第5章 光芒/1



陽色さんが来なくなって2週間、僕はまた、母の操り人形へと成り下がった。

今度は逃げる事を許さない。母が務める学習塾の自習室での勉強を強いられる毎日。

しかし苦ではなかった。僕のたった一つの希望だったカメラはもうないのだから。

少し気が抜けた僕の耳に、聞きなれたヒールの音が近づく。

その音が聞こえたと同時に反射的に姿勢を伸ばし、再びペンを走らせた。


カリカリ…


その音が、いつにも増して心地よかった。

母に怒られるくらいなら、この音を聞いていたい。

ふと、顔を上げると窓に目がいった。自習室の窓の格子の隙間から見える空は、色褪せ、灰色の世界が広がっていた。


(陽色さんは…今、何をしているんだろう。)


気がつけば、そんなことを考えていた。



ーー母の病状が悪化し、2週間が経った。

今もまだ、空の色がよく分からない。

母の担当医から聞いた言葉が、何度も脳内で再生される。


「手術や治療をしなければ、1年以内に命に関わる可能性が高いです」


手術に必要な、お金がうちには無い。

私の、専門学校のお金があれば足りるが。


絵を、諦めるしかない。


今まで描いた絵を眺めていた時だった。

私は、絶対に言ってはいけない事を、思わず呟いてしまった。


「お母さんが病気じゃなきゃ良かったのに…」


私は机に突っ伏す。こぼれてしまった涙が、彩られた風景を濁していく。


「何突っ伏してんのよ。寝不足?」


隣に来たのは幼なじみの千紗。


「いや…別に。」


すこし鼻声で、くぐもった音で返事をする。


「ふーん、そう。」


すこし沈黙が流れる。教室のざわめきが酷く大きく聞こえる。

沈黙を破ったのは千紗だった。


「陽色、お母さんに何かあったんでしょ。」


「!」


図星だった。思わず顔を上げてしまう。


「やっぱりね。私さ、絵のこと全然わかんないけど…陽色の描く絵、好きなの。」


その言葉にすこし、心が揺れた。


「でも、最近あんたが描いてる絵、私が好きだったタッチじゃない。」


しかし、心に秘めたい言葉がどうしても漏れだしてしまう。


「……千紗には、分からないよ。」


言ってしまった後に、ハッとする。

あぁ…本当に、最低だな。


私の心は汚く、どす黒い色で塗りつぶされていた。


あれからというもの、千紗が私に話しかけて来ることは無くなった。


私は、何もかも失った。


私はそれからというもの、バイトに明け暮れる毎日。


母との面会も、1ヶ月前に行ったきりだ。

こんな姿、見せられない…というのは口実だ。


私は私が怖い。

あの色が、怖い。


今会ったら、千紗にしてしまったように、母を傷つけるかもしれない。


でもどうしてだろう。私は気がついたら、あの土手で、絵筆を握っている。

でも、夕陽の色が、描けない。


誰かに話したかった。

辛い思いを吐き出したかった。

だから会いたかった。彼…蓮くんに。

色を貰える、あの土手へ。


でもいけない。彼は自分の道を歩んでる。


彼の"色"は人を感動させる力がある。

だから、私は邪魔してはいけない。


バイトの準備をしながら、校門をでる。


「おい姉ちゃん!ちょっと俺と遊ばねぇかー」


物陰から現れたのは、カタコトのヤンキー。

千紗だった。


「ごめん、私今からバイトだから」


横を通り過ぎようとした時、彼女は私を引き止める


「だめ。遊ぶの。」


手を引かれ、無理やり連れていかれる。


「ちょ、ちょっと千紗…」


「レッツゴー!!」



-手を引かれ、たどり着いた場所。


そこは幼い頃、千紗とよく遊んだ公園。

感傷に浸る私をよそに、千紗が小学生に混じって遊び始める。


ちょっと恥ずかしい。


そう思いながらも、昔のように遊んだ。

カラスが鳴き始めた夕方、私はバイト先に謝罪の電話をいれ、ブランコに揺られる千紗の元へ戻った。


「怒られた?」


「めっちゃ怒られたよ…」


「ニシシ…そりゃ失敬失敬。」


いたずらに笑う千紗をみて、思わず笑みがこぼれる。


「でー…陽色。私まだ聞いてない言葉あんだけど。」


「ごめん。千紗。」


