第32話
「――赤き獅子の傭兵団」
マルクスの口から漏れたその名は、ヴァルケン領の幹部たちに重い沈黙をもたらした。ブルックやガレスは、その名を知らなかったが、元王国軍の兵士であるマルクスの絶望的な表情が、事態の深刻さを物語っていた。
「マルクス。落ち着け」 アレクシスの声は、氷のように冷静だった。 「敵の情報を、正確に、全てだ」
「はっ……!」マルクスは、恐怖を振り払うように顔を上げた。「『赤き獅子の傭兵団』。団長は『紅のレオン』と呼ばれる男。元帝国軍の将軍とも噂され、戦術、武力ともに大陸最強と謳われる傭兵団です。その数、およそ五百。我々のように寄せ集めの民兵ではなく、全員が百戦錬磨のプロフェッショナルです」
五百。 こちらの総人口が、今しがた連れてこられた奴隷たちを合わせても、ようやく百十数名。 そのうち、戦闘員と呼べるのは、マルクスとブルックの部隊を合わせても三十名に満たない。
「王国は、山賊(ヴァーグ)を壊滅させた我々の『火器』を、悪魔の魔法か何かと勘違いしている」とアレクシスは分析した。「だからこそ、正攻法での軍隊ではなく、裏社会の『プロ』を送り込んできた。魔法には魔法を、あるいは、規格外の力には規格外の力を、というわけだ」
「アレクシス様、どうしやす……」 コービンが、今にも泣き出しそうな顔で尋ねる。
「コービン殿」 アレクシスは、震える商人の肩を掴んだ。 「あんたは、最大の仕事をしてくれた。この『労働力』と、この『情報』。どちらも金以上の価値がある。……だが、あんたはすぐに王都へ戻れ」
「へ!? し、しかし……」
「あんたは『商人』だ。戦争に巻き込まれる必要はない。それに、あんたには王都でやってもらうべき『次』の仕事がある」 アレクシスは、ブルンデルが工房から持ってきた、小さな木箱をコービンに手渡した。
「これは?」 「ブルンデル殿が鍛えた、『ヴァルケン鋼』製のナイフだ」 コービンが箱を開けると、鈍い黄金色に輝く、吸い込まれるような切れ味を持つ小刀が鎮座していた。
「これを、王都の『しかるべき場所』に届けろ。王国と敵対している『帝国』の大使館だ。あるいは、王国に不満を持つ『大貴族』でもいい」 「……!」
「『辺境のヴァルケン領は、この鋼鉄をもって、あらゆる取引相手を歓迎する』と。王国が我々を『反逆者』と呼ぶなら、こちらも堂々と『敵国』と取引を始めるまでだ」 「し、承知いたしました! このコービン、命に代えても!」
コービンは、この若い領主の胆力と戦略眼に、もはや畏怖しか感じていなかった。彼は、ヴァルケン鋼のナイフを懐にしまうと、空になった馬車を駆って、再び峠道へと消えていった。
コービンが去った後、アレクシスは、幌馬車の前に集められた六十数名の「元」奴隷たちの前に立った。 彼らは、生気のない目で、この新しい支配者を見上げている。
「ガレス殿。まず、彼らに『食事』を。ジャガイモのスープでいい。腹一杯食わせろ」 「はっ!」
「ブルック。彼らの『服』を用意しろ。山賊から奪った、洗いざらいの古着でいい。病気になられては困る」 「へい!」
「マルクス。彼らの『寝床』を確保しろ。燃え残った家でも、館の地下でも構わん。今夜、彼らが凍えることのないように」
アレクシスの指示は、人道的な配慮からではなかった。 すべてが、彼らを「労働力」として最大限に活用するための、徹底した「投資」だった。
飢えと寒さから解放され、熱いスープを何ヶ月ぶりかに口にした奴隷たちの目に、わずかに「生気」が戻り始めた。
アレクシスは、その集団の前に立った。 「聞け、新しき民たちよ」
彼の声に、全員が顔を上げる。
「あんたたちは、昨日まで奴隷だった。だが、このヴァルケン領に『奴隷』という身分は存在しない。あんたたちは、今日この瞬間から、この国の『領民』であり、『労働者』だ」
「……」 彼らは、その言葉の意味が理解できず、ざわめいた。
「だが、勘違いするな。自由には『義務』が伴う。この国は、あんたたちに『食』と『安全』、そして『家』を与える。その代わり、あんたたちの『労働力』は、すべて、この国のために捧げてもらう」
