二章 虚影
第6話 書庫
教会の地下には、膨大な量の「導きの書」を保管する書庫がある。
ノアはそこを訪れるのが好きだった。静かで涼しい書庫は、故郷の北の街を思い出す。兄のライとは五歳はなれていた。なんでも兄の真似をしたいノアは、兄のあとを一生懸命ついてまわっていた。
「ねえ、マカロンまだ?」
今、ノアのあとをついてまわってきているのは、グレンだ。
──昨晩、グレンに「ありがとう」なんて言うんじゃなかった。
朝起きてからずっと、グレンはノアの背後についてまわり「お礼のマカロンは?」とやかましい。
「スタンプ三つで、マカロンの約束だろ?」
「あれはルカスとのやりとりだよ。ノアは別。ぼくのおかげで、ようやく残響師らしいことが出来るようになったんじゃないか。マカロンくらい、安いもんでしょ?」
そう言われてしまえば、ノアはぐうの音も出ない。
「……これが終わったら買ってやるよ」
「やったね。じゃあ、早く終わらせて」
「うるさいなあ。ミーシャさんの最期の願いを叶える瞬間なんだから、静かにしてろよ」
まったく、とつぶやきながらノアは手元に視線を落とす。大事に抱えた「導きの書」は二冊。
「ミーシャさん。あなたの願いは、これで叶いましたよ」
ノアは、二冊の導きの書を隣同士にそっと置いた。ミーシャと、彼女の子どもの導きの書だ。
ミーシャの最期の声は「自分の子に名前をつけたい」だった。
「フェリーチェ」
ノアは子どもの方の背表紙をなでた。
生まれ変わって幸せに、という意味だろうか。真意はミーシャにしかわからない。
「グレンは、生まれ変わりを信じているか?」
ふと、聞いてみたくなってノアはたずねた。
「何? 月神を信仰している者が、そんなこと言っていいの?」
「それもそうだよな」
頭をかいて、ノアはその場から離れる。
亡くなった兄も、いつかは生まれ変わって、ノアの知らない家族のもとに行くのだろうか。それはそれで、いいこと、なのかもしれない。
でも。
「マカロン買いに行くんでしょ?」
感傷に浸るひまもなく、グレンがしつこくついてくる。けれど、今はその騒がしさがノアにはうれしかった。
「おっと、どこへ行くんですか?」
地上階に戻ったところで、ルカスに呼び止められた。
「ルカスさん、お疲れ様です。今日は任務がないと思っていましたが、何かありましたか?」
亡くなった人がいなければ、残響師に仕事はない。お昼を過ぎて、特別呼び出されることもなかったので、今日は休みだとばかりノアは思い込んでいた。
「ええ、二人に大事なお話があります」
「それ、後にしてくんない? 今からノアがぼくに、マカロンをたくさんおごってくれるっていうからさ」
「たくさんって何だよ。一個に決まってんだろ?」
「はあ?」
言い合いを始めた二人を前に、ルカスはポケットをガサゴソと探る。
「お礼っていうんだから、もっ──」
言いかけたグレンの口が、もぐもぐと動き始める。どうやら、ルカスがグレンの口に何かをつっこんだようだ。
「バニラ味のマカロンです。さ、これで我慢してついて来てください」
先を歩き始めたルカスの横に、ノアはそっと並ぶ。
「ルカスさん、これから毎日マカロンを買ってくるんですか? お金なくなっちゃいませんか?」
小さいお菓子といえども、結構な値段がする。それを毎度ルカスのポケットマネーから出していては、あまりにもルカスが不憫である。
「いいえ、問題ありませんよ。これは経費で落ちますから」
「そうなんですか?」
「はい。ですから、遠慮なく甘いものでグレンを釣れるというわけです。ノアもマカロンをどうぞ」
クリーム色のマカロンを受け取って、ノアはこれが経費の塊と生唾を飲んだ。
ルカスの後をついていくと、ノアたちは新しいルカスの部屋に通された。
「え、お前の部屋広くない?」
ずるいんだけど、と文句を言いながらグレンは部屋の中を歩き回っている。
「ノアは、こちらの椅子に。グレンはー……、そのまま動いていて結構です」
ぶつぶつ文句を垂れているグレンは置いておくことにしたらしい。ルカスはノアに向かって話し始めた。
「ノアは虚影に出会ったことはありませんよね?」
「はい。残響師になるために受けた講義の中でしか、知りません」
ルカスはうなずいてから、一冊の分厚い本を開く。そこには、黒い影が描かれていた。赤い目が二つあって、こちらを激しくにらみつけている。
「この絵は見たことがあると思います」
「はい。講義で何度も読みました。虚影は、月神様の元に行けなかった魂が、負の心を持って自我を失い、獣のようになってしまう」
「そして最悪、生きた人にのりうつったり、傷つけたりしてしまう」
ノアはうつむいた。
兄の魂は、今どうしているだろうか。どこを彷徨っているのだろうか。
「虚影になってしまった魂の救済方法は、ただ一つ」
パタン、とルカスは本を閉じた。
「殺すことです」
胸が重たくなった。知識として理解していても、残響師として行動を共にする人から出た言葉は、重みがちがった。
「昨晩は、ミーシャさんに噓をついてしまいました。彼女を動揺させたくなかったのです」
あの、っとノアは思いつめた表情でルカスに尋ねた。
「殺す以外に、他に方法は──」
「ノア。虚影を前に、元人間だと憐みを覚えるのはやめなさい」
「でも──」
「我々の生死に関わります」
ノアは息をのむ。
「それほど虚影と相対するのは、危険なのです」
「……わかりました」
膝の上においた拳がかすかにふるえていた。それは恐ろしいからではなく、湧き上がってくる感情を抑え込んで、現実に従おうとするためだった。
「虚影の話をするってことは、これから会いに行くんでしょ?」
一通り部屋を巡り終わったグレンが、ルカスのベッドに腰かけた。
「その通りです。というか、我々の班はこれから虚影を相手にすることが多くなるでしょう」
「それは、どうしてですか?」
ノアが尋ねると、ルカスは小首をかしげて人差し指を天に向けた。
「上の人のお考えです」
ノアはグレンに視線を投げた。やっかいな任務を振り分けられたのは、グレンがいるからだと思った。
「虚影の対処が出来るようになれば、立派な一人前の残響師ですよ、ノア」
一人前の残響師。その言葉に反応してノアは姿勢を正した。
「ルカスさん、おれがんばります」
「いいお返事です。では、これを」
ルカスが取り出したのは、小ぶりの剣だった。鞘の装飾には、月の文様があしらわれている。
「残響師が認めたものだけが持つことを許される剣。月奏剣です。月神様の加護があり、その刀身は月の石を使用したという逸話があります」
「へえ~、本当かな」
揶揄するグレンをよそに、ノアは鞘から刀を抜いた。月光を刀身に宿したような、美しい刃。月神の加護が宿っているのは、本当なのかもしれない。
「この剣で──」
ノアの視線は、剣からルカスへと移動する。
「虚影の首を落とすのです」
──首を。
自分に出来るだろうか。剣術は習ってきたけれど、生き物を切ったことはなかった。
「大丈夫ですよ、ノア。グレンがいますから。ね、グレン」
「はあ?」
「ノアを守ってください。そのくらい簡単でしょう? だって、あなたは強いのですから」
にこっとルカスは笑顔をふりまいた。グレンが顔をしかめる。
「まあ、ぼくは強いからね。守ってやらなくもないけど」
「では、決まりです。出発しましょう」
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