第41話 境界線の上で

 朝一番の桜精院は、紙の匂いよりも、なぜか鉄の匂いが強かった。


 大講義室の隣の小部屋。

 ユーマは机の上の封蝋を、じっと見下ろしていた。


 濃い赤の蝋。押された紋章は、二つの塔と波。

 この地域を名目上治める侯爵家――レーデルハイン侯爵家のものだ。


「……予想より、早かったな」


 ぼそりと呟くと、部屋の隅で腕組みしていたアストが目を細めた。


「森が静まり、街が灯って、商会が税を回す。

 “辺境の小村”で済ませるには、もう無理がある」


「誉め言葉として受け取っておくよ」


 ユーマは苦笑しながら、封を切った。

 中の文は簡潔だった。


 ――サクラリーヴの急速な発展について、侯爵家としても把握したく思う。

 治安・税制・開発状況の視察のため、代表団を派遣する。

 代表団の安全と便宜を図られたし。


 日付は一週間前。

 下のほうには小さく、「つき、三日のうちに到着予定」とある。


「で、その“つき、三日”が今日ってわけね」


 ミレイが窓枠にもたれながら、外を見て言った。

 水路の向こうから、薄く土煙が上がっている。馬車の列だ。


「人数は?」


「確認した斥候の話だと、騎士と従者を合わせて三十前後。馬車が四台。商人らしき連中も何人か混ざってる」


 ガルドが短く答えた。

 その顔は“戦”のそれではなく、“厄介ごとに備える顔”だ。


「兵を連れてくるってことは、“ただの挨拶”じゃないわね」


「だとしても、門前払いはできない」


 ユーマは苦く笑い、封書を机に置いた。


「王国法の上では、ここはまだレーデルハイン侯爵領の一部だ。

 “独立都市”なんて言葉は、どこにも書いてない」


「書くのは、これからだろう」


 アストがぽつりと言った。

 その声には、妙な静けさがあった。


「森の主と線を引いたみたいに、国ともいつか線を引く。

 今日は、そのための最初の“顔合わせ”だ」


「……そうだね」


 ユーマは深く息を吸った。

 森の匂いはしない。鉄と紙と、少しだけインクの匂い。


「六大局のうち、出られる人は全員。

 エシルとノエルは絶対。ミレイとガルドも。リナは診療院を離れられないから、代理を立ててもらおう」


「了解」


 ミレイが伸びをして、紐と定規を肩にかけ直す。

 ガルドはすでに腰の剣帯を締めている。


「迎える場所は?」


「門の手前じゃなくて……“水路の橋の上”にしようか」


 ユーマは窓から、街の入口を眺めた。


「森じゃなくて、水。

 “獣と戦っていた村”じゃなく、“水を回している街”としての顔を見せる」


「お前、そういうとこは本当に性格悪いくらい用意がいいよな」


 アストが呆れたように笑い、しかし目は楽しそうだった。



 サクラリーヴの西側――森からの道と大河水路が交わる橋は、朝から妙な緊張に包まれていた。


 桜盾の隊員たちが橋のたもとに整列し、市警と民兵が周辺の見物客を下がらせる。

 森前地区から眺めに来た木こりたち、魚港から浮かれた顔で上がってきた若い漁師たち。

 パンを抱えたままのベレッタや、子どもの手を引いた母親たちもいる。


「すげぇ……」


 誰かがぽつりと漏らした。


 森の向こうから現れた隊列は、サクラリーヴの日常とは明らかに違う色を纏っていた。

 磨き上げられた鎧。大きな紋章旗。

 風に揺れるのは、二つの塔と波を描いた紋。


 先頭には、槍を持った騎兵が六人。

 その後ろに、紺色の制服を着た役人風の男たち。

 さらに後ろに、仕立ての良い服を着た商人らしき一団と、荷を積んだ馬車。


「数で威圧ってほどじゃないが……“ここがどこに属してるか忘れるなよ”って顔だな」


 アストが低く呟いた。


 橋の中央には、ユーマたちが立っていた。

 ガルド、ミレイ、エシル、ノエル。

 それから、象徴としてアストと、桜精院の古参教授シグムント。


 ユーマは、いつものシンプルな服の上に、淡い桜色の短い外套を羽織っていた。

 胸元には、六大局を象徴する小さな六角の飾り。


(……背伸びしすぎてないといいんだけど)


