第21話

 沸騰した鍋に、折れないようそっとパスタを入れる。

 広々としたキッチンは新居のように綺麗だった。使用感がないのは、彼が料理をしないからだろう。別の鍋でパスタソースを温める。

 彼はほぼ一人暮らしで、食べるものはコンビニか外食で済ませてると聞いた。それを知って、この一週間は家にお邪魔した時は何かしら作るようにした。彼の父は海外赴任らしい。リビング角には、綺麗な女性の遺影が飾られた仏壇がある。

 茹で上がったパスタを水切りする。二人分の麺はずっしり重い。彼の方が少し多くなるよう菜箸でお皿に盛り付ける。温まったパスタソースの湯気を頬に受けて、彼の空白にピースが埋まってきたのを感じた。

『どうして、部活に来てくれるようになったの?』

 あのファミレスでの質問の答えは、意外なところから降ってきた。

『現国が平均点超えたら、部活に出ようと思ってた』

 休憩の合間に、彼がふと呟いた。

 何のことか分からず首を傾げていると、彼は少し間を置いて、目を伏せたまま言葉を紡いだ。

『一緒に「暖雨」を見た時、話が難しくて全然分かんなかった。でもカントクはすごい泣いてるし』

 思い出して、顔に熱が集まった。初めて彼と部室で映画を見たのは、もう二年前になる。

『俺はあの時、スクリーンに映る母さんの顔をただ懐かしんでた』

 彼が切なそうに目を細めた。

 空気に切なさが溶け出して、息をすると肺に水が溜まる感覚になる。無意識に唇を噛みしめた。

『この人はどんな気持ちで、この映画を見たんだろうって思った』

 彼が顔を上げて、僕を見つめた。瞳が小さな星のように輝いた。

 勉強とか、自分の頭で考えることをちゃんとしないと、この人と同じ目線で映画を見られない。

 それで、現国を頑張ったんだよね、と照れたような、恥ずかしそうに彼が言った。

 僕はうん、うん、と頷いた。胸に温かい波が生まれる。

───二年の期末は平均点まであと一点足りなかったらしい。だから三年の最初の中間考査まで待つつもりだった、と。

『でもあの日、桜を見てたら…』

 懐かしむように言葉を区切る。

『前はただキレーって思うだけだったのに、散っていく切なさとか、花びらが透けそうで綺麗とか、言葉が浮かんできて…』

 初めてちゃんと桜を見た気がした、と笑った。花が咲いたような笑顔だった。

───俺、できるようになったじゃん。もういいんじゃないかって。

 それであの日、カントクを追いかけた。


 お盆にパスタを二皿のせて、階段をのぼる。一段一段、彼に近づく。

 彼の部屋の前で、ふと立ち止まった。香ばしいトマトソースの匂いが立ちのぼるパスタを見つめる。彼はトマトが好きで、家の鍵にはトマトのキーホルダーをつけていた。

 彼は笑うと、右側にエクボができる。色んな彼を知った。遠い桜の木の下で立っていた姿からは想像つかないほど、彼の内面は豊かだった。

 彼に触れられると、そこから僕の全部が溶け出しそうになる。惹かれる、というのはこういうことなんだと肌で感じた。

 けれど、幸福と同じぐらい胸がざわめく。身の丈の合っていない、豪華な衣装を着てるような落ち着かなさにも似ている。どんなにそばに居ても、きっとそれは一生なくならない。

 ドアノブをぎゅっと握り扉を開けると、寝息が聞こえた。そっと中に入ると、彼はテーブルに突っ伏していた。彼の隣には、積み重なった問題集がある。

(詰め込み過ぎちゃったかな…)

 いよいよ明日は補習のテストだ。朝から復習と練習テストをしていたら、お昼を過ぎていた。

 少し申し訳なさを感じ、音を立てないようにお盆をテーブルに置いた。彼の寝顔は子供みたいにあどけない。隣にそっと腰をおろし、その綺麗な顔をまじまじと見る。

───どうしてこの人は、僕を好きと言ってくれるのだろう。

 彼は、僕の映画に出会ってくれた。それだけでも奇跡なのに、僕に気持ちを向けてくれるなんて、もはやフィクションだ。しかしそれには応えられない。

 監督と演者としてなら、いくらでも共にいたい。同じものを作っていきたい。そう思えるほど、彼には才能があるし努力も惜しまない。イミテーションの輝きじゃない、本物の星の輝きを持っている、逸材だ。

 だからこそ、一緒になれない。

 彼から視線を外し、窓の外を見る。日光が眩しくて、道路が白く見える。

 歩く人の影はとても短い。夏の日差しは容赦なく正体を暴く。もしあそこに、僕がいたらと考える。

 僕は、つまらない人間だ。

 人と話すのは苦手だし、面白い話もできない。少し勉強ができるだけで、誰かを幸せにできるわけじゃない。

 けれど映画は違う。映画を作ることは、僕にとって言語よりも確かな表現だ。そして、創作物は作者から生まれた物だけど、本人ではない。

 だから救われている。

 作ることで、自分の代わりになる。人や世界と繋がる架け橋になり、こうして彼とも出会えた。

 目の前にある寝顔と、泣いていた小さな彼を重ねる。不思議な巡り合わせだ。だからこそ、彼は誤解している。

 彼が好きなのは僕じゃない。僕の映画だ。

 きっと、ありのままの僕はいらない。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。

「んん………」

 彼が首を反対側に向ける。

 起こしてしまったと思い、飛び退いた。お皿にぶつかり、カシャンと音がたつ。冷や汗が頬を伝う。

 しかし彼は、もぞもぞ動いて頭の位置が落ち着くとまた寝息を立てた。背中が呼吸に合わせて浮き沈みする。

 ホッと胸を撫で下ろす。同時に、さめざめ悲しくなる。どうしようもない、と言い聞かせるのにじわっと涙が滲む。無防備な彼の姿を目に焼き付ける。

 彼とさよならの準備をしないといけない。湯気が立っていたパスタは、すっかり冷めてしまった。

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