第2話 花嫁2

 初めは赤い傘を差し、歩いて山道を登ると村長は発言していたのだが、蝶子が刻限になっても部屋から出ず、無気力に座っているのを見るなり、走って逃げるかも知れないと思ったのか「山は急斜面もある、はぐれて逃げられてはいけない」とおっしゃりだした。

 蝶子に死んでもらわないと、困るのだろう。


 そこで村長の家の蔵にあった、使われなくなった輿を補強し、蝶子はそれに乗って生贄として、山を登っていた。


 そして、今、茜が差す夕日に照らされながら蝶子は、大空を飛ぶ真っ黒の翼を広げたからすを、苦笑いで見つめていた。


(死んだら、楽になれるだろうか)


 生まれ変われたら、鳥になりたい。

 そんな、荒唐無稽なことを考えていた。


ーー大丈夫。助けるから、必ずーー


 ふと、どこからか幻聴が聞こえ、蝶子は、はっとして、回りを伺った。


(この声。まただ)


 ときどき、優しい声が頭に響くことがあった。

 これはきっと蝶子の願望からくる幻聴なのだろう。蝶子は微かに頭を振る。


(馬鹿ね。誰が助けるというのかしら)


──そのときだった。


「なんだ。あれは」


 ひとりの男が木々の間を指さすと、動揺が広がった。蝶子は無関心ながらも男の手の先に目を向けようとした。


「うあぁ」

「逃げろ」


 突如、切羽詰まった声があがり、蝶子の乗る輿がガタンと大きく揺れ、体が跳ねるように上下した。


 なにが起きているのかわからず、蝶子は揺れに耐え、柱にしがみつく。村人たちが蒼白な面持ちで、来た道を下っていた。


(怯えている?)


 傍らの男を見て蝶子はそう思った。

 熊でも出たのだろうか。

 村人たちからは、ちりちりと熊除けの鈴が、あちこちから乱暴に聞こえてくる。熊の息遣い、声すら、聞こえない。


 それなのに、背後に、なにかがいる感覚だけが、蝶子を襲った。

 体に悪寒が走る。冷や汗が、つと、背中から流れ落ちる。


「捨てよう」


 担ぎ手の言葉が耳に入ると、すぐに蝶子の乗る輿が傾き、地面に捨てられた。


 蝶子は勢いよく地面に叩き付けられると、輿から飛び出した。横腹を打ち、肘を打ち、頬に砂利がつく。痛みで蹌踉めき頭を振る。横座りをして空を仰ぐ。大きな陰が蝶子の体をすっぽり覆っていた。


 大きな、なにか。

 蝶子は目を見開いた。


 映るのは、大岩ほどの人食いいたち。鎌を振るように爪を高く上げて蝶子を切り裂こうとしていた。


「蝶子」


 はっとして蝶子は首を巡らす。そこには、逃げなかったのか、一目散に啓太の駆け寄る姿が見えた。手を差し出され、蝶子は手を取った。


「一緒に逃げよう」


 頷き、起き上がる。が、突如、どこからか真っ白な綺麗な手が蝶子の腰を捉え、引き寄せられた。


(えっ。なに)


 引っ張られる強さに驚いていると、誰かの胸に、とんっと背が当たる。顔を仰ぐと、整った目鼻立ちの男が、覗き込むように、仏頂面をしながら、腰を引いた。


 佳人のような明るい白玉のような肌。首筋もすっと伸びている。華奢なイメージだが、触れ合う感触から、内に筋肉が引き締まっているのがわかった。


 長い透き通る銀髪を一束に結い、銀糸のように艶髪を靡かせて、誰をも虜にするほどの眉目秀麗な男が、気高く立っていた。


(誰だろう)

「何者だ」


 啓太がいきり立ち、顔を紅潮させ、足元に転がっていた石ころを両手に掴むと、投げる構えをした。


 蝶子を抱く男は鼻で笑い、困惑する蝶子に構わず、ますます腰を寄せた。


「これは俺の嫁だ。黙っていろ」

(嫁?)


 ならば、このかたが蛇神様なのだろうか。


(では、わたしは、このかたに供物として食べられるのだわ)


 まるで他人ごとに思えた。

蝶子にしてみれば鼬妖怪に喰われようが、蛇神に喰われようが同じことだった。


 蛇神様は渋渋面している。獲物である蝶子が逃亡すると思われたのだろう。

一瞬でも宿命から逃れようなんて、浅はかだったのだ。手足はすっかり冷え切っていた。


「蝶子。少し我慢していなさい」


 蛇神の言葉に、何を、と蝶子は呆気に囚われた。

 すると、蛇神の体躯が銀色に淡い光を放つ。歯はぐぐっと長く犬歯が生え、体が縄の様にうねり、天へ伸びた。


 丸太のような胴体は蜷局を巻く。

 冷たい体温に、つべつべした皮膚。尾っぽの先で、緩く、蝶子の体を縛り上げられ、苦手な蛇に身を強ばらせた。


 巨木ほどの白蛇。鼬妖怪よりも長躯。長い舌をチロチロと出していた。

蝶子は食べられる身だとわかっていても、この光景に自然と身が竦んだ。


鼬妖怪は怯むように、毛を逆立てていたが、咆吼をあげ、白蛇に立ち向かって行った。


 戦いが始まれば、蝶子など眼中になく、きっと絞め殺されると思った。

 白蛇は蝶子を一切離さない。最後の瞬間を待つ。


 しかし、一向に身体は緩いままで、上体だけを左右に蛇神は蛇行させ、鼬妖怪に向け、己の鋭い牙を開いた。ブツリと激しく体躯に突き刺す。


 毒液が地面に滴り落ち、じゅうじゅうと音を立てる。鼬妖怪は痙攣する。そのまま悪臭を漂わせながら、絶命し、溶けて煙になった。その場は跡形も無く消え失せた。


 蝶子は痛感するほどカラカラに喉が渇き、冷や汗が首筋を流れ落ちた。


(わたしも、こんな風に……)


 末路を想像し蝶子は戦慄いた。


「化け物が」


 近くで、啓太嫌悪感を含んだ声で呟いた。

 蝶子は恐怖と緊張から、不覚にもプツリと糸が切れたように、意識を失った。

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2025年12月10日 20:00
2025年12月11日 20:00
2025年12月12日 20:00

白神様の花嫁は恋愛経験ゼロ 甘月鈴音 @suzu96

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