第4話

 スマホをつける。時間を確認するふりをして、メッセージアプリを開いた。1番上にあるメッセージを、そっとタップする。

───あの日、これが届かなかったら夢だと思っていただろう。

 『橘 幸生』と表示された名前と「明後日、駅前で集合」というメッセージ。「分かった」と返信したら、猫のスタンプが送られてきた。

 何度も読み返したのに、新鮮に驚いてしまう。最後のスタンプが可愛くて、頬が緩む。きゅっと口を引き締める。スマホを消し、もうひと口アイスを運ぶ。ようやく、あと半分になった。

「ひと口貰ってもいい?」

 完璧な顔がすぐそこにあった。一瞬止まる。彼は僕の手元を覗き込んでいた。胸がまた騒ぐ。

 アイスのことだと気がついて、僕は勢いよく差し出した。何故か、橘くんは少し笑っている。サクッと音がして、アイスはまた小さくなった。

「おいし」

 スプーンを持つ指が長い。彼はどこもかしこも、綺麗な作りになっている。

 僕もひと口食べた。口の中に甘酸っぱさが広がる。やっと苺の味がした。


 映画館を出た時、周囲の人々はどよめいていた。

 僕と彼が歩くと、道がひらける。遠巻きに彼を見ている人もいる。チクチクいろんな視線が刺さる。それが痛い。逃げ出したい気持ちで、いっぱいになる。けれど絶対にできない。彼が泣いていたからだ。

 美しい二重まぶたから、涙がポロポロ溢れている。僕が渡した青いハンカチが、涙で濃い青色になる。絵画のようだった。見惚れてしまいそうになる自分を叱咤する。

 ぐっと拳を握りしめて、声を絞り出す。

「公園に行こう…!」

 彼はゆっくり頷いた。

 僕はとにかく、彼をここじゃないところへ連れて行きたかった。彼が泣いててもおかしくないところ。思い浮かんだのが、近所の大きな公園だった。きっとあそこなら、彼はいろんなものに晒されない。

 映画館のロビーでも、ショッピングモールの入り口でも、どこでも彼は見られていた。それがたまらず、嫌だった。黒い糸が胸で絡まるような気分の悪さと、早くという焦る気持ちがはやる。僕は彼の腕を掴んで、早足で公園へ向かった。

 青い芝生の真ん中に、ポツンとベンチがあった。派手な遊具はなく、人気もない。濃密な緑の匂いに、少し落ち着く。遠くで、子供の笑い声が聞こえた。

 ベンチに触ると、少し湿っていた。腰を下ろそうとしたら、彼の腕を掴んだままだった。慌てて手を離す。指先に彼の体温が残っている。

 ふと見上げると彼の涙は落ち着いたようで、目は眠そうに細められていた。僕の青いハンカチを、ぎゅっと握りしめていた。それが迷子のように痛々しくて、目を逸らす。

 ベンチに座ると、向こうに赤い自動販売機が見えた。僕はすぐに立ち上がった。

「買ってくる!」

 駆け足になる。風を切って自動販売機の前に辿りついて、飲み物を眺める。突然、自分でも驚くような力が働いた。

 ただ彼のために、何かをしたかった。あの映画を見て、彼がどんな気持ちで泣いたのか、分からない。感動の涙か、痛みの涙か、青く染まったハンカチからは見極められなかった。

 けれど、きっかけを作ったのは僕だ。彼を泣かせてしまったと思うと、いてもたってもいられなかった。喉が狭くなるように、息苦しい。

 ずらりと並ぶ飲み物を目の前に、気付いた。彼の好みが分からない。普段何を飲んでるのか、どんな味が好きか。

 少し考えて、とりあえず水を買った。それから、アイスをダブルで頼んでたのを思い出して、甘いものが好きかもと思った。フルーツジュースも買った。ダブルのうち一つはカフェオレ味だった気がする。ボタンの上に指をおいて、考える。

 結局、カフェオレもお茶もコーンポタージュも買った。

 両手に大量の飲み物を抱えてベンチ戻ると、彼は驚いた顔をしていた。涙は引っ込んだのか、頬は乾いていた。

「全部飲むの?」

「えっと、どれがいいか分からなくて…」

 ベンチの上に飲み物を置くと、座れるところがなくなった。仕方なく、僕は地べたにしゃがんで彼を見上げる。

 すると、彼は一瞬顔を伏せた。それから、肩を震わせてくっくっくっと笑った。次第に抑えきれなくなって、口を開けて笑った。笑うと目尻が下がって、幼くなる。

 顔にじわじわ熱が集まる。思えば、こんなに飲み物を買ってこなくてよかった。猛烈に、恥ずかしくなる。また情けないところを見せてしまった。失敗した。けれど、彼が笑ってくれた、それだけはよかった。

 ひとしきり笑うと、彼はまたハンカチで涙を拭いた。笑い涙だ。僕の目を見た。

「…ありがと、日村」

 長い指は円を描くように迷ってから、コーンポタージュを手に取った。

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