 そんなことを思っているうちに、隊列が橋の手前で止まった。


 騎兵たちが道を開け、その間から一人の男が進み出る。


 四十前後。

 背は高く、黒髪を後ろでまとめている。

 派手さはないが、よく仕立てられた濃紺の上着に、銀糸の刺繍が走る。


「レーデルハイン侯爵家政務官、オスカー・レンドルと申します」


 男は軽く礼をした。

 その声は、遠くまでよく通った。


「サクラリーヴの代表者、井上優馬殿でよろしいか?」


「はい。街の市政を預かる者として、お迎えします」


 ユーマも礼を返した。

 頭を下げながら、視線の端でオスカーの目の動きを観察する。


 彼は、ユーマではなく、その後ろの地図板と水路の向こうの街並みを一瞥した。


(まず、街を見るか。……仕事ができるタイプだ)


「長旅、お疲れさまでした。

 まずは街の中をご案内させてください。

 森前地区、水路、魚港、市場、桜精院。そして、森の境界線も」


「ほう。自ら“境界線”を見せてくださると」


 オスカーの口元に、小さく笑みが浮かんだ。


「ええ。隠しておいて、後で言いがかりをつけられるのは困りますから」


 さらりと返すと、周囲の空気が一瞬だけ固まった。

 が、オスカーは楽しそうに目を細めただけだった。


「噂通り、歯に衣着せぬお方だ。ではお言葉に甘え、存分に拝見させていただきましょう」



 最初の案内先は、魚港だった。


 森からの道を少し外れ、水路沿いの坂道を下りていくと、潮混じりの風が頬を撫でる。


 まだ完成して間もない小さな港。

 木組みの桟橋がいくつも伸び、小舟が揺れている。

 網を干す竿、魚を並べる台、簡素な屋根の下では、既に数人の漁師が朝獲れの魚を捌いていた。


 代表団の従者たちが、思わず鼻をひくつかせる。

 魚の匂いは、慣れていない者には強い。


「ここが、水産業立ち上げの拠点……魚港です」


 エシルが一歩前に出て、穏やかに説明する。


「森の静まりと引き替えに、水が豊かになりました。

 森緩衝帯からの水と大河が交わるこの場所は、魚の群れが寄る“合わさり目”になります」


 オスカーの後ろにいた別の男――軍服姿の三十代が口を挟んだ。


「森の静まり、とは?」


「ご存じない?」


 ミレイが首を傾げる。


「森の一部が深く眠り、そのかわりに魔物の出没が減ったんです。

 代わりに水量が安定し、こうして魚が増えている」


「魔物の脅威が減ったなら、砦を増やさずとも……」


 軍服の男が言いかけたところで、ガルドが短く言葉を切った。


「“減った”だけで、“消えた”わけじゃない。

 それに、森が静まりすぎているのは、別の危険の予兆でもある」


 オスカーが興味深そうにガルドを見た。


「治安防衛局長のガルド・ストライヴ殿ですね。

 森について詳しいと伺っています」


「ああ。

 俺から言えるのは一つだけだ」


 ガルドは水面を見やった。


「森の中で何かが起きている。

 それを無理に暴こうとはせず、“こちら側を整える”ことを選んだ。

 ――それが、この港であり、六大局であり、森緩衝帯だ」


 魚港の片隅で、子どもたちがこっそり覗いていた。

 ベレッタの娘が、小声で隣の子に囁く。


「お客さんたち、偉い人?」

「さあ。でも、うちのパン買ってくれたらいいね」


 その声が、風に乗ってユーマの耳にも届いた。

 思わず口元が緩む。


(そうだ。

 誰が来ようと、ここは“パンと魚と木と水の街”だ)



