第36話 潜入

 海に近い倉庫街の空気は熱を含んで、肌にべっとりまとわりつくようだった。

 午前中から湿気が多く、埃とオイルと潮の匂いが混ざった重い空気を肺に吸い込む。


 今日は、有給を取っていることになっている。

 昨晩のフライトは、ボクの分もあおいさんがポケットマネーから支払ってくれた。一番安いエコノミーシートだったからか、興奮していたからか、一睡もできなかった。でも、不思議と眠くない。頭が冴え渡っている感覚すらある。


 山下さんと一緒に乗ってきた白いバンを遠くに止め、3人で車が通れない裏路地を進む。


「あそこに見えるのがPT. Indotek Nikmatの倉庫であり、PT. Mulya Niaga Supplyの倉庫でもある建物です」

 山下さんが汗を拭いながら言った。右手に持った釣り竿が揺れる。


「警備員は今は2人。でもこんなところに誰も来ないので、警戒はゆるいです。午後に在庫を運び出すという情報が入ったので、やるなら今しかありません。でも、危険ですよ。見つかってどこかに連れて行かれたりしたら……」

「山下さん、その話は車の中でさんざんしたじゃないですか。私にはその覚悟があるって」

 あおいさんがおだやかに微笑んで言った。


「でも颯真、あんたは見張り役でもいいのよ」

「いや、ボクも行きますよ。一緒に行かせてください」

 黒い帽子のつばを握りながら言った。ボクの服装は、黒の帽子、黒のジャージ上下、黒のスニーカー。潜入だから、全身黒にした。常夏ジャカルタの太陽に灼かれて、むちゃくちゃ暑い。あおいさんも似たような格好だけど、汗ひとつかいていない。


 ボクたちは片耳に装着した小型トランシーバーの接続を確認した後、事前に決めた動き通り、二手に分かれた。


 バケツと釣り竿を持った山下さんが、インドネシア語で警備員たちに話しかけ始める。ここらへんで良い釣り場はどこか、と聞いている。冗談を交えた会話に、警備員の笑い声が上がった。


 その瞬間を逃さず、あおいさんとボクは、壁際の影から倉庫の側面にある通用扉へと走った。

 鍵のコピーはすでに、山下さんから受け取っていた。鍵を差して回すと、にぶい金属音がして錠が外れた。扉を慎重に押すと、きしんで開いた。

「──急ぎましょう」



 中は思った以上に整理されていた。


 部品名やロット番号が記された段ボールが、整然と積まれている。中央には、作業台が4つある。台の上には、製品を分解して再梱包している途中のものもあった。


「あった、これだわ」

 あおいさんが声を低くしてつぶやく。該当のロット番号が記された箱だ。段ボールの封は甘く、ガムテープが途中で剥がれている。中を開けると、タグ付きの電子部品だ。


 ひとつを取り出して、山下さんから渡されていたスキャナーをかざす。ロット番号のシールが偽造されていても、このスキャナーでコア部品のユニークIDが読み取れる。ばっちり、探していたIDだった。

「証拠を掴んだぞ!」


 ボクは、ひとつひとつ電子部品を段ボール箱から取り出して、スキャンしていく。その横であおいさんが、スマホで証拠写真を撮っている。


 10分間ほど作業を続けていると、トランシーバーの受信機に鋭い声で警告が飛んできた。

「気をつけてください!誰かがそっちに行きます!」


 ボクはスキャンするのに集中していて気づかなかったけど、いつの間にか倉庫のシャッターの外で、5〜6人の男性が何やら話している。がちゃがちゃと、シャッターの鍵を外す音が聞こえる。


 やばい!見つかる!


 ここからさっき入ってきた通用扉まで15m。シャッターから通用扉まで、視界を遮るものは何も無い。


 あおいさんは瞬時にボクの腕を掴んで、通用扉に向かって走ろうとする。


「あおいさん、そっちは間に合いません。こっちです!」


 走りかけたあおいさんの腰を抱いて持ち上げ、フォークリフトの裏に回り込む。

「ちょ、颯真!何するの……」

 あおいさんが足をバタバタし、ボクはバランスを崩す。右肩をフォークリフトの後部に打ち付けた。


 痛みに思わず声を上げそうになった時、シャッターが開いた。ボクは声を飲み込む。あおいさんのバタバタしていた足が止まる。


 フォークリフトの影に隠れる。あおいさんが、隣でゴクリとつばを飲み込む音が聞こえた。

 6人の屈強な男たちが入ってくるのが、フォークリフトの運転台の隙間から見えた。


 ボクはとっさに、映像記憶に残っているこの建物の見取り図を脳内でスキャンした。


(この裏にもうひとつ扉があって、廊下につながっています)

 あおいさんの耳元でささやく。


 扉の錠に、祈る気持ちで鍵を差し込む。通用口と同じ錠であってくれ……。

 開いた!


