第7話
「おーい」
後ろから聞こえた声に、箒を落とした。カラン、と乾いた音がした。
何かに射抜かれたように、固まった。頭の隅で、入部希望者が来たかもと考える。早く、振り返らなきゃいけない。
「ここ、映画研究部?」
その声は、すぐ側で聞こえた。
弾かれたように振り返る。そこには、男子生徒がいた。と、思う。緊張で俯く。どうしても、顔を直視できない。
「は、はい、え、映画研究部です…」
前髪をカーテンみたいにして、目線が合わないように見上げる。けれど男子高校生は背が高いのか、すぐ近くの胸ポケットしか見えない。ちょっと、近い気がする。距離を取ろうと一歩下がった。コツンと、足に硬いものが当たった。
「あっ」
思わず声が出る。落とした箒を、蹴ってしまった。それは男子生徒の足元に滑りこんだ。僕は焦って、すぐに拾おうとたら、一緒のタイミングで彼としゃがみ込んだ。同じ目線になる。
「はい」
箒を渡されて、固まる。
あの、彼だ。
桜の木の下で、空間を自分のものにしていた、彼だった。信じられなくて、じっと見てしまう。あまりに整った顔が、すぐそこにある。目が合っている。彼も、僕を見ている。
僕は勢いよく立ち上がった。冷や汗が出て、箒を握りしめる。心臓が思い出したようにバクバクと音を立てる。目が合った時、僕の身体の全てが止まっていた。
「ご、ごめん!」
後ずさって、頭を下げる。僕には、彼が眩しかった。前髪を触って、顔が隠れているか確かめる。自分が挙動不審になっている、自覚はある。こんな僕だから、馬鹿にされても仕方ない。いつもそうだった。けれど彼はそんな僕を笑ったりせず、ゆっくりと部室を見回した。
「ここって、映画とか見れるの?」
まだ騒がしい胸を落ち着かせながら、天井をチラリと見る。ここには、視聴覚室の名残でスクリーンがあった。
「は、はい…ディスクがあれば、プロジェクターで見れます…」
彼も天井にあるスクリーンに気がついたのか、腰に手を立てて見上げている。スクリーンを下ろす棒は、教室の隅に立てかけられていた。それを取りに行く、彼の均衡のとれた後ろ姿を見つめる。やはり、あの彼だ。
窓から陽が入り、ほこりさえもキラキラ光る。彼がいるだけで、スクリーンも机も役割を与えられる。信じられない。こんな、引き込む力のある人がいるなんて。
ポスターが地味なのか、映画に興味がないのか、誰も尋ねて来なかった。やっぱりと思った。仕方ない。そう思いつつ今日は誰か来るかもと、毎日教室でお弁当を食べていた。
まだ現実感がない。まさか最初に映画研究部を訪ねてきたのか、彼だなんて。それこそ映画みたいだ。ぎゅっと瞬きをする。視界は一瞬ぼやけたけど、ちゃんと元に戻った。
棒を掴んだ彼が、長い手を伸ばしてスクリーンを下ろす。少し黄ばんでいるけど、大きなスクリーンが姿を現した。
「なんかオススメある?」
彼はプロジェクターに手を置く。誕生日に買ってもらったプロジェクターだ。その隣には、家から持ってきたDVDのパッケージが積み重なっている。丁度、今日は一人で映画を見ようと思っていた。
「えっと……」
DVDの山を崩して、考える。僕が春をテーマに選んだDVDのパッケージは、それぞれ柔らかい色だった。どれも好きな映画で、迷う。彼はどんな映画が好きなんだろう。チラリと見上げると、彼は一点見つめていた。
その視線を辿ると、『暖雨』というDVDに行き着いた。
「これ…好きなんですか?」
『暖雨』を指差すと、心なしか彼は張りつめた顔になった。息を止めたようにも見えた。
慌てて手を引っ込めた。しかし彼はDVDから目線を動かさない。『暖雨』のパッケージには、国民的女優の若い頃の姿が写っていた。
「ち、違うものに…」
咄嗟に、他のDVDに手を伸ばす。
「いや、これでいい」
静かな声だった。怒っているわけではないけど、押し殺している声。本当にこのまま再生していいのか、迷う。もう一度、彼を見上げる。口を固く結んだ彼は、小さく頷いた。覚悟のようなものが見えた。
電気を消して、カーテンを引く。教室は薄暗くなり、彼の表情は見えにくい。
少し躊躇ってから、再生ボタンを強く押した。スクリーンに、『暖雨』と映し出される。暖雨、春の暖かい雨。このタイトルは大きな伏線でもある。
彼の横顔を盗み見る。スクリーンの光に照らされて、造形美が際立つ。その横顔に、何か引っかかる。見覚えがある。
誰かに似ている。でも、こんな綺麗な顔は知らない。なのに、くっきりとした既視感。スクリーンの向こうから、ざあざあと雨の音がする。
着物姿の女優が傘をさす。空を見上げるところでズームになり、女優の顔が大きく映し出される。高い鼻に、印象的な美しい二重まぶた。雨は、彼女のために降っているようだった。
あ、と声が出そうになる。
慌てて、口をぎゅっと結ぶ。彷徨いそうになる視線を、前に固定する。頭の中が、少し混乱している。けれど、分かった。
彼は、この女優にそっくりだった。
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