第16話【聖女の奇跡】

 神殿の朝は、いつも静寂の中に始まる。

 祈祷の鐘がやわらかく響き、白い法衣をまとった神官たちが石畳の回廊を静々と行き交う。


 けれど、その一角だけは空気が違っていた。


 夜明けと同時に――いや、それより早くから、私を名指しで求める患者が施療区の受付に押し寄せていたのだ。

 しかも、いくら施術しても患者は減らず、それどころか列はどんどん長くなって、正午を迎える頃には百人を超える大行列になっていた。


「どうして……こんなことに……」


 本来、神殿での施療は指名制を取らず、受付順に空いている神官が対応する。

 けれど、今日ばかりは様子が違っていた。患者たちが皆そろって、私の施術を強く望んだのだという。

 修道女に理由を尋ねても、困ったように微笑むばかり。

 思いきって患者の一人に問いかけると、若い母親らしき女性が気まずそうに目を伏せながら答えた。


「昨日、ある男性が広場で触れ回っていたんです。“今、神殿に凄腕の神官様が来ている”って……」


 ああ、あの青年か……と、昨日、最初に治療した患者を思い出す。

 今の私は顔を隠していないが、かつては人目に触れぬよう努めていた。聖女騎士団と共に、公式訪問でこの街を訪れた際も、周囲の視線を避けるように、フードを深々と被って顔を隠していたのだ。


 この場にいる誰もが、私を“あの”聖女リアナだとは思わないだろう。

 あちこち破れた待祭衣じさいいに身を包み、銀の護符もなく、ただ施療に従事する下級神官――そんな姿から、過去を重ねる者はいない。


 私も、わざわざ名乗る気はなかった。けれど、あの青年だけは一目で見抜いた。かつての私と――“彼女”と会ったことがあるのだろう。

 どう受け止めるべきかわからない。ただ、その好意を裏切りたくないと思った。


 しかし神殿の門前は、すでに混乱状態にあった。寝台に重傷者を寝かせる家族、列に割り込もうとする者と、衛兵の制止の声。

 静謐せいひつであるはずの聖域に、焦りと不安が広がっていく。


 私はついに決断した。


「今お待ちの方々を、全員この部屋に入れてください。一度に治療します」


「えっ!? で、ですが、すでに百人以上いらっしゃるかと……」


「収容できない人数ではないでしょう。少し窮屈になりますが、これ以上お待たせするのは忍びません」


 修道女がなおも食い下がろうとしたが、私は同じ言葉を繰り返した。


 やがて老若男女がぞろぞろと施術室に入ってきて、床に腰を下ろす。痛みに泣きじゃくる子どもを抱く母親の手は、祈るように固く組まれていた。


「これより、皆さんの治療を始めます」


 喜びと不安が入り混じった視線が集まる。私は中央に立ち、そっと目を閉じた。


「ここに集うは、傷つき倒れ、それでもなお生を願う、女神の子ら――。私はその祈りを束ねる者。

 神聖なる御名において、この身をひとときの灯火となさん。どうか、大いなる慈悲よ。癒しの光となりて、彼らの痛みを拭い給え」


 これは“聖誓詞せいせいし”と呼ばれる事前詠唱。

 特別な儀式の時にだけ唱える神への誓いであり、本来一定のはずの神聖魔法の効果に、特定の性質を付与できる。


 私は深く息を吸い込み、ゆっくりと呪文を紡ぐ。効果対象を拡張した、第二位階、回復魔法――。


「我が祈りは、尊き神のたなごころ――《ハイ・ヒール》」


 瞬間、部屋に静寂が満ちた。天井から金の花びらのような光が舞い降り、穏やかで優しいぬくもりが空間を包む。

 それは陽光でも炎でもなく、女神がそっと手を差し伸べたかのような光だった。


 静まり返った部屋の中、百人を超える患者たちは、ただ目を見開き、息を呑み、自らの体に触れて変化を確かめている。

 やがて、驚きの声がさざ波のように、部屋全体に広がっていった。


「腕が……痛くない。あの傷の深さで傷跡もない?」


「腰が……痛くない。二十年前に痛めた腰じゃぞ?」


「折れた骨が一瞬で? これは……夢じゃないよね?」


 血は止まり、膿はなくなり、腫れは引き、折れた骨さえ繋がる。長年抱えてきた古傷までもが、痛みごと消えていた。

 それは紛れもない奇跡だった。


 患者たちが動き始める。

 膝をつく者。手を合わせる者。

 やがてそれは一つのうねりとなり、部屋中の患者が一斉に頭を垂れた。

 崇敬すうけいと感謝、祈りと信頼が、この場所を満たしていく。


 私はただ、呆然とその中央に立ち尽くしていた。


 ……ちょっとやり過ぎたかしら?

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