第2話 聖女の掃除と、奇跡の湯
翌朝、私が目を覚したのは、埃っぽい客室だったらしき一部屋だった。リュウが「そこが一番マシだ」と言って貸してくれた場所だ。差し込む朝日に無数のチリが舞っているのが見える。
慌てて階下に下りると、厨房からはすでに、昨日と同じ……いいや、昨日よりももっと深く、食欲を刺激するスープの匂いが漂っていた。
「おはようございます!」
「……ん」
リュウはすでに厨房に立ち、巨大な寸胴鍋をかき混ぜていた。私が寝ている間に、いつから準備をしていたのだろう。
「あの、私も働きます! まずは、やっぱりお掃除ですよね!」
「……好きにしろ。埃で死なない程度にはな」
「はいっ!」
昨日のシチューの恩返しをするため、私は腕まくりをして宿の中を見渡した。
……そして、軽く絶望した。
広い。とにかく広い。昨夜は暗くてよくわからなかったが、ここはかなり大規模な「湯治場」だったようだ。長い廊下、いくつもの客室、そして大広間。そのすべてが、分厚い埃と蜘蛛の巣、そして長年のカビや汚れに覆い尽くされている。
(普通にやったら、一年……ううん、もっとかかるかも)
けれど、私は「聖女」だ。そして、私のこの力は、こういう時のためにある。
「リュウさん! ちょっと眩しくなりますけど、我慢してくださいね!」
「あ? 何を……」
私は宿屋の中心、ロビーだったらしき場所で大きく息を吸い込むと、両手を広げた。
「《聖女の浄化(サンクチュアリ)》!!」
パーティーでは「大雑把すぎる」「繊細さに欠ける」と罵られた、私の全力の浄化魔法。
まばゆい光の奔流が、私を中心に爆発的に広がっていく。
光は、長年の埃を一瞬で分解し、壁や柱に染み付いたカビを消し去り、薄暗い宿の隅々までを清めていく。
まるで嵐が通り過ぎたかのように、光は宿全体を駆け巡り……そして、すうっと消えた。
「……ふう。こんなものでしょうか」
まだ少し埃っぽさは残るものの、あれほどひどかった汚れは消え去り、建物本来が持つ、美しい木材の温かみが姿を現していた。
「……お前」
厨房から出てきたリュウが、変わり果てた宿の中を見回して、あんぐりと口を開けていた。その紅蓮の瞳が、驚きに見開かれている。
「本当に、聖女だったんだな……」
「はいっ! お掃除なら得意なんです!」
私は胸を張った。勇者パーティーでは「役立たず」だったこの力が、こんなにも早く役に立てたことが、嬉しくてたまらなかった。
◇
宿が綺麗になったことで、私たちは建物の最奥部……この宿の「湯治場」であったはずの場所へたどり着いた。
そこは、岩盤をくり抜いて作られた、かなり広い大浴場だった。しかし、湯船は空っぽで、湯気一つ立っていない。
「やっぱり、お湯はもう枯れちゃってるんでしょうか……」
がっかりして湯船を覗き込んだ私は、その底に「黒いシミ」のようなものがこびりついているのに気づいた。
それは、ただの湯垢や汚れではなかった。
(……瘴気? いえ、もっと重い……土地の《穢れ》が固まったもの……?)
長い間、湯治場として多くの人や、人ならざる者たちの疲労や傷を吸い込んできた結果、この源泉そのものが「疲れ果てて」しまったのかもしれない。
「リュウさん! もしかしたら、これを取り除けば、またお湯が湧くかもしれません!」
私は湯船の中に飛び降りると、その黒いシミに手を当てた。
「う……!」
まるで氷に触れたかのように、冷たく重い気配が伝わってくる。
(でも、パーティーで魔石を浄化しちゃった時より、ずっと手応えがある!)
私は目を閉じ、再び《浄化》の力を集中させる。
「《聖女の浄化(サンクチュアリ)》!」
今度は範囲ではなく、一点に集中させた光の槍が、黒い穢れを貫く。
ジジジ……! と、何かが焼け焦げるような音が響き、穢れが光に溶けていく。私は持てる力のすべてを、その一点に注ぎ込んだ。
そして、黒いシミが完全に消え去った瞬間。
ゴポポポポ……! 静かだった湯船の底、岩の隙間から、新しい泡が湧き上がってきた。
「わっ!」
次の瞬間、勢いよくお湯が噴き出し始めた。それは、ただのお湯ではなかった。まるで太陽の光を溶かし込んだかのように、キラキラと黄金色に輝く、明らかに「特別な」お湯だった。
湯気とともに、清らかで、濃密な魔力が満ちていく。
「……これは」
湯船の縁で成り行きを見守っていたリュウが、目を見張った。
「……故郷の湯に、似ている。いや、それ以上に……濃い」
「一番風呂、どうぞ!」
私は湯船から這い上がり、リュウに向かって満面の笑みで言った。
「きっと、怪我にも効きますよ!」
▶リュウ◇
俺、リューディアス・イグニートは、差し出された黄金色の湯を前に、わずかに戸惑っていた。
聖女、セレスティア。
昨日、腹を空かせて転がり込んできた、奇妙な女。その目に「赤い糸」が見えるという彼女は、俺に「糸がない」と言った。
当たり前だ。人間族の「運命」の管轄に、竜族はいない。
数年前、同胞を守るために強大な
この寂れた湯治場は、俺が最後に料理を作って死ぬ場所になるはずだった。
……だというのに。
この聖女は、俺が死ぬはずだった場所を、たった一日で清めてしまった。
「どうぞ、どうぞ!」
促されるまま、服を脱ぎ、その黄金の湯に身を沈める。
その瞬間。
「……っ!」
全身を、柔らかな光が包み込むような感覚に襲われた。
温かい。
ただ熱いのではない。聖女の《浄化》の力が溶け込んだこの湯が、俺の魔力の源……竜核にこびりついていた、あの忌まわしい魔瘴の「傷」を、じんわりと癒していく。
停滞していた魔力が、ゆっくりと流れ出す。
(……これなら、いつか……)
竜の姿に戻れるかもしれない。そう思った時、俺は自分が、この数年間忘れていた「希望」というものを感じていることに気づいた。
▶セレスティア◇
私が脱衣所で待っていると、少ししてリュウさんが湯から上がってきた。
いつものぶっきらぼうな表情に戻っていたけれど、その紅蓮の瞳の奥に、ほんの少しだけ生気が戻っているような気がした。
「……どうでしたか?」
「……悪くない」
彼がそう答えた、まさにその時だった。
宿の入り口……昨日、私が開けた扉が、今度はもっと激しい力で、ドンドン! と叩かれた。驚いて二人で入り口に向かうと、そこには、息も絶え絶えな人影が立っていた。
それは、人間ではなかった。ボロボロの鎧をつけ、全身から血を流している、背の高い狼の獣人だった。
「……はぁ、はぁ……! ここは……まだ『癒しの湯』はやってるか……? 魔物にやられて、もう……」
彼はそう言うと、私たちを見るなり、その場に崩れ落ちた。私とリュウは、顔を見合わせる。
「リュウさん! お料理を!」
「……お前は、湯の準備だ!」
「はいっ!」
役立たずだった聖女の力と、「糸なし」料理人の宿が、本当に「誰か」に必要とされる場所になった。
私とリュウの、不思議な宿屋の最初の一日が、ようやく幕を開けた。
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