第33話

 人がいっぱいだと、部屋の空気はぐっと濃くなった。

 薄暗い室内はざわめいている。話し声や物音は絶え間なく、人々は教室の前方に垂れ下がったスクリーンを見たり、物珍しそうに教室を眺めたり、スマホを見たりしていた。椅子が足りなくて、立ち見の人もいる。

 こんなに人がいる視聴覚室は、初めてだ。

 心なしか空気が薄い気がして、分厚い遮光カーテンを握りしめる。

───あと、十分で上映だ。

 ゆっくり息を吸って吐く。それでも喉元にまで迫り上がった緊張は出ていかなかった。

(これから挨拶、できるかな…)

 ここまで人が集まるのは、予想外だった。ついさっき、ティアラを頭にのせた水野くんが、大勢の人を引き連れて別棟にやってきた。それとは別に、橘くんを撮ったポスターを見てやってきた生徒も多いみたいだった。

 よく見ると、ファミレスで会った柄の悪い橘くんの友達もいる。その中の女子は、キョロキョロとあたりを見回して誰かを探している。「誰か」はおそらく、橘くんだ。

「カントク、大丈夫?」

 スクリーンの裏側から声がした。ハッとして目を向けると、幕の隙間から橘くんが顔を出していた。

 スクリーン裏の周囲には幕を垂らして、簡易的な控室みたいにしている。部員の荷物が置いてあるそこに、橘くんは籠っていた。

 吸い寄せられるように中に入る。仕切られた狭い空間はより暗くなり、秘密基地のような特別な空気が流れていた。

「緊張してる?」

「うん…」

 お互いの顔が見える距離まで近づくと、オレンジっぽい橘くんの匂いがした。

「ほんとだ」

 緊張で冷たく汗ばんだ手を握られる。彼の手は大きくて、温かい。ざわついていた胸が少し落ち着く。呆れてしまうほど、自分が頼りない。小さく口を開く。

「…人に、どう思われるのか怖いんだ」

 彼の手を握り返す。

 漠然とした不安。作品が笑われたり、馬鹿にされると、その分自分の価値も損なわれる気がする。小石に怯えながら裸足で歩くように、少しずつ傷ついていく。

 繋がった手を見つめる。彼には、今の僕はどう映っているんだろう。今更なのに、怖くて顔を上げられない。

「カントクの良いところってさ、滲んでくるんだよね」

 静かな声が降ってきた。

 え?と呟いて視線を上げると、橘くんが海のように深い色の目をしていた。

「言葉とか目にさ、今こんな事考えてるなとか、こう思ってくれてるなとか…ジワーって出てる」

「そ、そうかな…」

 そうだよ、と彼が笑う。

「だからさ、きっとみんなすぐにじゃなくても、後から受け取ってくれると思う」

「後から…」

 胸のつっかえが、氷が溶けるように小さくなっていく。

「この映画もさ、見た後にご飯食べてる時とか、寝る前とかそんな時に思い出して、ジワーってなるんだよ」

「じわーっ…」

 なんだか、言葉の響きが面白い。それだけで不思議と気持ちが前向きになる。クスクス笑うと、額をくっつけられた。

「あと、主演が俺だし」

 彼がイタズラっぽく笑う。

(ああ、そうだった…)

 この映画は、一人で作ったんじゃない。

 彼が僕の奥にある熱を表現してくれた。奇跡があったんだ。その奇跡は大きすぎて、たまに忘れてしまう。

 そうして思い出す度に新鮮に驚いて、心が震える。

 ありがとうと囁くと、掠めるようにキスされた。

「ん……」

 触れるだけのキスに、これまでの記憶が駆け巡る。

 桜も夕日も海も雨も彼と過ごした。深く深く、この人を愛した。何にも代えられない宝物が、身体に宿っている。指先から、力が湧いてくる。

「おい日村、そろそろ時間…」

 水野くんが幕を引いて、目が合った。見られたと思ったのも一瞬で、思い切り幕を閉められてしまった。

 二人して気まずく目を合わせて、何か言おうとしたけど、やっぱり笑ってしまった。

 幕から出ると、顰めっ面の水野くんにバシンと背中を叩かれた。喝を入れられたのかムカつかれたのか分からないけど、嬉しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る