第22話

「おばさんこれ見て!」

 片方の靴を履いたまま、橘くんがテスト用紙を掲げた。玄関先は外の熱気と冷房が混じってあたたかい。生ぬるい風がリビングへ流れる。そこから足音がして、母が顔を出した。

 丸でいっぱいのそれを見て、母が頷いた。無言で親指を立てると、彼も嬉しそうに親指を立てた。

 それを見てちょっとおかしいような、ほっとした心地になる。大きな足音を立てて、彼は僕より早く二階に駆け上がった。

 その後を追うと、先に部屋に着いた彼がクッションに座っていた。満面の笑みで両手を広げている。エアコンもついていて、準備万端だ。

 嬉しいけれど、とにかくその笑顔が眩しくて直視できない。胸が熱い。太陽のような笑顔にふらつくと、ガバッと抱きしめられた。見えない彼のしっぽが、ブンブン振られてるのが分かる。

───努力の甲斐あって、彼は補習のテストに全て合格した。

 これで部活停止は免れた。安心すると同時に、彼の頑張りが身を結んだのが嬉しい。積み重なった問題集の塔を思い出す。

「カントク…」

 そう、つまり。

 補習テスト勉強中に禁止だった、スキンシップが解禁されたのだ。

 健気にルールを守っていた彼は、今もハグ以上のことをしてこない。眉を寄せて堪えている。なさけない大型犬の顔に、身体の奥がぎゅっと掴まれる。その顔が近づいてきて、鼻先が触れそうになる。

「ご褒美ちょうだい…」

 彼の掠れた声。その泣きそうな顔にダメになったのは、僕だった。

 彼が可愛い。望むものを全部与えたい。僕のことが欲しいなら、なんだってしてあげたくなる。

 心臓が脈打ち、指先が震える。興奮と緊張が混じって、胸の中に熱と氷がある。溶け合わないまま、彼にぐっと近づく。

「ん………」

 唇が触れると、何かがじわっと溢れた。

 それは熱のような、情のようなものかもしれない。久しぶりの温もりに、身体が満ちていく。

「…ふぁ……」

 舌が入ってくる。このままだと、生あたたかい僕の中身が溢れてしまいそうになる。形が保てない。ドロドロになって彼に流れ込んでしまう。

 それは、怖いことだ。

 思わず彼の腕をぎゅっと握る。唇が少し離れた。

 腰に手を添えられて、思わず跳ねた。彼の手つきが、いつもと違ってしっとりしている。

「…っテ、テスト!頑張ったね…!」

 身体の反応を誤魔化すように声を張る。なるべく明るい声で、キスの余韻を散らす。

 彼はくぐもった声を出して、頭をこてんと預けてきた。胸の中に綺麗な形の頭が収まる。その丸みを掌で感じたくて手を伸ばし、ひっこめる。

(だめだ、これ以上触れたら…)

 彼とさよならの準備をすると決めたのだ。これ以上くっついたら、離れる時が痛い。拳を握りしめて、丸みをのある後頭部を見つめる。

 ふと見下ろすと、彼の視線とぶつかった。その瞳はすわっていて、どこか鋭い。

 ぐっと、右腕が強い力で引っ張られた。

「え?…うわっ!」

 同時に、視界が反転した。

 気づいた時には、ベッドに投げ出されていた。ギシッと音を立てて、彼が覆い被さる。

「た、橘くん…?」

 恐る恐る見上げる。

 逆光で表情が見えない。頬に手が添えられる。彼の手はひんやり冷たかった。

───怖い。

 身体が固まる。彼のいつもの太陽のような明るさが身を潜め、夜の深い森の空気が漂う。カーテンを閉めた窓の外で、蝉が鳴いている。

 端正な顔が近づいてくる。

 動けないでいると、視界がより暗くなる。何をされるのか分からない。キスなのか、それよりも深いことなのか。喉が渇いて、声が出ない。

 コンコンと扉が叩かれた。

 その音に飛び上がる。思いっきり腕を突っ張って、彼から離れようとしたけど、びくともしない。

「橘くん…っ」

 小声で抗議する。彼は僕の上から離れないまま扉の方を見つめる。

 すると、小さく空いた扉の隙間から、ニョッとお盆が差し出された。苺のショートケーキが二つ載っている。それはゆっくりと垂直に、床に置かれた。

「ご褒美」

 母は姿を見せずそれだけ言って、扉が閉まった。床に鎮座する二つのショートケーキは結構大きい。

 思わず、僕たちは顔を見合わせた。

 そして堪えきれず同時に吹き出した。肩が震えて、呼吸がせわしない。さっきまでの薄暗い空気は千切れてどこかへ消え去った。

 落ち着くと、彼はいつもの顔に戻っていた。

 笑い涙を拭きながら食べよっかと言えば、橘くんは大きく頷いた。

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