016 - 予兆:黒インクは蠢く


 一体山では何が起こっているのだろう。

 御者の男は、息を呑んでいただきを見上げていた。


 遠くでは幾度も轟音が響き渡り、そのたび鳥の大群が逃げていった。

 また山を駆け下りて逃げてくる魔物たちとも幾度となくすれ違った。


 ノーチェと呼ばれた令嬢がかけてくれた隠密の魔術が男と馬、それに馬車を魔物から隠してくれたようだが、それでも生きた心地はしない。


 大岩の裏手に身を潜め、男はときおり顔を出しては山のほうを眺める。

 どうしたものか、いっそひとりで逃げ帰ってしまおうか──などと考えていた矢先だった。



 そのときだ、山を降りてくる人影が見えたのは。



 降りてきたのは三人。

 自分がここに送り届けた三人だ。


 双子らしき令嬢姉妹と、そのふたりに挟まれた白い髪の少年がひとり。御者の男は歩いてくる彼らへと手を振ろうとして──


「んん……?」


 ──ふと、首を傾げた。

 令嬢姉妹がどこか冷たい表情でこちらを見ているような気がしたからだ。


 そして直後、その片割れノーチェは、少し遠い位置から御者の方へと手を伸ばした。


「眠れうさぎ、揺り籠、夢見の空よ降れ」


 ──魔術の詠唱?

 御者の思考が追いつく前に、その魔術は放たれた。


 地を這う影、あるいは蛇のように爬行する夜色の魔力だ。

 それは瞬く間に御者の足元へと到達し、すると御者の身体はがくりと崩れ落ちた。


「ひいっ! こ、これは捕縛の魔術……? あっしが一体なにをしたって言うんだ!?」

 

 脱力したように足が動かない。

 体勢を崩し、影の上についた腕もまた力が抜ける。


 四肢をだらりと投げ出してうつ伏せに倒れた御者の前に、やがて彼らはゆったりと歩いてやってきた。


 薔薇色の髪束をくるくると指でいじりながら、ザリアは冷えきった目で御者を見下ろす。


「なにをした、ねえ……じゃ、手荷物検査しよっか」

「えっ!?」


 為す術のない御者の襟首をザリアは引っ掴んで起こし、そして再び地面に放り投げた。

 ぐえっ、と悶えながら地に伏した男のポーチをザリアは漁り、そして目当てのものを引っ張り出す。


 それは小石サイズの小さな筒だった。

 獣の指骨を加工したもので、あちこちに小さな穴が空けられている。


 ぎくり、と御者の表情が硬直する。

 それが彼のを裏付ける物証だったからだ。


「ほい、みっけた。だ。昨日こいつでオオカミを呼んだな?」

「私たちが山に向かったこと、クジャックに告げ口したのもあなただね」


 やってくれたね──と睨む姉妹に、御者は冷や汗を垂らしながら息を呑んだ。


 図星だった。すべて令嬢たちの言う通りだ。

 この御者がクジャックに声をかけられたのは三日前のこと。

 気前のいい前金と共に、もしこの令嬢姉妹を馬車に乗せることがあれば山の近くでこの呼び笛を吹くこと、なにか妙な動きがあれば文鳥ふみどりを放って連絡することを言いつけられた。


「ど、どうかお許しくだせえ、金を積まれたんです! 言われた通りにしただけなんですよう……!」


 まさかこの笛が魔物を呼び寄せていただなんて──などと泣き喚いて懇願する男を前に、ザリアは呆れたようにため息を吐き、ノーチェはぴくりとも表情を動かさずナイフの切っ先を男へと向けた。


「ひ、ひいっ……!?」


 男の首元に刃を突きつけながら、ノーチェは平静のままに言う。


「私たちをドゥーラの街まで無償で乗せていくこと。ハロの通行許可を商会の名で保証すること。次はない。いい?」

「は、はいっ! よろこんで!」


 男はぶんぶんと首を縦に振って頷いた。

 

「うっし、ハロはそれでいい?」


 と、ザリアは振り向いてもうひとりの様子を伺う。

 これまで御者の男に対してなんの関心も示していなかった白髪の少年だ。彼はザリアに尋ねられてはじめて「ああ、なんだっていいよ」と端的に答えた。そして続けた。


「それよりノーチェ、さっきの捕縛魔術はなんだ?」

「肉体の末端だけを眠らせる魔術。意識を保たせたまま動きを封じるから尋問向き。夜空にはこうした眠りをいざなう性質もある」

「おお、合理的だ」


 少年の興味は魔術にしか向いていないようだった。



 ともあれ、そういった経緯で彼らはようやく旅を再開することになった。

 最初の目的地はドゥーラの街──ここから最も近い場所にある城塞都市であり、巨大な交易拠点であり、なにより冒険者ギルドの支部を構える冒険者たちの街である。


 


 *



 ──ごぽり、とそれは液状の身体を身震いさせた。


 それはガラス瓶の中にいた。

 いわゆる "スライム" と呼ばれる、ごく一般的な魔物であった。

 度重なる投薬によって今では黒いインクのようなさらさらとした身体を持ち、魔法陣を自ら描き出すその能力から、それは主人から "インク" という安直な名を預かっていた。

 


 そんなインクの身に現れはじめた異変に、今はまだ誰も気付いていない。



 異変のきっかけとなったのは、ハロが生み出したオリジナル魔術 "化け鯨グラ” ──


 その魔術の内容は「インクに他の液体を注ぎ入れたとき、インクはその液体を消化吸収せず、性質を保持したまま己に同化させる」というもの。


 ノーチェとザリアの鏡像性魔力障害を打ち消すために、ハロはこの魔術を使った。

 魔力を反射する魔法金属、フルーム霊銀をインクに取り込ませるための必要プロセスだった。


 けれどそれとは別にもうひとつ──

 インクが取り込んだ液体があった。


 竜血。


 フルーム霊銀を取り込んだ直後、未だ化け鯨グラの効力が残った状態で、インクは氷竜の頸動脈を斬り刻んだ。


 そこに流れ込んだのは膨大な量の竜血だ。

 人間であれば到底受け止めきれないそれを、魔法生物であるインクはがぶがぶと鯨飲した。



 それは液状の身体を身震いさせた。

 魔法生物としての格を底上げする膨大な魔力の供給に、それは打ち震えた。


 竜の血というきわめて優秀な魔術触媒を取り込んだインクの身体は──

 そうして今まさに、進化の階段を何段飛ばしにもして駆け上がろうとしていた。


 そう遠くない未来に、それは待っている。

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