第35話 傍観者たち
エリーナはイライラしていた。何もかもが上手くいかない。捕らえていたルカスは煙のように消えてしまった。
「虚影を放ちなさい! 不完全でも構わないわ」
「ですが、姫。残響師たちの準備が整っておりません。このまま放てば、ルナリアの民に危険が及んでしまいます」
「お馬鹿ね、ハロルド!」
エリーナはひざまずいているハロルドの頭を叩いた。
「多少の犠牲はつきものよ。それに、被害があった方が、よりわたくしの正当さと神々しさが浮き彫りになるでしょ」
「さすがでございます、姫!」
ハロルドは感激して、主人の賢さにひれ伏す。
「各地の実験所へ連絡しなさい。虚影を放てと!」
その時、地震が起きた。
大きく揺れて、すぐにおさまる。
「何?」
エリーナの耳に、虫の羽音のようなかすかな音が届いた。
不思議に思って、エリーナは窓際に近づく。
ぶ厚い雲が、空を気味の悪い色に染めている。
「ハロルド、何か聞こえない?」
耳障りな音が聞こえる。
振り返ってハロルドを確認するが、彼には聞こえていないようだ。
――心労で幻聴が聴こえるようになってしまったのかしら。
頭を振って、エリーナは幻聴を追い出そうとした。
「中央の教会へ行くわ。上から街を眺めるの」
「ですが、姫。危険ではありませんか?」
「そのためのあなたでしょう? それに、見たい景色は上からじゃないとよく見えないのよ」
行くわよ、とエリーナはハロルドをおいてさっさと歩いて行ってしまう。
ハロルドは慌てて馬車の手配をする。
窓の外を、鳥の群れが騒ぎ立てながら通り過ぎていった。
「姫のことをお守りせねば」
ハロルドは誇らしい気持ちでエリーナの後を追った。
教会の一番上には、教皇のためのバルコニーが用意されている。そこからルナリアの国を眺め、時には演説をし、民を導いてきた歴史のある場所だった。
「虚影はもう放たれたの?」
ティーカップに指を通しながら、エリーナは窓の外を眺めた。
「はい。虚影たちは塊になりながら、中央へ向かっているようです」
「そう。どのくらいの数なの?」
「人数でいうとわかりませんが、巨大な獣の形になった虚影が二体向かっているようです」
「二体ですって?」
エリーナは目をむく。
「たった、二体なの?」
「姫、二体といってもかなりの大きさです」
「お黙り、ハロルド! もっと、もっと、不届きものを集めるのよ。わたくしは正義なの! 生き神なのよ!」
エリーナは爪を噛んだ。その時だった。
「うるさいガキんちょね」
女の声がして、エリーナはぎょっとする。
いつの間にか向かいに知らない女が座って、優雅に紅茶を飲んでいた。
「ハロルド、何をしているの! 捕らえな――」
立ち上がったエリーナは言葉を失った。ハロルドが気を失って倒れている。他の従者もみんな、糸が切れたように倒れていた。
「どうぞ、お座りになって。国を見下ろしながら飲む紅茶は、格別美味しいわよ」
「……どなたかしら?」
エリーナは威厳を保とうと席にもどる。けれども指先が震えていた。
「ヴィーナと呼んで、女皇陛下」
ヴィーナは目礼してみせる。
「何者なの? どこからやってきたの? ハロルドたちに何をしたの?」
「あんまりキンキンした声で話さないで。耳が痛いわ」
ほら、とヴィーナは指を差す。
「あなたのお望みのものが、やって来たんじゃない?」
「……えっ?」
――こんなに早く?
エリーナは腰をうかせた。中央の街の端、黒いもやのようなものが近づいてくるのが見える。
虚影だ。
――大きい。
背中に冷や汗が流れた。
――あれを、倒すことができるの?
今更ながら、エリーナは衝動的に虚影を放ったことを後悔し始めていた。
「まあ、すごい。大きく太った虚影だわ。一体何人もの魂をくっつけたらああなるのかしら」
焦るエリーナの横で、ヴィーナは手を叩いて喜ぶ。
「あなたも大変よね。わかるわ。同じ統治者として、その努力と心労には頭がさがるわ」
「何を、言っているのかしら?」
額に汗を浮かべながら、エリーナが言う。
ヴィーナはひとつほほ笑むと、伸びをして背筋を伸ばした。その背中から白銀の天使の羽が広がった。光が差し、エリーナが影になる。
驚いたエリーナはその場にひれ伏した。
「大丈夫。私は手をくださないわ。そういうの、主義じゃないの。ただ、お話をしにきただけよ」
「お、お話というのは……?」
「やだ、どうしてそんなに動揺しているの? この私に失礼な言動をとったから? それとも、自分のしていることに追い目があるからかしら?」
矢継ぎ早に問われて、エリーナは口をパクパクさせた。
「統治者たるもの、自分のしていることには自信を持たなきゃ。そうでしょう?」
さあ、とヴィーナはティーカップを口に運ぶ。
「どうなるのか、ここから一緒に見届けましょ」
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