 次に案内したのは、森前地区だった。


 かつては鬱蒼とした林だった場所に、少しずつ家が増え、果樹の苗木が並び始めている。

 炭焼き窯からは細い煙。

 製材所では、削られた板が積み上がりつつある。


 境界線には、等間隔に桜の苗と小さな灯台。

 森の主と取り決めた「六割保護」の線だ。


「ここから向こうが保護林。こちら側が開拓地です」


 ミレイが、境界の杭を軽く叩いた。


「境界線上には、森境界班の見張り小屋を三つ。

 エルフと人間の斥候が交代で常駐しています」


「エルフ……」


 オスカーがわずかに目を細めた。


「辺境の森に、今も“古き民”が残っているとは聞いていましたが」


「“残っている”という言い方は、あまり好きではありません」


 エシルが穏やかな声で口を挟んだ。


「彼らは森の住人であり、私たちは“森の縁に住まわせてもらっている”側です。

 お互いが線を引き合うことで、ようやく隣人になれたところです」


「森と線を引き、国とも線を引きたい、と?」


 オスカーがさらりと言う。

 ユーマは笑ってごまかした。


「まあ、いきなり“国境線”の話をするつもりはありません。

 今日はただ、“ここがどういう街になりつつあるか”を見ていただきたいだけです」


「ふむ」


 オスカーは森を見やった。

 静まり返った黒い塊。

 その手前に、人の手が入った帯と、淡い桜色。


「……不思議な光景だ。

 森を切り開いているはずなのに、“森が生きたまま”に見える」


「生き物だからね」


 ユーマは小さく答えた。


「切り倒して征服しようとしたって、百年もたてば“反撃”がくる。

 だったら、最初から六割は森のまま残して、互いの距離を測りながら暮らすほうが長持ちすると思ったんです」


「百年、か。

 辺境の村にしては、ずいぶんと遠い先まで見る」


 オスカーの言葉に、ユーマは肩をすくめた。


「目の前の冬を越すので精一杯の頃もありましたから。

 いま少し余裕があるなら、先の冬のことも考えたくなる」



 街の中心部――市場と桜精院を案内している間も、オスカーたちの視線は絶えず動いていた。


 店の並び。

 価格表。

 魚と肉と野菜の比率。

 通貨の種類――桜貨と王国貨の交換レート。

 掲示板に貼られた税の内訳と、平均賃金と安全手当の説明。


「税の項目が……多いな」


 軍服の男が眉をひそめた。


「市場環境税、教育文化税、備蓄基金税、森緩衝帯基金、安全基金……」


「多く見えますが、まとめれば“生き延びるための費用”です」


 ノエルが珍しく、きっぱりと言った。


「それぞれがどこに使われているかを、こうして掲示板に出すことで、

 “ごまかし”にくくなります」


「ごまかすつもりがないと?」


「ごまかしたくなる時が来るかもしれません」


 ノエルは正直に言った。


「人は弱いので。

 だからこそ、“ごまかしにくい仕組み”を先に作っておきたかったんです」


 オスカーが、興味深そうにノエルを見た。


「財務総務局長、ノエル・カーン殿。

 まだお若いのに、大変な仕事を任されていますね」


「若いから、まだ逃げられますよ」


 ノエルは苦笑した。


「逃げたくなった時に、“逃げても大丈夫な街”であってほしい。

 そのためにも、数字はきちんと整えておきたいんです」



 案内の最後は、桜精院の一室での“非公開の話し合い”だった。


 六大局の局長全員と、アスト。

 対するは、オスカー、軍服の男――ブリュノ・ハイネマンと名乗った――、商人代表として来た若い男二人。それから、侯爵家の書記官。


 窓の外からは、子どもたちの笑い声がかすかに聞こえる。

 外はいつも通りの日常。

 中だけが、少し空気が重い。


「さて――」


 オスカーが指を組んだ。


「一通り拝見しましたが、サクラリーヴは、我々が想定していた“辺境の森村”とはまるで違う姿になりつつありますね」


「悪い意味でなければいいのですが」


 ユーマは穏やかに答えた。


「悪いとは言いません。

 ただ、“放置できない”とは考えます」


 部屋の温度が、わずかに下がったように感じた。


「放置できない、とは?」


「この街は、森の資源と水と人をうまく回している。

 税もきちんと取り、平均賃金を導入し、安全手当まで支給している。

 治安も良く、六大局と市政議会という“自治の仕組み”まで整えつつある」


 オスカーは淡々と続けた。


「つまり――“侯爵家が直接手を入れなくても回る街”になりかけている、ということです」


 ユーマは黙って聞いていた。

 エシルが、静かに息を吐く音だけが聞こえる。


「それは、我々からすれば喜ばしいことでもある。

 辺境の一画が、自ら立って歩けるようになるのは、王国全体の利益にもなりうる」


 一拍置いて、オスカーは言葉を変えた。


「しかし同時に、“勝手に歩き出した子ども”を、親は不安に思うものです」


 喩えには優しさがあるが、その裏にあるものは重い。


「率直に申し上げましょう」


 オスカーは指を組み替えた。


「侯爵家としては、サクラリーヴを“正式な特別自治都市”として認める用意があります。

 代わりに――」


「代わりに?」


「税制と軍事の一部を、侯爵家の管理下に置く。

 具体的には、

 ・総税収の三割を“侯爵家納”とすること

 ・サクラリーヴに常設の駐屯隊を置き、その指揮権を侯爵家軍に属させること

 ・通貨制度について、王都の承認を得た上で桜貨を“地方貨幣”と登録すること」


 部屋の空気が、目に見えない膜を張ったように変わった。


(来たな)


 ユーマは心の中で呟く。


(三割。駐屯隊。通貨の登録。

 “正式な枠”を与える代わりに、“喉元を押さえる”条件)