アレクシスは、彼らを値踏みするように見回した。 「俺は、あんたたちを『家族』として迎えるつもりはない。俺は『経営者』だ。あんたたちは『従業員』だ。働かざる者、食うべからず。それが、この国の唯一の法だ」
アレクシスは、集団の中から、特に体格の良い男たち十数人を引き抜いた。 「お前たちは、ブルックの指揮下に入れ。『鉱山採掘部隊』だ。この国の産業の血である『石炭』を掘ってもらう」
次に、手先が器用そうな者、若い女たちを選び出した。 「お前たちは、ガレスの指揮下だ。『農業』及び『工場』での軽作業だ。ジャガイモの選別、硝石の製造、そして銃床の研磨を担当してもらう」
最後に残ったのは、戦闘経験がありそうな、目つきの鋭い男たちだった。 アレクシスは、彼らをマルクスの前に突き出した。 「お前たちは、マルクスの『防衛隊』に入れ。剣と槍の訓練を受けろ。お前たちは、この国を守る『盾』となる」
奴隷たちは、困惑していた。 彼らは、鞭で打たれることもなく、罵倒されることもなく、ただ淡々と「仕事」を与えられた。そして、その仕事には「食」という明確な対価が伴っていた。 彼らにとって、それは奴隷生活よりも遥かにマシな、いや、人生で初めての「まともな」扱いだった。
「ようこそ、ヴァルケン領へ」 アレクシスは、冷たく言い放った。 「お前たちが流す汗が、お前たち自身の『未来』を作る。存分に働け」
その夜。 領主の館では、再び軍議が開かれていた。 集落の人口は、百十五名に倍増した。
「ブルンデル殿」 アレクシスは、地下工房から呼び出したドワーフの技術者に向き直った。 「赤き獅子の傭兵団が来る。鉄砲の量産速度を、さらに上げるぞ」 「無理を言うな」ブルンデルは腕を組んだ。「今のラインが限界だ。新入りの労働力が増えたところで、奴らに精密な研磨ができるようになるまで、どれだけかかるか」
「だから、発想を変える」 アレクシスは、一枚の新しい設計図を広げた。 ブルンデルは、その図面を見て、目を見開いた。
「……これは、鉄砲ではない。ただの『鉄の筒』だ」 「そうだ」
アレクシスが描いたのは、ブルンデルの精密な鉄砲とは似ても似つかない、ただの「ヴァルケン鋼製の頑丈な筒」だった。 撃発装置も、銃床すらない。
「『赤き獅子』が、我々の『木砲』を警戒しているのは間違いない。だが、彼らが警戒しているのは、あの『一発』だ」 アレクシスの目が、冷たい光を宿した。
「ブルンデル殿。この『筒』を、今あるヴァルケン鋼の全てを使って、五十本作ってほしい」 「五十本だと? こんな単純な筒を……。どうやって撃つ気だ?」
「撃たない」 アレクシスは、工房の壁に、集落の防衛マップを描いた。 「これは、銃ではない。『地雷』だ」
「……じらい?」 マルクスたちが、初めて聞く言葉に首を傾げる。
「赤き獅子の連中は、プロだ。必ず、我々の集落を取り囲むように陣を敷く。我々が誇る『猟兵部隊』の鉄砲の射程の外から、我々を兵糧攻めにするだろう」
アレクシスは、集落を取り囲む、山道や森の中の、いくつかの地点に「×」印を付けた。
「その『筒』に、俺の火薬と、鋳造の際に出た鉄クズを目一杯詰める。そして、奴らが陣を敷きそうな、この『×』印の地点の地下に、あらかじめ埋めておく」
「……!」 ブルンデルとマルクスが、同時に息を呑んだ。
「奴らが陣を敷き、焚き火でも始めた瞬間……遠隔操作で、五十の『火山』を同時に噴火させる」 「え、遠隔だと!? アレクシス様、それこそ魔法では……」
「魔法ではない」 アレクシスは、集落の女子供たちが作業している「硝石工場」を指した。 「ブルンデル殿に作ってもらった、ヴァルケン鋼の『針金』と、火薬の燃えカスを使う。……『電気』の力でな」
アレクシスは、この世界にはまだ存在しない、最も原始的で、最も恐ろしい「罠」の準備を始めていた。 最強の傭兵団を、この辺境の地で、文字通り「消し飛ばす」ために。
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