第38話
ドワーフの里「深岩の氏族」との歴史的な通商条約を終え、アレクシスがヴァルケン領に凱旋した時、集落は彼が不在の間も、寸分の狂いなく稼働し続けていた。 地下工房からは、ブルンデルが設計した反射炉の煙が絶え間なく立ち上り、マルクスが指揮する防衛隊が、新しき民たちに槍の基礎訓練を施す声が響いていた。
「アレクシス様! お戻りですか!」 ガレスが、帳簿らしき木札の束を抱えて走ってきた。 「ご報告します! この五日間で、ジャガイモの備蓄は次の冬を越せる量を確保。石炭の採掘も、ブルックの部隊が交代制で継続。鉄砲の備蓄は、現在、合計で八十丁を超えました!」
「見事だ、ガレス殿」 アレクシスは、その報告に満足げに頷いた。 彼が作り上げた「システム」は、彼という絶対的な指導者が不在でも、自律的に動き始めていた。
その夜、アレクシスは、マルクス、ブルック、ガレス、そしてブルンデルを集め、国家の次の段階を宣言した。
「ドワーフとの条約は成った」 アレクシスは、ドワーリンから渡された、羊皮紙の地図を広げた。 「これが、我が国の『心臓』となる、『赤錆の谷』だ。大陸で最も純度の高い鉄鉱石が、ここに眠っている」
幹部たちの目が、地図に集中する。 「しかし、アレクシス様」マルクスが、深刻な顔で指摘した。「ここは、我が領地から東に五十キロ……。黒い沼(石炭鉱床)の、さらに三倍は離れています。ドワーフが道の安全を保証するとはいえ、採掘し、運搬するには、あまりにも遠すぎます」
「その通りだ」 アレクシスは、地図の上で指を滑らせた。 「だからこそ、我が国の体制を、本日をもって完全に再編成する。我々は、もはや『集落』ではない。『産業国家』だ」
アレクシスは、百十五名の全領民の「配置転換」を命じた。
「第一。ブルック」 「おうよ!」 「お前を『鉱山総監』に任命する。お前の指揮下に、新しき民の中で最も体格の良い者を集め、『鉱山部隊』六十名を編成しろ」 「ろ、六十!? そりゃあ、働ける男の、ほとんどじゃねえか!」
「そうだ。その六十名を、さらに二つに分ける」 アレクシスは、地図を叩いた。 「ティモ(元大工)を『赤錆の谷』の現場監督とし、三十名を率いて、彼地に『前線基地』を設営させる。彼らは、鉄鉱石の採掘と、ドワーフの里への運搬ルートの確保に専念しろ」 「ドワーフの里へ?」
「そうだ。鉄鉱石は、一度、ドワーフの里を経由させる。彼らに選別させ、我々は彼らから『技術指導料』として、選別済みの鉄鉱石を受け取る。我々の労働力を、選別という非効率な作業に割く必要はない」 ブルックは、その合理的な発想に舌を巻いた。
「残り三十名は、ブルック直轄の『石炭部隊』だ。黒い沼に常駐し、工房の炉の火を決して絶やすな」
「第二。ブルンデル殿」 「……」 ドワーフは、黙ってハンマーを磨いている。 「あなたを『技術長官』とし、地下工房の全権を委任する。新しき民の中から、元職人や手先の器用な者二十名を『工場労働者』として配属する。彼らに、あなたの『規格』を叩き込め。鉄砲の量産ラインを、何があっても維持しろ」 ブルンデルは、無言で頷いた。
「第三。ガレス殿」 「は、はい!」 「あなたを『内務長官』とする。残りの古参の民と、新しき民の女子供、老人、合計二十五名。彼らで『農業部隊』と『兵站部隊』を編成しろ。ジャガイモ畑を、現在の三倍に開墾する。また、鉱山部隊への食糧運搬ルートを確立させろ。兵站が途絶えれば、この国は死ぬ」
「第四。マルクス」 「はっ!」 「お前は『防衛長官』だ。猟兵部隊を十名増員し、二十名体制とする。新しき民の元兵士たちで『第二猟兵部隊』を編成し、鉄砲の扱いを叩き込め。彼らの任務は、鉱山部隊の『護衛』だ」
百十五名の民が、アレクシスの頭脳の通りに、完璧な「産業の歯車」として再配置された。
次の日、ヴァルケン領は、新たな体制で動き出した。 最も大きな変化を遂げたのは、「新しき民」たちだった。
元大工のティモは、ブルックから「現場監督」に任命され、三十名の仲間と、ドワーフが保証した「安全な地図」、そしてヴァルケン鋼の道具を渡され、「赤錆の谷」へと出発した。
(俺が……監督?)
