第7話【聖女の恩寵】
月の光が、木々の隙間からこぼれていた。
暗い森の奥深く。風に揺れる枝葉のざわめきと、遠くで響く虫の声だけが、夜の空気を満たしている。
そんな静けさの中を、私は一匹の魔物と連れ立って歩いていた。
ゴブリンナイト――私の命を救ってくれた、奇妙で、それでいてどこか優しいゴブリン。
本来なら、夜の森に入るなんて自殺行為に等しい。視界は悪く、どこに魔物が潜んでいるかわからない。けれど彼が一緒なら話は別だ。森の地形を熟知している彼についていけば、迷う心配もない。
やがて小さな草地に出た。月明かりに照らされた、開けた場所。追手の気配もなく、ここなら一息つけそうだ。
「少し休みましょうか」
私はぺたんと座り込み、荒い呼吸を整えた。さっきの戦いで受けた傷は《ヒール》で癒したが、疲労ばかりはどうにもならない。
ふと横を見ると、ゴブリンナイトと目が合った。すると案の定、ニヤリと笑う。
いや、本人は愛想笑いのつもりなんだろうけど……どう見てもホラー映画に出てくるモンスターの顔だ。子どもが見たらきっと泣き出すことだろう。
「……ありがとう。さっきは助けてくれて」
返ってきたのは、喉を鳴らすようなうめき声だった。
「ギイ、グガ、グルル……」
けれど、私は神聖魔法で彼と意思を通わせることができる。完全な言語変換ではないが、念話に近い形で、互いの言葉に込められた“意思”を伝え合うのだ。
「どうして私を助けてくれたの?」
「オマエ、オンジン。シニカケテイタオレ、タスケテクレタ」
……そんな記憶はない。
「それは、いつ、どこで?」
「ズットマエ、オマエ、コノクライダッタ」
彼が手を伸ばして高さを示す。ちょうど私の腰くらいだ。
彼は時間を表す言葉を知らないのだろうか。もしかしたら、いつのことかはっきり覚えていないのかもしれない。
「私がまだ五歳……くらいの頃?」
肯定なのか、それとも意味を理解していないのか、彼はニッと笑った。
それならば納得はいく。私だって幼い頃の記憶はほとんど残っていない。
ましてや、私は“彼女”本人ではない。体を譲り受けたから記憶は共有しているが、本人ほど鮮明に思い出せるわけではない。
「じゃあ……幼い頃の私がこの森に迷い込んで、怪我をしていたあなたを手当てしてあげた、とか?」
「ソウダ。オレ、オマエニ、ツイテイコウトシタ。オマエ、ソレハデキナイ、イッタ」
適当に言ってみたら、どうやら当たりらしい。
幼い頃の“彼女”は、案外お転婆だったのかもしれない。いかにも清楚な聖職者らしい、私の知る印象とはずいぶん違う。
「ツイテイコウトシタノニ、ソレハコマル、イワレタ」
――それ、もう聞いたから……。大事なことだから二度言ったの?
見るからにしょんぼりした顔を見て、思わず笑みがこぼれる。
「そりゃあね。聖女様の卵がゴブリンなんて連れて帰ったら、周りからなんて言われるか……」
きっと国中大騒ぎになる。次期聖女として、常に厳しい監視下にあったのだから。
「オレ、オマエ、マモリタイトオモッタ。ソシタラ、ナイトニシンカシタ」
その言葉に、不意に胸が熱くなる。
魔物の進化条件は未だ解明されていないと聞くが、少なくとも彼は――“彼女”を守りたい一心で強くなったのだ。
「わかったわ。森を出るまでは一緒に行動しましょう」
「ズット、ツイテイク」
「ずっとは困るけど……あなた、名前はある?」
「ナマエ、ナイ」
私は頷いた。
「じゃあ、“ナイト”って呼ばせてもらうわ。安直だけど、あなたが私の騎士になりたいと思った、その意志を汲んで」
「ワカッタ。カンシャ、スル」
その時、ナイトの表情が険しくなった。
「どうしたの?」
「トオクカラ、アシオト、タクサン――スマナイ、カコマレタ」
私は立ち上がり、慎重に周囲を見渡す。だが――何も見えない。何も聞こえない。気配も感じない。
つまり、ナイトに落ち度があるわけじゃない。私が甘かったのだ。森に詳しいのは彼だけではない。奴らだって同じなのに。
「やっぱり……戦うしかないのね」
ゴブリンジェネラルの威容を思い出し、背筋が震える。
ゴブリンシャーマンが付いている以上、もう傷は癒え、今度こそ私たちを仕留めるために万全の布陣で来るだろう。
「ここで迎え撃ちましょう。あなたと一緒なら……やれる気がする」
ナイトは、ゆっくりと頷いた。
*
強がってはみたものの、まともに考えて勝ち目などあるはずがない。
魔力にはまだ余裕があっても、体力は底を突きかけている。ナイトはまだ余力がありそうだが、奴らがまた一騎打ちをしてくれる保証はない。
ゴブリンソルジャーは全滅させたはずだが、ゴブリンシャーマンが残っている。呪術で援護されたら厄介だ。
《ホーリー・スマイト》は有効だろうが、果たして同じ手を二度も食らってくれるだろうか?