 ボクたちは廊下に滑り込む。

 廊下に出たら、左に進み、2つ目の角を右に曲がる。その先に、入ってきたのとは反対側の出口がある。


 倉庫の中では男たちが叫んでいるのが聞こえる。取り出した部品を段ボール箱に戻す時間がなかった。それを見つけたのだろう。


 出口の扉を、音を立てないように気をつけながら開ける。

 建物の外に出たボクたちは、プランB地点に全力で走った。吸い込む空気が熱く湿っていて重い。肺が焼けそうだ。


 もう走れない、と思ったとき、山下さんが乗る白いバンが見えてきた。


 運転席の山下さんが飛び降り、スライドドアを開いた。


 ボクが先に飛び乗り、あおいさんの腕を掴んで引き上げる。肩がズキンと痛む。


「出してください!」

 スライドドアを閉めながら叫ぶ。バンがうなりを上げて発進する。背後で、怒鳴るインドネシア語が聞こえた。



「ふーっ、まさに危機一髪だったわね」


 倉庫街を抜けて幹線道路へ出たときに、ようやくあおいさんが言葉を発した。


「あ、ボクいままで、息吸うの忘れてました。ふーぅ」

 ボクも体の緊張を解く。


「あんなに走ったの、大学卒業以来、初めてですよ」

「あんたの映像記憶、たまには役に立つじゃない!」

「たまには、ってなんですか。命の恩人に向かって」

「まあまあ2人とも、助かったんだからいいじゃないですか」

「わっはっはっ!」

 3人で大声で笑った。


 バンの中には、埃とオイルと潮の匂いが残っていた。



 倉庫街を出てから2時間後、バンは空港へ向けて高速道路の渋滞をノロノロと進んでいた。


「お二人が入手したユニークIDのデータ、ばっちりです。さっき小休憩したとき、クラウドにアップロードされてるのを確認しました」

 山下さんがハンドルを握り、前を見続けながら言った。

「お二人を危険にさらしてしまって、本当にすみませんでした。倉庫マネージャーの情報では確かに、在庫の移送は夕方からだったんですが……」


「何があったんでしょうね」

 ボクがぼそっと言った。

「おそらく誰かが、移送を前倒ししようと指示したんじゃないかな。倉庫に入ってきたあの6人、正規の移送業者って感じじゃなかったよね。普段表には出てこないような人間が動いてる可能性もあるわ」


 たしかに、絵に書いたような裏社会の人の風貌だった。あの人達に捕まったら、と想像するだけで、全身が縮こまる。


 でも、ここまで来たらもう安心だ。


 後ろにゆっくり流れるジャカルタの街並みを見ながら、ボクは2週間前に来たシンガポール・インドネシア出張を思い出していた。


 シンガポールのルーフトップバーで見たマリーナベイサンズのSpectraショー、きれいだったな。というか、ショーのライトを浴びたあおいさんの顔がきれいだったのか。そのあおいさんを、今回の潜入捜査で助けられて、役に立てて、ほんとうに嬉しい。全力疾走したのは2時間前なのに、まだドキドキしている。


 スマホの時計を見た。午後2時になったところだった。

「あー、いまからシンガポール行きのフライトに乗ると、Spectraショーの2回目がちょうど見れそうですね。また見たいなー」


 思ったことを、思わず口に出してしまった。

 窓の外を眺めているあおいさんは、無反応だ。


「ま、いまから東京に戻るんで、関係ないですけど」

 ボクは慌てて取り繕う。


「ん?今なんて言った?」

 あおいさんが急にこっちを見る。

「あ、いえ、なんでもないです」

「ショーがなんとかって、言ってたでしょ」


 聞こえてるんじゃないですか。ボクは照れながら説明した。

「ここからジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港までは、この渋滞の感じだとあと1時間ちょっと。15時半ぐらいに着きます。17時発のSQ便に乗ると、シンガポール時間で19時50分にチャンギ空港に着陸。空港からの移動時間も考慮すると、マリーナベイサンズのSpectraショーの2回目、21時の回がちょうど見られそうですね」

「あんた、飛行機の時刻表覚えてるの?」

「飛行機とか、有名なショーとか、主要なものは大体記憶できますよ。高校生のとき、電車の時刻表、あの分厚い冊子のやつ、あれを全部覚えようとしたけど、それはさすがに……」


 あおいさんは、ボクの高校時代の話には興味が無いらしい。途中で遮って質問が来た。

「Spectraショーって、いつやってるの?」

「日曜日から木曜日は、20時と21時の1日2回、金曜日と土曜日は20時、21時、22時の3回ですよ。だから今日金曜日は、2回目を見逃しても3回目が……」

「颯真、ナイス!」

 あおいさんはボクの肩をバシッと叩いた。


「うぐっ」

「あ、ごめんごめん。でも、ただの打撲でしょ」

 そう言いながらスマホを取り出し、メッセージを打ち込んでいる。


「あ、すぐ既読になった。オッケーだ。よし!」

 それからしばらくスマホを操作していたあおいさんが、ボクの方に向き直る。

「颯真は先に東京に帰って、週末はゆっくり休みなさい。肩、痛いんでしょ。私、一人でシンガポールに行ってくる」


 あおいさんと一緒にSpectraショーを見られるのは、もう少し先になりそうだ。

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