ティモは、昨日まで奴隷だった。人に指示を出すことなど、考えたこともなかった。 だが、彼の背中には、マルクスが編成した「第二猟兵部隊」――鉄砲を持った護衛――が随行していた。
「ティモ監督」 護衛部隊のリーダー(彼もまた元奴隷だ)が、ティモに声をかけた。 「我々の契約は、あなたたち『鉱山部隊』の安全を守ること。アレクシス様の『資産』である、あなたたちに傷一つ付けさせません」
ティモは、震えた。 自分は「資産」だった。だが、「捨て駒」ではない。「守られるべき資産」なのだ。 その事実が、彼の中の何かを決定的に変えた。
「野郎ども! 聞いたか!」 ティモは、仲間たちに向かって、人生で初めて大声で叫んだ。 「俺たちは、ただの奴隷じゃねえ! 領主様の『資産』だ! 価値ある人間なんだ! だったら、その価値に見合う仕事をして、鉄札を稼いで、ジャガイモじゃねえ、本物の『肉』を食うぞ!」
「「「オオオォォ!!」」」
恐怖で支配されていた六十名の労働力は、アレクシスが設計した「契約」と「分業」というシステムの中で、初めて「誇り」を持つ「労働者」へと変貌した。
一方、地下工房。 ブルンデルは、新しく配属された元職人たちに、ドワーフ流の「規格」を叩き込んでいた。
「馬鹿者! この治具(ジグ)からコンマ一ミリ浮いている! これは『部品』ではない! 『鉄クズ』だ! やり直せ!」
怒号が飛ぶ。 だが、元職人たちの目は、死んでいなかった。 彼らは、ブルンデルという大陸最高の「マイスター」から、本物の「技術」を学べることに、歓喜していた。 ヴァルケン鋼に触れ、反射炉の炎を見つめ、自分の手で「鉄砲」という未知の力を生み出す。その興奮が、彼らを動かしていた。
ヴァルケン領は、ついに「産業国家」としての歯車が、完璧に噛み合い始めた。
アレクシスは、その日、一人で館の屋根に登っていた。 領地の全てが見渡せる。 東へ向かうティモの「鉄鉱石部隊」。 西へ向かうブルックの「石炭部隊」。 地下から響く、ブルンデルの「工場」の音。 地上で訓練に励む、マルクスの「軍隊」。 畑を広げる、ガレスの「農業部隊」。
全てが、彼の設計図通りに動いている。
(鉄、石炭、労働力、技術、食糧、軍事力。国家を構成する全ての要素が、今、揃った)
彼は、王都のある方角を見つめた。
(「赤き獅子」の全滅の報せは、今頃、王国を震撼させているはずだ。彼らは、俺を『悪魔』と呼び、次の手を考えている)
彼は、冷ややかに笑った。
(だが、次は、こちらから行く番だ)
彼は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。 それは、行商人コービンに渡した「ヴァルケン鋼ナイフ」とは別の、「商品カタログ」だった。
(コービンが、帝国大使館にナイフを届ける。その反応を見て、次の『商品』を提示する)
そのカタログに書かれていたのは、「鉄砲」ではなかった。 ブルンデルが解析した、岩皮の熊の素材を応用した、『新型複合装甲』。 そして、ガレスが管理する「硝石工場」から生まれる、高純度の『化学肥料』。
「鉄砲は、我が国の『牙』だ。決して他国には売らない」 アレクシスは、呟いた。 「だが、国を富ませるのは、牙ではない。『経済』だ。王国には『肥料』を売り、帝国には『装甲』を売る。……この辺境の地を、大陸全土の『軍需工場』兼『穀倉地帯』に変えてやる」
悪役貴族の領地経営は、ついに「防衛」の段階を終え、大陸全土を相手にした、「経済支配」という新たな戦争へと、その駒を進めた。
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