【差別と投影】平等の名のもとに繰り返し生まれる差別
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
差別の投影構造――平等の名のもとに生まれる差別
はじめに
差別という言葉は、現代社会において最も慎重に扱われる言葉の一つである。
しかし同時に、最も曖昧で、最も誤用されやすい言葉でもある。
なぜなら、人間の「区別しようとする心」と「平等であろうとする意志」は、
どちらも人間の中に同時に存在するからだ。
そして、この二つがぶつかるところに、
「平等の名のもとに生まれる差別」という逆説が生まれる。
社会は差別をなくそうと努力する。
だがその努力の中で、かえって「差別を前提にした発言や制度」が作られてしまうことがある。
それは、人間が他者を理解しようとする際に避けられない「投影」の心理構造によるものである。
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差別はどこで生まれるのか
差別とは、特定の属性をもつ人々を不当に扱う行為である――この定義は正しい。
しかし哲学的に見れば、差別は意図ではなく構造の中に生まれる。
つまり、誰かが悪意をもって他者を見下そうとした瞬間だけでなく、
善意のつもりで他者を「守ろう」「理解しよう」としたときにも、
差別は生まれうるのだ。
なぜか。
それは、「他者を守る」という行為そのものが、
すでにその相手を“守られる側”という立場に固定してしまうからである。
ここに「平等」と「上下関係」が同居する。
そしてこの瞬間、差別は意図を超えて構造として成立する。
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投影としての差別
心理学的に言えば、投影とは「自分の中にある感情や不安を、他者の中に見出してしまう」心の働きである。
人は自分の内側にある偏見を見たくないとき、それを他者の中に投げかける。
「自分は差別などしていない。差別をするのは他人だ」と信じるとき、
すでにその人の中で“差別という概念”が強く意識化されている。
つまり、差別を嫌うほど、人は差別という構造に深く縛られていく。
「自分は差別をしていない」と強く信じたい欲望こそが、
他者に対する“評価の枠”を無意識のうちに作り出すのだ。
差別を否定すること自体が、差別の意識を再生産する――
これが「投影としての差別」の根本的構造である。
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善意がもたらす不平等
差別が悪意からだけ生まれるわけではない。
むしろ現代においては、「善意」が差別を生む主要な原因になっている。
人々は「弱い立場の人を守らなければならない」と語る。
だがその瞬間、守る側と守られる側という非対称の関係が生まれる。
守る者は自らを「理解する側」とし、
守られる者を「理解される側」として位置づける。
この構図こそが、見えない差別の温床である。
善意が差別に変わるとき、人は自分の行動を“正義”だと信じて疑わない。
だが真の平等とは、「守ること」でも「救うこと」でもなく、
他者を自分と同じ立場に置くこと、つまり対等な無関心の中に共存することである。
そこには「庇護」も「同情」もない。
ただ、人と人とが同じ地平に立つという、静かな倫理がある。
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平等の名のもとに生まれる差別
近代以降の社会は、「平等」を掲げて発展してきた。
しかしその過程で、「平等であること」が義務のように押しつけられるようになった。
つまり、平等を実現しなければならないという強迫観念が、
逆に新たな差別を作り出すようになったのである。
「平等であるべきだ」という理念が絶対化すると、
人は“平等でない部分”を探し出して糾弾する。
本来は自然な違いであるはずの個性や文化的差異が、
「平等の妨げ」として排除される。
皮肉なことに、平等主義が徹底されるほど、
人々は違いを恐れ、同質性を求め、
結果として新たな“差別の装置”が作られていく。
つまり、平等を追い求めすぎる社会は、
「差別をなくすこと」を目的としながら、
「差別を定義し続けなければ成り立たない社会」になってしまうのだ。
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構造的差別とは何か
構造的差別とは、個人の意図や感情を超えて、
社会の制度や文化の中に埋め込まれた「区別のルール」である。
たとえば、見た目、性別、出身地、職業、障がい、年齢――
こうした属性が、本人の能力や人格とは関係なく、
社会的評価を左右する。
この構造の厄介な点は、
差別する側が差別している自覚を持たないことだ。
むしろ「公平であろう」とする意識の中で、
見えないルールが維持されてしまう。
そして、差別を指摘する言葉さえ、
時に差別の再生産に加担してしまう。
つまり、差別は誰かの心にあるのではなく、
社会の言語構造そのものに潜んでいる。
人が何かを「守る」ために使う言葉、
「正義」を語るときの枠組み、
その中に、差別はひっそりと息づいているのだ。
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恐れと想像力の心理学
人が他者を恐れるとき、そこには必ず「想像力」が関わっている。
想像力は本来、他者を理解し、共感するための力である。
だが同時に、想像力は「他者を怖れる力」にもなりうる。
なぜなら、人は自分が理解できないものを、想像によって“補う”からである。
理解できない他者を前にすると、人は無意識のうちに「危険かもしれない」と想像してしまう。
この防衛的な想像が、偏見や排除の起点となる。
そして、この想像を社会が「事実」と混同した瞬間、差別が構造化される。
つまり、差別とは「想像力の誤用」であり、
他者を理解するための力が、他者を拒絶する力に変質した状態なのだ。
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差別をなくすとは、何をなくすことか
多くの人は「差別をなくそう」と言う。
だが、その言葉の中には、しばしば曖昧な前提がある。
差別をなくすとは、「差別をしている人をなくすこと」なのか、
それとも「差別という構造を超えて生きること」なのか。
前者は排除を生む。後者は成熟を生む。
「差別者を罰する」ことは簡単だが、
それでは社会の構造は変わらない。
真の意味で差別をなくすとは、
人々が「差別という枠組みで物事を語ること」自体から
少しずつ自由になっていくことだ。
つまり、差別の克服とは、
「差別を意識しないでいられる社会」を作ること。
それは、他者を“特別扱いしない勇気”を持つ社会である。
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内面の倫理へ
社会の評価は常に外側からやってくる。
だが、真の倫理は内側からしか生まれない。
自分が他者にどんな感情を抱いているのか、
なぜそのように感じるのかを静かに見つめるとき、
人はようやく「差別の投影構造」から一歩外に出られる。
「私が差別しているかどうかは、私しか知らない」――
この言葉は、外的な正義よりも深い倫理を含んでいる。
それは、他者を測る前に自分を測るという、
哲学的な謙虚さの表明である。
この自己省察の営みこそが、
差別を本質的に超えるための唯一の方法である。
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終わりに――対等とは「何もしない勇気」
差別をなくすとは、特別なことをすることではない。
むしろ、過剰に守らず、過剰に恐れず、
ただ他者を自分と同じ存在として扱うこと。
それが「対等」の真意である。
真の平等とは、行動ではなくまなざしの静けさにある。
相手を理解しようとするよりも、
相手の存在をそのまま肯定すること。
そこに、善意でも悪意でもない、
ただの「人間としての尊厳」が立ち上がる。
差別を克服するとは、
他者を救おうとすることでも、議論で勝つことでもない。
それは、人間の中にある恐れと想像を受け入れ、
その上で沈黙の中に立つ勇気である。
平等とは、「行動の結果」ではなく、
人が他者をどう見るかという存在の姿勢であり、
その静かな姿勢こそが、
差別のない世界の最初の一歩になるのだ。
【差別と投影】平等の名のもとに繰り返し生まれる差別 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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