「フフン!よろしい!購買の特性焼きそばパンで手を打とう!!」


私は、何度彼女の笑顔に救われただろうか。


「そんでさー」


千紗は私を真剣な顔で見つめる


「陽色、この前の話、聞かせてよ。」


私は彼女に事の顛末を話した。

一通り聞き終え、ある質問をされる


「それ、詩織さんに言ったの?」


「言ってない。心配にさせちゃ行けないから。」


ふーん。 と千紗は言ったあと、一呼吸おいて話した。


「陽色ってさ、昔から本音話してくれないよね。」


千紗の言葉に私は目を丸くする。


「千紗…?何言って…」


「だから私は本音を言う。あんたの今の顔は見てて苦しい。私が好きな陽色じゃない。」


理解出来なかった。


「詩織さんみたいな才能がないって自分で決め込んで、やって行けるか不安になったから行くのをやめた。」


違う。そんなんじゃない。


「挙句自分よりも感性がある、彼に出会った。彼といるのは楽しかったけど、心のどこかで嫉妬した。」


違う。蓮くんにそんな思い抱いたことなんてない。


「そんな時にお金が必要になって、綺麗事並べて決断を下した。」


違う。違う違う違う!!


「違う!!」


私は立ち上がって千紗の胸ぐらを掴んだ。

座っていたブランコが、ゆらゆらと揺れる。


「私は、絵が大好き!!お母さんみたいにはなれないけど私なりの絵でやってきた!!蓮くんはそんな私の絵に光をくれた!!お金が必要なのは変わらないけど、私は絵を諦めたくなかったのに!!!」


初めて、こんな声を出した。

こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろう。

千紗はそんな私をみて、安心したように笑った


「言えんじゃん。」


私は、千紗を掴む手に力が入らなくなった。千紗は肩を掴むと言った。


「陽色、あんたのお母さんは自分の為に夢を諦める娘の姿は、死んでも見たくないはずだよ。だから、もう一度、しっかり話しな?その後だよ。彼とまた会うのは」


私は、思わず涙が溢れた。


「…いってもいいのかな…」


「もちろん。」


千紗は私をゆっくり抱きしめた。


「試すような、わざと悪いこと言ってごめんね…」


「うん。いいの。」


私の心にこびり付いた色は、少しずつ褪せているのを感じた。



その夜、私は、母の病室へ向かった。


「久しぶりね!陽色!どうしたの?こんな時間に…」


酸素マスクを付ける母の姿はとても痛々しかった。だからこそ、こんな事を言っていいのか迷った。


「あのね…お母さん、実は…」


言葉が詰まる。さっきまで言おうと思っていた言葉が出てこない。そんな私を、母は優しく抱きよせる。


「私の…治療費の事でしょ。」


やはり母に隠し事が出来ない。母は続ける


「もし、私の為に何かしようとしているのなら、それはとても嬉しいわ…でもね、それが原因で陽色が夢を諦めるのは、ちょっと残念ね…ケホッ…」


マスクでこもった咳の音が聞こえる。

母は私の目を真っ直ぐみて話した。


「陽色、これはあなたの人生なの。だからもう少し欲張って生きてもいいの。私の事はいいから。ね?」


母は、私の頬をゆっくりと撫でる。


「これは、師匠としてではなく、1人の母親としての言葉よ。」


私は思わず、母に抱きつく。

そんな私を見て、母は女神のように微笑んで言った。


「本音、少しは言えるようになったわね。」


私は大声で泣いた。静かな病室に差し込む月明かりは、私たちを照らしていた。


ーー詩織は、疲れて眠る娘に毛布をかける。

その時ふと、娘のスマホに映し出された


『蓮くん』


という名前に気がつく。


娘が、よく話してくれる男の子。

彼と娘が描いた絵に、詩織は強く惹かれる。

生きる希望を見出すように。

きっと、娘の絵を変えられるのは、彼ではないか。


そう思った


詩織は気がついたらメッセージを送っていた。


彼ならきっと。


そして、詩織は古ぼけた1冊のスケッチブックを取り出し、彼との対話を待ちわびるように、絵筆を動かし始めた。ーー


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