第5話【ゴブリンジェネラルの罠】
草原を渡る風が、むせ返るような獣の臭いを運んでくる。そんな中、私は死に物狂いで走っていた。
一瞬立ち止まり、身体強化系の最上位魔法を自らにかける。
「我が祈りは、天翔ける
踏み出した足が地を蹴った瞬間、ぐん、と景色が後ろへ飛んだ。
この魔法は第五位階に分類される極めて強力な術で、筋力強化倍率は五倍にも及ぶ。だが、慣れない者が使えばその力を制御できず、自滅を招くことになりかねない。
先ほどアデルさんの馬にかけなかったのも、そのためだ。下手をすれば馬が転倒するか、アデルさんが振り落とされてしまう。
だが、この体はその制御に慣れている。だからこそ、木々の間を縫うように、疾風のごとき速さで走ることができた。
――なのに。
前方から殺気。横からも、背後からも、無数の気配が急速に迫ってくる。
「……まさかっ!」
呼吸を整えようと立ち止まった瞬間、茂みが揺れ、地面がうねり、おびただしい数の足音が迫ってきた。
あっという間に、無数の影が視界を埋める。星明かりに鈍く光るのは、
見渡す限り、ゴブリン、ゴブリン、ゴブリン。
おそらく、馬車を襲ったのは斥候部隊だったのだろう。ここに伏せていた本隊の数は、百体、いや二百体……あるいは、それ以上か。
「“群れ”どころか“大群”――いや、“群団”レベルかもしれない……」
ゴブリンは基本的に数体で行動するが、上位個体が率いれば数十体の“群れ”、数百体の“大群”、数千体の“群団”へと拡大していく。そして王が率いれば、数万~数百万体の“大群団”に至るとされる。
最初の襲撃は陽動。本隊は、私がこの森へ逃げ込むことを見越して、完璧な包囲網を敷いて待ち伏せていたのだ。
ゴブリンにあるまじき知能だった。
逃げ場は、どこにもない。
心臓が狂ったように早鐘を打ち、鼓動の速さに呼吸が追いつかない。必死に息を吸おうとして、喉と肺が悲鳴を上げる。
「約束、守れなかったらごめんなさい……」
どれほど生きたいと願っても、死にたくないと叫んでも、彼らが聞き入れてくれるはずもない。ならば、命尽きるその瞬間まで、抗い続けるしかない。
頭の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。
「そっちがその気なら――こっちだって容赦しないから!」
群れから一体のゴブリンが
その姿に、周囲のゴブリンが歓声を上げた。
あれが隊長格の上位個体――ゴブリンソルジャー。
魔物は修練ではなく、“進化”によって強くなる。ゴブリンは物理系のソルジャーと魔法系のシャーマンに分岐し、それぞれの特性を伸ばし、さらに上位種へと進化していく。
舞台の主役気取りで、ソルジャーが剣を振り上げ咆哮する。周囲が奇声で
「いいわよ。やってやろうじゃない」
小さな拳を握りしめ、立て続けに祈りの言葉を紡ぐ。
「我が祈りは、才火を燃やす祝福の息吹――《マジック・ブースト》!」
「我が祈りは、万物を阻む聖光の環――《セイクリッド・スフィア》!」
「我が祈りは、
「我が祈りは、侵しがたき結界の壁――《バリア》!」
そして、とっておきをもう一度。
「我が祈りは、天翔ける焔の御力。身を縛る鎖を断ち、勇躍の息吹をもって宿星を超えん。顕現せよ! 力の神紋――《フィジカル・ブースト》!」
移動型防御結界、装備強化、防御障壁――“彼女”の記憶にある限りの防御魔法を重ねがけする。切れかけていた身体強化も、万全の状態に戻した。
十四歳の少女が、よくぞここまで己を鍛え上げたものだと、心の中で“彼女”へ賛辞を送る。これだけの神聖魔法を立て続けに使い、なお魔力切れを起こさない人間など、この世界に一体何人いるだろうか。
「来なさい、ゴブリン!」
私の挑発に応え、ソルジャーが渾身の力で斬りかかってくる。暗がりの中で火花が散り、衝撃が障壁を揺らすが、痛みはない。
これならいける! そう思った矢先に、ゴブリンたちがふたたび騒ぎ出すと、新たに四体のソルジャーが円陣に加わった。
「……増えたっ!?」
五対一の波状攻撃――障壁が
「やるしか、ない……!」
後退しながら、右の拳に全魔力を集中させる。
「我が祈りは、神より賜る
拳を突き出した瞬間、世界が白光に塗りつぶされる。
雷鳴のごとき轟音とともに五体のソルジャーが跡形もなく消し飛び、さらに背後の数十体が巻き込まれて消滅した。
あとに残ったのは、むせ返る血の臭いと、散らばった肉片と、呆然と立ち尽くすゴブリンの群れだけ。
震える手で、近くに転がっていた短剣を拾う。冷たい鉄の感触が、命のやり取りの残酷さを突きつけてくる。それでも――。
「はあっ!」
一歩踏み込み、舞うように剣を振るう。魔力で強化された身体能力と、“彼女”が血の
返り血を浴びた刃を見つめ、小さくつぶやく。
「……ありがとう、リアナ」
私の予想外の反撃に、ゴブリンたちが明らかに動揺している。その隙に、《ホーリー・スマイト》で開けた道を駆け抜ける。だが、その先を巨大な鋼の壁が塞いでいた。
「これも……ゴブリン、なの?」
知識としては知っているが、まさかこの目で見ることになろうとは思わなかった。それほど珍しい進化形態のゴブリンが、そこにいた。
身の丈が二・五メートルを超える、桁外れの威圧感を放つ個体は、間違いなく――ゴブリンジェネラル。
全身を分厚いフルプレートで覆い、刃渡り一・五メートルはあろうかという大剣を構えて、鋭い眼光で私を見下ろしている。
呆然とする私に、ジェネラルはまるで
「きゃあっ!」
力で受け止めれば、体ごと両断される。咄嗟に膝を伸ばして重心を上げ、衝撃を逃がすように後方へ弾き飛ばされる。踏ん張りの利かない体は無様に地面を転がり、大木に叩きつけられてようやく止まった。
見れば、肩から胸にかけて、浅くない裂傷が走っていた。
「たった一撃で、あれだけの魔法障壁を……」
傷はすぐに治せる。だが、今はそれよりも。
「《セイクリッド・スフィア》、《プロテクション》、《バリア》……!」
《ヒール》より先に、砕かれた障壁を張り直す。この状態でもう一撃受ければ、即死は
焦る私をあざ笑うかのように、鉄塊のごときゴブリンジェネラルが悠然と歩み寄り、その大剣をふたたび、ゆっくりと振り上げた。
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