 ノエルの指が、帳簿の端で小さく震えている。

 ガルドは表情を変えないが、肩のあたりに微かな緊張が走った。


「もちろん、これは“最初の提案”に過ぎません」


 オスカーは穏やかに言った。


「交渉の余地はある。

 だが、いずれにせよ“完全な独立”は難しいとお考えください。

 ここは王国の領土であり、侯爵家の所領の一部であるという建前は、崩せません」


「……建前、ですか」


 ユーマは、思わずそこに引っかかった。


「建前と本音は、きちんと分けておいたほうが楽ですから」


 オスカーの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「本音を言えば、侯爵家にとっても“うまく回っている街”は喉から手が出るほど欲しい。

 ですが、手を出しすぎれば壊してしまう可能性もある」


「だから、“冠”だけ被せて、首だけ押さえる……と」


「そういう言い方もできるでしょう」


 オスカーはあっさり認めた。


「井上殿。あなたは聡い。

 だからこそ、最初から嘘をつくつもりはありません」


 ユーマは、そこで初めて小さく笑った。


「正直でいてくれるのは、助かります」


 エシルが静かに口をはさむ。


「駐屯隊について。

 侯爵家の兵が常に街の中にいるというのは、“治安面”ではどうお考えですか?」


 ブリュノが答えた。


「駐屯隊は外部の脅威に備えるためのものだ。

 森の魔物、他領からの越境者、盗賊団。

 市中の治安は、これまで通りサクラリーヴ自身の警備で構わない」


「兵が街の中で、酒を飲み、喧嘩をし、女を追い回すことはない、と?」


 ガルドの声には、わずかな棘があった。


「……抑える。約束しよう」


「約束で人は変わらない」


 ガルドはきっぱりと言った。


「だからこそ、お前たちの兵を入れるなら、こっちはこっちで“境界線”を引くことになる」


「境界線?」


「街の手前に駐屯地を置く。街の中で常駐はさせない。

 兵の出入りと宿の利用には、治安防衛局と市警の許可を通す」


 ブリュノが眉をひそめる。


「侯爵家の兵に、“許可”だと?」


「ここはサクラリーヴだ」


 ガルドの声は低く、静かだった。


「森と話をつけ、六大局で動く街だ。

 外から兵を入れるなら、“街を壊さない形”で入ってもらう」


 オスカーが割って入った。


「ガルド殿。

 その条件の具体は、後ほど詰めるとして……」


 彼はユーマのほうを向いた。


「井上殿、あなた自身の考えを伺いたい。

 特別自治都市認定と引き換えの条件を、どう受け止めますか?」


 部屋の視線が、一斉にユーマに集まる。


 ユーマはゆっくりと息を吸い、吐いた。

 森の匂いはしない。

 代わりに、インクと紙と、人の汗の匂いがした。


「三割の税と、駐屯隊と、通貨登録」


 指を三本立てて、一本ずつ折る。


「税が三割持っていかれるのは……正直、きついです。

 今の人手と収益なら、市の運営と備蓄と安全基金とで、ぎりぎり黒字を回しているところですから」


 ノエルが慌てて帳簿を開きかけたのを、ユーマは指で制した。


「ですが、“突然全てを取り上げに来る”という最悪の状況を考えれば、

 “あらかじめ取り決めた三割”は、まだ交渉の余地があります。

 駐屯隊についても同じです」


「つまり?」


「“丸呑み”はしません。

 ですが、“拒絶”もしません」


 オスカーが目を細めた。


「その心は?」


「この街は、森とも、国とも、喧嘩をするつもりはありません。

 ただ、“壊されないための線”を引きたいだけです」


 ユーマは続けた。


「森とは、『保護林六割、人の領域四割』という線を引きました。

 国とは、『税三割、自治七割』くらいで線を引ければいいと思っています」


「自治七割、か」


 オスカーは苦笑した。


「随分と大きく出ますね」


「今はまだ、ただの数字遊びです。

 でも――」


 ユーマは窓の外を見た。


 魚港の水音。

 森前地区の木を切る音。

 広場の子どもの笑い声。

 診療院の前で誰かが咳き込む音。

 鍛冶場の槌音。


「この街には、もう“私ひとり”ではない、たくさんの手があります。

 六大局と、市政議会と、民兵と、商人と、職人と、子どもたちと。

 その全部をひっくるめて、“サクラリーヴ”と呼ぶなら――」


 ユーマはオスカーのほうに向き直った。


「――私ひとりの判断だけで、“侯爵家の街”にするわけにはいきません」


 部屋に静寂が落ちた。


 オスカーは、しばらくユーマを見ていたが、やがて小さく笑った。


「……なるほど。

 あなたの評判が高い理由が、少しわかった気がします」


