厄災と勇者
グリーズ達が教室に辿り着くと、窓ガラスの向こうには、色彩を喪失したモノクロームの残景が広がっていた。
無機質な灰色に塗り潰された世界。その中心に、彼女たちが必死に探していた少年、渡瀬アラタの背中があった。
「渡瀬くん!」
ノワールの叫びは、無色の空気に遮られ、虚しく霧散する。
アラタの眼前には、二年前に消失したはずの聖杖『マテリア・フラクタ』が、まるで墓標のように突き刺さっていた。
その背後で陽炎のように揺らめくのは、かつての聖女を汚染した忌まわしき災厄『フラマ・ルイナルム』の影だった。
聖杖が突き刺さっている限り、真朱ナホの封印は辛うじて維持される。だが、それは杖に選ばれた者が触れれば、均衡はあまりにも容易く瓦解するという危うい状態でもあった。
フラマ・ルイナルムは、彼こそが封印を解く資格者であることを確信しているかのように、アラタに聖杖を抜かせようとしている。
「先輩、ゲートを開きます」
ブリュヌが魔導符を掲げると、まばゆい魔法陣が展開する。
《リフレクト・シフト》
窓ガラスの鏡面が水面のように波打ち、境界を繋ぐ門が口を開く。その先では、アラタの手がすでに聖杖の柄へと掛かっていた。
「渡瀬くん……その杖を抜いちゃダメ……!」
祈るような叫びと共に、グリーズはゲートの先へと駆け出した。
「アラタ!早く抜くんだ!」
アラタの傍らには、先週グリーズが排除したはずの生徒、山田の姿があった。
ノワールは即座にそれが
《イノセント・カタルシス》
放たれた白銀の光が、黒い陽炎と山田の姿を打ち消していく。
だが、介入は一歩遅い。
アラタの指が、煤けた鈍色の柄を力任せに掴み取った。
世界の大気が、一瞬で凍りついた。
引き抜こうとしたアラタの身体が、石像のように硬直する。瞳から光が失われ、色のない世界に、あってはならない『色』が呪いのように侵食し始めた。
アラタの存在そのものが、既知の理を塗り潰す未知へと変質していく。
「先輩、これは一体……?」
問いかけるノワールに対し、グリーズはただ絶句して見守るしかなかった。
「リサスくん、魔女が消えちゃった。彼女はどうなったの?」
その時、場違いなほど穏やかな声が響いた。用務員の阿栗が、泥状の影と化した山田──リサスと呼ばれた存在に、のんきに問いかけていた。
「ふははは、俺が知るかよぉ!」
リサスは浄化の光に焼かれながらも、歪な笑いを漏らしている。
グリーズは息を呑み、わずかに後退した。その瞳には冷たい疑念が宿っている。
「イミテーションが用務員に紛れていた……?」
「違います、先輩。この魔力反応は……『ヒト』です」
ブリュヌの探知結果が、最悪の事実を突きつけた。
化け物ではない。己の意志でこの地獄を招き入れた者が、平然とそこに立っている。
「はは、風紀委員にバレちゃった。僕の平穏な用務員生活もこれで終わりかな」
「俺は人間じゃないことまでバレてるぞー?」
阿栗とリサスは、殺意を向ける風紀委員を前にしてもなお、世間話でもするかのように笑っていた。
《ホーリー・エッジ》
ノワールのワンドから、鋭利な光の刃が伸びる
「話は後で聞きます。大人しくしてください」
「おっと、怖いね。でも、僕を構っている暇なんてあるのかな?」
阿栗が指さした先──そこには、全身を錆びついた金属のような色に変えたアラタが立っていた。
「あ……ああ、あああああああッ!!」
アラタの喉から漏れたのは、人間のものとは思えない、金属を擦り合わせたような絶叫だった。
「さぁ、勇者よ、目覚めのときだ」
阿栗が、恍惚とした表情でアラタに向かって歩き出す。
「勇者……?」
阿栗がノワールに振り向く。
「女しか魔法の使えない歪な世界に、反旗を翻す『勇者』の証。それこそがマテリア・フラクタの真の姿さ!」
「そんな存在、聞いたこともない!」
「知らなくていい。君たちの常識は、たった今、彼によって──」
阿栗が陶酔しきった笑みを深め、歴史的な瞬間の到来を告げようとした、その時だった。
鼓膜を逆撫でする不快な金属音が響き、アラタの足が阿栗の頭部を無慈悲に蹴りつけた。
鈍い音と共に、男の体が地面に叩きつけられる。
アラタの全身は、いつの間にか青銅の拘束具に包まれていた。それは守護の鎧というより、内側の何かを抑え込むための枷のように見えた。
「ふははは、頭蹴られてやんの。死んだかな? 死んだかなぁ?」
「消えろ」
アラタがリサスに杖を振るう。
「俺はお前を解放してやったんだ!敬意を持て!」
「不要だ」
「ギャハッ!? ご、豪快だねぇ……!」
アラタが杖を一振りすると、色のない衝撃波が走り、ただ真空のような圧迫感だけがリサスを襲った。
「渡瀬くん……聖杖から手を離して……」
グリーズの切実な呼びかけも、今のアラタには届かない。
バイザーの奥で光る彼の瞳は、もはや人間としての焦点を持っていなかった。ただ、本能的に「敵」と見なした存在を排除するための冷徹さだけが、その視界を支配している。
頭部から血を流し、地に伏した阿栗。その指先がピクリと痙攣した瞬間、アラタは冷徹な足取りで一歩、距離を詰めた。青銅の拘束具が擦れる不快な金属音が、死神の足音のように静寂に響く。
「終わりだ」
アラタが再び聖杖を振り上げ、引導を渡そうとしたその時だった。
本来、銅像のあるべき土台から、噴水のように黒炎が噴き出した。
やがて黒い陽炎が収束し、一体の女性の影が形を成す。
彼女は情熱を宿す「深紅」のローブをなびかせ、その下に冷徹を象る「漆黒」の鎧で身を固めている。
「あれが、フラマ・ルイナルム……」
「え、焔の聖女様……?」
「真朱ナホ……」
かつて聖女を喰らい、この地を絶望に染めた災厄そのもの。
彼女は周囲を見渡し、愉悦に満ちた声を響かせた。
「私のいない間に、随分と面白いことになっているな」
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