辺境聖域(わがや)の再生ごはん ~追放聖女と訳アリ料理人の、あやかし専門スローライフ~

ひより那

第1話 運命の糸と、糸なしの料理人

 ぱきん、と乾いた音が響いた。


 先ほどまで強大な魔力を放っていたはずの「黒曜竜こくようりゅうの魔石」が、勇者カインの足元で、ただの黒い石くれとなって砕け散った。


 原因はわかっている。


「……あっ」


 聖女である私、セレスティア・フィルミが、戦闘で傷ついたカインの腕を癒そうと《聖女の浄化(サンクチュアリ)》の光を放った。その光の余波が、貴重なドロップアイテムである魔石にまで及んでしまったのだ。


 パーティーメンバーの視線が、突き刺さるように私に集まる。


「またか、セレスティア!」


 鋭い声を上げたのは、パーティーの魔道具を管理する魔法使いの青年だった。


「今のでいくらの損害が出たと思ってる! あれさえあれば、新しい魔道具が……いや、王都で売ればどれだけの金になったと……!」

「まあまあ。セレスティアもわざとじゃあないんだから」


 フォローを入れるように見せかけて、盾役の戦士が大きなため息をつく。


「しかし、これで今月三度目だぞ。おかげで俺の新しい鎧も、あんたの杖も、当分おあずけだ」


 じりじりと後ずさる私に、リーダーである勇者カインが静かに向き直った。彼は傷が癒えた右腕を軽く握りしめると、痛ましそうな、それでいて諦めたような顔で言った。


「セレスティア。君の浄化の力は素晴らしい。僕のこの傷も、もうすっかり治った」

「カイン様……!」

「だが、君の力は……強すぎるんだ。僕たちの旅には、繊細さに欠ける」


 彼はあまりにも丁寧な、追放宣告だった。


「すまないが、今日の野営をもって、君にはパーティーを外れてもらう。……王都に帰るなら、これまでの報酬に色を付けて渡そう」


 ▶セレスティア◇


 荷物をまとめる時間は、あっという間だった。


 渡された金貨の袋はずっしりと重かったけれど、私の心は、その重さとは裏腹に、奇妙なほど軽かった。

 もちろん、仲間だと思っていた人たちから「役立たず」の烙印を押されたのはショックだ。カイン様が差し伸べてくれた手を、私が掴めなかったことも悔しい。

 けれど、それ以上に。私は、ずっと恐れていた「あるもの」から解放される喜びに、打ち震えていた。


(これで、逃げられる……!)


 私はそっと左手の小指を見た。そこには、私にしか見えない、一本のが結ばれている。私の「運命」を示す、呪いのような糸。


 この糸がどこに繋がっているのか、私は知っている。王都のはるか北、氷に閉ざされた帝国の玉座。血も涙もないと噂される、冷酷非道な「北の氷帝」に。


 聖女である私に、政略結婚の話が持ち上がったのは数ヶ月前。相手があの氷帝だと知ったとき、私は絶望した。私の目には、彼と私が「運命」で結ばれているのが、はっきりと見えてしまったから。


 勇者パーティーへの参加は、その「運命」から逃れるための、必死の賭けだった。けれど、私はここで「役立たず」になった。


(役立たずで、よかった!)


 パーティーを追放された聖女。そんな私を、国が無理やり氷帝に差し出すことはないだろう。


 私は金貨の袋を握りしめ、あえて王都とは逆方向……魔王領との国境線、辺境の地を目指して歩き出した。


「運命」の糸が届かない、一番遠い場所へ。



 ◇



 王都を出てから、何週間が経っただろうか。乗り合い馬車を何度も乗り継ぎ、最後は山道を歩き続けて、私はようやく辺境の村にたどり着いた。

 そこは、切り立った山脈を背にした、寂れた村だった。山脈の向こうは魔王領だという。村はずれには、不気味なほど静かな森が広がり、その入り口に、打ち捨てられたような古い宿屋がぽつんと建っていた。


「……今夜は、ここで野宿かな」


 看板は半分朽ちており、かろうじて「湯治場」という文字が読める。ずいぶん前に廃業したのだろう。


 せめて雨風がしのげれば、と重い扉に手をかけた、その瞬間。


 ふわり、と。


 隙間から、信じられないほど食欲をそそる匂いが漂ってきた。ことことと煮込まれた野菜の甘い匂いと、香ばしい肉の匂い。


(誰か、いる……?)


 追放されてから、ろくな食事をしていなかった私のお腹が、情けない音を立てる。私は、その香りに引き寄せられるように、ぎい、と音を立てて扉を押した。



 中は埃っぽく、蜘蛛の巣が張っていたが、その奥。ボロボロの厨房だけが、まるでそこだけ時間が違うかのように、綺麗に磨き上げられていた。そして、大きな寸胴鍋の前で、一人の青年が一心不乱に木べらをかき混ぜていた。

 黒曜石のような黒髪と、燃えるような紅蓮の瞳。無愛想に見えるが、驚くほど整った顔立ちの彼は、私を一瞥すると「……客か?」と低く呟いた。


「あ、いえ、あの、通りすがりの……」


 しどろもどろになる私を、彼はじっと見つめた。その視線は、私の内側まで見透かすようで、居心地が悪い。

 だが、彼はすぐに興味を失ったように寸胴鍋に向き直ると、小さな器に中身をよそい、カウンターに無造作に置いた。


「……腹が減ってる顔だな。座れ」

「え?」

「まかないだ。残すと怒る」


 有無を言わせぬ物言いに押され、私は恐る恐るカウンターの椅子に腰掛けた。


 差し出されたのは、具だくさんのシチューだった。


 スプーンですくって一口、口に運ぶ。瞬間、私は言葉を失った。


(……おいしい)


 ただの一言だった。


 野菜は驚くほど甘く、肉はほろりとろける。スパイスの複雑な香りが、体中に染み渡っていく。追放の旅でささくれ立っていた心が、温かいスープに溶かされていくのがわかった。


「……美味しい、です」


 ぽろり、と涙がこぼれた。

 止まらなかった。私は、まるで子供のように泣きながら、夢中でシチューを食べ続けた。


 どのくらいそうしていただろうか。器が空になる頃には、私の涙もすっかり乾いていた。


「……ごちそうさまでした」


 青年は「ん」とだけ短く答えると、鍋の手入れに戻っている。私はその横顔を、じっと見つめた。


(この人は……)


 いつもの癖で、彼の「運命」を見ようとして、私は息を呑んだ。


 目を凝らす。何度、見ても。


 ――ない。


 彼には、あるはずの《運命の赤い糸》が、一本も見えなかった。誰とも繋がっていない。この世のどんな「運命」の筋書きにも、彼は存在していなかった。


 運命から逃げてきた、私。


 運命を持たない、彼。


 ここなら。「役立たず」の私でも、何かできるかもしれない。


「あの……!」


 私は椅子から立ち上がっていた。


「私、ここで働かせてもらえませんか!」


 彼は怪訝そうに眉をひそめる。


「何ができる」

「《聖女の浄化》が使えます! ここの埃、全部綺麗にできます! お掃除なら、誰にも負けません!」


 私の必死の言葉に、青年は一瞬きょとん、とした顔をし、それから、ふい、と顔をそむけた。


「……好きにしろ」

「えっ」

「ただし、まかないは食いっぱぐれるなよ」


 ぶっきらぼうな許可に、私は満面の笑みで頷いた。


「はいっ!」


 こうして、役立たず聖女セレスティアの、辺境の宿屋での新しい生活が始まった。

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