「悪い意味でなければいいのですが」


「むしろ、扱いづらい意味で、ですね」


 オスカーは肩をすくめる。


「わかりました。

 今日のところは、“条件の提示”までとしましょう。

 あなた方が街の中で議論し、市政議会とやらで意見をまとめた上で、改めて回答をいただきたい」


「それなら、こちらも助かります」


 ユーマは頭を下げた。


「ただし――」

 オスカーは付け加えた。


「この街が“どこか別の勢力”と先に手を結ぶようなことがあれば、侯爵家としても手をこまねいてはいられません。

 その点だけは、ご理解ください」


「別の勢力、とは?」


「例えば、隣国の商会や教会、森の奥の古い集団……」


 そこまで言われて、エシルが思わず吹き出しそうになるのを、ユーマは肘で制した。


(森の主と“先に”手を結んでいる、とはさすがに言えない)


「我々が結びたいのは、“死なないための約束”だけです」


 ユーマは静かに答えた。


「誰かの旗の下に入るためではなく、

 森に喰われず、国に潰されず、人が暮らし続けられるための約束を」


「その言葉が、“反逆”と取られないことを祈りましょう」


 オスカーの声には、ほんの少しだけ愉快そうな響きがあった。



 日が傾くころ、代表団は一度、桜精院の客間に引き上げた。


 夜は街で過ごし、明日には森の境界線を改めて確認した後、侯爵領へ戻るという。

 その間に、街の中も彼らを観察するつもりでいる。


 ユーマは、六大局の面々と短く打ち合わせをしたあと、ひとり屋上に出た。


 風が少し冷たい。

 森の方角は、夕焼けに切り取られている。


「……どうだ?」


 背後から声がして、振り返るとアストがいた。

 いつの間にか、彼も屋上に来ていたらしい。


「扱いづらい街、って言われた」


「褒め言葉だな」


 アストは隣に立ち、森を見た。


「森と国。

 どっちも“全部支配したがる”連中だ」


「森の主は、“全部はいらない”って言ってくれたけどね」


 ユーマは笑った。


「六割あれば十分だって。

 人間のほうが、よっぽど欲張りかもしれない」


「その人間たちの中で、どう線を引くか、か」


 アストは腕を組む。


「国と喧嘩する気はないんだろ?」


「ないよ。勝てないし」


 ユーマはあっさりと言った。


「でも、“全部従う”つもりもない。

 森の主と交渉できたんだから、人間とも交渉できるはずだ」


「人間のほうが厄介だぞ。

 森みたいに、嘘をつかないわけじゃない」


「だからこそ、境界線を言葉にしておく」


 ユーマは森の影と街の灯の境目を眺めた。


「森とは六割と四割。

 国とは三割と七割。

 ――“このくらいなら、どっちも生きていける”線を、探す」


「欲張りだな」


「そうかな?」


 ユーマは空を見上げた。


「うちのスローライフってさ。

 誰かの犠牲で成り立ってるなら、それはもうスローでもライフでもないと思うんだ」


「贅沢なことを言う」


「贅沢を言えるくらいには、生き延びたんだよ。

 森編で、十分すぎるほど」


 アストはしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。


「……で、どうするつもりだ?」


「市政議会を開く」


 ユーマははっきりと言った。


「六大局と十五人の議員で、この街の“答え”を決める。

 “侯爵家の条件をどこまで飲み、どこまで線を引くか”を」


「その答えが、国にとって気に入らないものだったら?」


「そのときは――」


 ユーマは少しだけ笑った。


「森の主に、“少しだけ風を強くして”って頼んでみるよ」


「おい」


 アストが呆れ混じりに笑い、背中を軽く小突いた。


「冗談だよ。半分くらいは」


 森の上を、夜の鳥が横切っていく。

 水路のほうからは、舟の底を叩く音。

 広場からは、子どもの笑い声と、パンの香り。


 国からの視線。

 森からの視線。

 街の内側からの、期待と不安と日常。


 その全部を抱えて、サクラリーヴは今日も、とりあえずは無事に夜を迎えようとしていた。


(明日、第二回の市政議会だ)


 黒板にはもう、次の議題が書かれている。


 ――外部交易と“独立都市”の可能性。


「急ぐなって?」


 ユーマは、誰にともなく呟いた。


「急いでるんじゃない。

 “ゆっくり生きるために、今は走ってる”だけだよ」


 森は何も答えない。

 ただ、保護林の桜の葉が、風に揺れた。


 その揺れは、否定でも肯定でもない。

 ただ、“見ている”という返事だった。

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