どうにかして生き延びるため、必死で頭を巡らせる。だが、あらゆる手段を検討しても、勝ち筋がまるで見えない。
そして、命乞いが通じる相手ではない。
私の願いは「生きたい」だが、“彼女”の体を譲り受けた以上、彼女の誇りを辱めるような生き方はできない。
だからこそ、私は“彼”――リアナの騎士になろうとした、ナイトへと向き直る。
「ねえ、ナイト。あなたは私の騎士になりたいんでしょ?」
意識して抑えた声が、静まり返った森の中で凛と響く。
「だったら、私に命を預けてくれる?」
ナイトは小さく首を傾げ、やがてがっしりと拳を握りしめた。喉の奥から、かすれた低い声が漏れる。
「オレ……ムズカシイコト、ワカラナイ。デモ……オマエノタメニ、シネ、トイウナラ……シノウ」
その言葉に、胸の奥が震えた。
私は聖女リアナの肉体を借り、この世界に降り立った異邦の魂。その力の真価を、一度たりとも試したことはなかった――いや、試す勇気がなかったのだ。
だが、この一匹のゴブリンの決意が、私の覚悟に火を灯す。
まさか“聖女の恩寵”を最初に授ける相手が、ゴブリンになるなんて。調和神エルセリア様が知ったら、きっと眉をひそめることだろう。
けれど、神はすべてを見通す。これが許されないことならば、そもそも奇跡は起こらない。
――できる。今なら。
私は胸の前で聖印を切った。次の瞬間、夜の森に、まるで突如として神殿が現れたかのような、神々しい気配が満ちていく。
「ナイト。今からあなたに“聖女の恩寵”を授けます」
急に厳かな口調に変わったせいか、ナイトは困惑の表情を見せた。だが、すでに儀式は始まっている。これは必要な手続きだ。
月明かりに淡く照らされた森の片隅で、私は一切の雑念を払い、精神をナイトに同調させていく。
「簡単に言うと――強くなるってこと。そのために、いくつか質問させて」
「ワカラナイケド……ワカッタ。オレ、ツヨクナリタイ」
その言葉に偽りはなかった。私は頷き、静かに問う。
「あなたは、なんのために強くなりたいの? 力を得て、それをどう使うつもり?」
ナイトは一瞬黙り、真っ直ぐに私を見つめて答えた。
「……オマエヲ、マモリタイ」
その声には、一切の迷いがない。
それだけで十分だった。“聖女の恩寵”は、心の真実を試す儀式。偽りの誓いなら奇跡は失われるが、ナイトの言葉は紛れもなく本物だ。
「……あなたの言葉の真実を認め、聖女の恩寵を授けます」
一歩近づき、さらに告げる。
「このまま力を与えることもできるけど、“誓い”を立てれば、もっと強い力を授かるわ」
「チカイ? ヤクソク……ノコトカ?」
「ええ。例えば“使う武器を剣に限定する”とか。あなたの場合、“人間を襲わない”と誓えば、神はより強い力を与えてくれる」
自分で言いながら苦笑が漏れる。魔物に人を襲うなと言うなんて、魚に水で泳ぐなと言うようなものだ。理解も納得もされないはず――そう思っていた。
だが――。
「ワカッタ。オレハ……ケン、ダケデ、タタカウ。ニンゲンヲ、オソワナイ。ヤクソクスル」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
熱が体の奥から沸き起こり、両手へと集まっていく。神聖な力の波動が、私の中でうねり始めた。
「……あなたの誓い、確かに聞き届けました」
声がさらに清らかな響きを帯びる。両手から放たれた光が、ナイトの額にそっと触れた。
「これより、“聖女の恩寵”を授けます」
光が彼の全身を包み込む。ナイトは膝をつき、全身を震わせた。
それは恐れではなく、奥底から溢れ出す、新たな力のうねりに体が追いつけないがゆえの震えだった。
眩い光が爆ぜ、森の木々を照らす。夜の
「えっ? えっ? どうなってるの……!?」
私は息を呑んだ。ナイトの体が変わっていく――。
私より小さかった体は、瞬く間に成人男性と肩を並べるほどの大きさへと成長し、筋肉はより洗練され、力強さと俊敏さを兼ね備えた姿になった。
醜かった形相は
ただ姿が変わっただけではない。
「……ゴブリンパラディン?」
脳裏に浮かんだ言葉を、思わず口に出す。
“彼女”の記憶を探っても、その名の進化形態は見つからない。“ナイト”の進化先は本来“ジェネラル”だけ――これは、存在しないはずの新たな進化形態だった。
「ナイト、あなた……まったく新しい上位個体になったのね」
その時、茂みがざわめき、数体のゴブリンが姿を現した。その背後から、地を踏み鳴らす重い音とともに、一際大きな影が迫ってくる。
ゴブリンジェネラル――先ほど私を一撃で吹き飛ばした、暴力の化身だ。
はっとして身構える私の前へ、今や“ゴブリンパラディン”となった彼が、ゆっくりと進み出る。
「主よ、どうぞご命令ください――奴らを殲滅せよと!」
その声はもう
「えっ……? ええっ……? えええええ――!?」
緊迫した空気を台無しにする、私の素っ頓狂な声が森に響き渡った。
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