を伸ばしかけた。詩音が緊急連絡用に設定したものだ。

だが、その受話器の取り方すら、彼女は知らなかった。


「……あ、スマホ……!」

塔子は、自分のスマートフォンを探した。

詩音が充電器に挿しておいてくれたそれを掴み、詩音の番号、短縮ダイヤルの1番を押そうとして、指が止まる。

詩音は、寝ている。

電話しても、出られない。


だめだ。

しおんが、たおれた。

ぼくの「しゃかい」が、こわれた。


塔子の全身から、サッと血の気が引いていく。

あの、高校生の詩音と出会う前の、暗黒時代。

グミとエナジードリンクだけで生き、いつの間にか夜になり、いつの間にか朝になっている、あの混沌とした魔窟の記憶が、フラッシュバックする。


「……やだ……」

塔子は、その場にうずくまった。

「……しおん、いないと、ぼく、ごはん、たべられない……」

「……しおん、いないと、ぼく、いき、できない……」

「……しぬ……」


それは、比喩ではなかった。

塔子にとって、詩音の機能停止は、自らの死の宣告だったのだ。


「……うぅ……しおん……」

塔子が、リビングの真ん中で、本気でメソメソと泣き始めた、その時。


「……とうこさん……」

背後から、か細い声がした。

詩音が、壁に手をつき、汗だくのパジャマ姿のまま、立っていた。

「……うるさいですよ……あたまに、ひびきます……」

「しおん!!」

塔子は、救世主を見たかのように、詩音に駆け寄った。

「しおん、しんじゃうかとおもった!」

詩音は、ふらり、と塔子の肩に、もたれかかるようにして崩れ落ちた。


「……しなないです……ただの、かぜ……」

「でも、ねつが! おなかもすいた!」


詩音は、朦朧とする意識の中で、この状況でも自分の空腹を優先する目の前の天才に、呆れるよりも先に、奇妙な安心感を覚えた。

この人は、いつも通りだ。


「……とうこさん……れいぞうこ……」

「れいぞうこ?」

「……いちばん、うえ……タッパー……」

「タッパー?」

塔子は、詩音をなんとかソファに引きずっていくと、言われた通り、キッチンに向かった。


冷蔵庫を開ける。

そこには、いつものように、詩音によって完璧にラベリングされた作り置きの食材が、整然と並んでいた。

一番上の段。

そこには、大きなタッパーが二つ。

一つには、塔子のための朝食セット、鮭と卵焼きが。

もう一つには、詩音自身のものと思われる緊急用おじやセットが、入っていた。


「……あった……!」

「……それ……レンジで……500ワット、2ふん……」

詩音が、ソファから、か細く指示を出す。

「……500ワット……? 2ふん……?」

塔子は、人生で初めて、一人で電子レンジという名の俗世の機械と、対峙した。


わからない。

ボタンが、いっぱい、ある。

あたため。

かいとう。

500W。


「……しおん……たすけて……」

塔子が、再び泣きそうになった、その時。

電子レンジの扉に、見慣れた文字のシールが貼られていることに、気がついた。


『塔子さんへ:この「500W」のボタンを「2回」おして、さいごに「スタート」をおしてください。 しおんより』


塔子は、震える指で、その聖典の通り、500Wのボタンを二回押し、スタートを押した。

ブォン、という音と共に、機械が動き出し、温かい光が灯る。

塔子は、その光を、まるで奇跡を見るかのように、見つめていた。


しおん。

じぶんが、たおれたら、

ぼくが、こわれることまで、しってたんだ。


数分後。

塔子は、温かい朝食セットと、詩音のためのおじやを、なんとかローテーブルまで運んだ。

詩音は、ソファでぐったりしながらも、その様子を薄目で確認していた。


「……とうこさん……たべて……」

「……しおんは?」

「……あとで、たべます……くすり、のまないと……」


詩音は、常備薬の箱から、解熱剤を取り出そうとして、その手が滑り、錠剤が床に散らばった。

「……あ……」

「……だめ」


塔子が、動いた。

塔子は、床に散らばった薬をそのままにすると、詩音の手から薬箱を取り上げた。

そして、説明書を必死に読み、新しい錠剤を二錠、取り出した。


「……しおん、みず……」

「……え……?」

塔子は、キッチンから、ミネラルウォーターのペットボトルを、コップに移すという発想はなく、そのまま持ってきた。

「……のんで」

「……あ、ありがとう……ございます……」


詩音は、その、あまりにもぎこちない世話を受けながら、高熱でぼんやりする頭で、思った。

この人は、私がいなくても、かろうじて、生きていけるのだろうか。

いや、私がここまで準備しておかないと、生きていけない、のか。


塔子は、詩音が薬を飲むのを、じっと見届けると、おもむろに、おじやのタッパーを手に取った。

そして、スプーンでそれをすくうと、詩音の口元に、突き出した。


「……しおん、たべて」

「え……? とうこさん……? じぶんで、たべられ……」

「いいから、たべて」


それは、いつも詩音が自分にしている、「命令」だった。

有無を言わせぬ、強い口調。


「……あーん……」

塔子は、スプーンを、詩音の口に半分突っ込むように入れた。

温かい、優しい塩味の、自分が作ったおじや。


「……おいしい……?」

「……おい、しい、です……」

詩音は、こくりと頷いた。

「……よかった……」


塔子は、満足そうに頷くと、今度は、自分の朝食セットに向き直った。

そして、鮭を、すごい勢いで、頬張り始めた。


詩音は、薬が効き始めるのを感じながら、その光景を眺めていた。

この人は、自分が飢えることと、私が飢えることを、同一視しているのだ。

私が機能停止すると、自分も死ぬ。だから、私を回復させようと、必死なのだ。

それは、純粋な思いやりや介護とは、少し違うかもしれない。

もっと、本能的な。

自分の生命維持装置を、必死でメンテナンスしようとするような、生きるための、切実な行動。


「……ふふ……」

詩音の口から、熱い息と共に、笑いが漏れた。

しょうがないですね、ほんとうに。


「しおん、なんでわらうの?」

「……いえ……とうこさんが、ちゃんと、ごはんをたべてくれて、あんしんしただけです……」


管理者の、突然のダウン。

それは、聖域に、初めて訪れた、小さな、しかし致命的な危機。

そして、その危機を、ポンコツな天才が、詩音の完璧な下準備の上で、なんとか乗り越えようとする、歪で、奇妙な、共依存の朝だった。


(つづく)

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