灰を抱き、月をきく
あまくに みか
一章 残響師と罪人
第1話 残響師
「月は耳をすませている。光と影を分たずに、汝の声の行く末を、月光で照らさん」
それを見送っていた残響師の男が、ほうっと息を吐いた。今夜は久しぶりに気温が低い。白い吐息はわずかに上昇し、やがて夜に溶けていった。
「ノア、記録はとれましたか?」
男が振り返ると、ノアと呼ばれた残響師の新人は、うずくまってえずいている。
「大丈夫ですか?」
「……すみません。ルカスさん、おれ、役立たずで」
ルカスはノアの背中をやさしくさすった。
「自分のことを役立たずだなんて、言うもんじゃあありませんよ」
「でも、おれ……」
口元をぬぐったノアが顔を上げた。顔は蒼白だが、瞳には強い意志が宿っている。
この新人は、他の残響師と違って特別な能力があるようだ。ルカスにはその力が、ノアの体を蝕んでいるように感じられていた。
「あなたは、人より感受性が強い。人の最期の声をきき、魂を
「つらくないです! 今は、まだ慣れていないだけで! いつかは兄のような――」
ルカスは唇に指をあて、そっと首を横に振った。
「無理はしないでいただきたい。私だってもう相棒を失いたくないのです。……わかってくれますね」
ルカスが悲しそうにほほ笑むと、ノアは小さくうなずいた。亡き兄の元相棒だったルカスの言葉は、ノアの心に重たく響くようだった。
「――はい」
「いい子ですね。教会へ戻りましょう。会わせたい人がいます」
ルナリアの国の中央の街には、月神を祀る大きな教会がある。
女神の姿をした月神像を仰ぎながら、ノアは肩を落として重たいため息を吐いた。
「月神様、おれは一人前の残響師になれるでしょうか?」
――今すぐ一人前にしてください。
という本音はさすがに声に出さなかった。
月の女神像は、何も言わずただ穏やかに両目を閉じている。ノアは次の救いを求めて、月神の背後に建つ天使像に視線をうつした。
――慈愛の天使様、お願いします。その大いなる愛を持って、おれを一人前の残響師にしてください。
天使の羽を広げた慈愛の天使像に、ノアは祈りを捧げる。
――赦しの天使様、お願いします。人の最期の声をきいても、吐かない、強い体にしてください。
長い髪を床まで垂らした赦しの天使像に、ノアは必死に頼みこんだ。
――おれは、一人前の残響師にならなきゃいけないんです! それも、一刻も早く!
ノアは最後に残された天使像に近づいた。
腰から上を無惨に砕かれた天使像。導きの天使像だ。その足元に手を添えようとした時だった。
「堕天した天使に、何を願うつもり?」
ハッとして、ノアは振り返る。人の気配には敏感な方だった。それなのに、すぐ後ろに人が迫ってきていたことに気がつかなかった。
「いけないこと?」
すぐ目の前に立っている男が、目を細めて笑った。
「お前は――」
ノアは記憶をたどる。男の顔には覚えがあった。女みたいな顔。灰色の髪に、灰色の瞳。
「ああ、グレン。ここにいたのですか。探しました」
扉が開いてルカスが顔を出した。
「グレン? あの殺人犯だという魔術師?」
思わず声をあげると、グレンが顔を近づけて耳元でささやいた。
「黙れよ、ガキんちょ」
ムッとして言い返してやろうと思ったが、グレンは身を翻すとルカスの元へ軽い足取りで向かって行ってしまった。
「ルカス、君は食えない男だ。ぼくなんかを釈放してどうするつもり?」
「いえいえ、釈放なんかしていませんよ。
「ふうん。そう……」
グレンがルカスをにらみつける。
ルカスもグレンも互いにほほ笑み合っているが、目は笑っていなかった。
得体の知れない緊張感が漂っていた。二人の間では見えない拳が交わされているように、ノアには感じられた。
「……いいよ」
先に折れたのは、グレンだった。両肩をひょいっと上げると、月神像の足元に腰をかけ、足を組んだ。
「善行とやらをしてあげる」
グレンは顎を引き上げて、ルカスを見下ろす。
「嬉しい?」
「ええ、とても」
ルカスがグレンの元に近寄っていって、優雅に手を差し出した。
「そこは座る場所ではありませんよ、坊や」
「はは、ぼくを坊やと呼ぶのか。気に入った」
差し出された手を取ったグレンは、勢いよくルカスの体を引き寄せる。
「お前みたいなやつ、嫌いじゃないよ」
顔がぶつかりそうな距離で、二人は再びにらみ合いを始める。
「ちょ、ちょっと、待ってください!」
ノアは慌てて二人の間に入った。
「一体、何の話をしているんですか? この罪人は、仮釈放されたんですか? 何のために?」
「うるさいガキんちょ」
大げさに両耳をふさぐグレンを無視して、ノアはルカスに向かい合った。
「まさか会わせたい人って、この罪人のことですか?」
「はい、そうです」
「ルカスさん、なんで?」
ほほ笑むルカスが信じられず、ノアは悲鳴に似た声を上げた。
残響師の中でも、一番規律を守り、真面目で誠実で、尊敬できる人だと思っていた。それなのに、ルカスは罪人を仮釈放し、教会に招き入れた。
「ノア、あなたが困惑するのはもっともなこと、と私は思います。ですが、たくさんの人々を手にかけたこの男にも、赦しの機会を与えるべきだと思いませんか?」
「おれは――」
「ノア、お願いします。誰も彼に手を差し伸べてこなかったのです。私は月神の信徒として、彼にも平等に赦しの機会を与えたい。人は変われると信じていますから」
ルカスは少し顔をずらして、グレンを見すえる。
「そうですよね、グレン。あなたは、強い魔術師です。私たち残響師の護衛として、一緒に行動してくれますね?」
「もちろん。自由のためなら、何だってしてやるよ。そこのガキんちょに子守唄を歌ってやったっていい」
ノアのことを嘲るように、グレンは目を細めて笑った。
「おれは、反対です! こいつなんかと一緒に――」
「ノア。もう一度言いますよ、
ルカスの穏やかだが強い口調に、ノアは押し黙った。そして、渋々うなずく。背後のグレンが、くすりと笑った気配がして胃が焼けそうなほどイライラした。
「では、顔合わせはお終いです」
ルカス一人だけが、嬉しそうに手を叩いた。
そして、直後に信じられない言葉をルカスは放った。
「グレンは、ノアと相部屋です」
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