2 哲学

 大葉は何度か訪れてようやく慣れてきたペントハウスのインターホンを鳴らした。生体認証式の扉は鍵穴がなく取っ手があるだけで、のっぺりとした印象だ。シンプルな高級感、というものだろうか。


『どうぞ、お入りください』


 まただ。また、インターホンから流れる声はナルアキのものではない。尤も、他人と会話ができないと言っていたから、これも自動音声を作って流しているだけだろうが。

 鍵が開く音を確認し、大葉は玄関扉に手をかけた。中に入ると、やはり誰もいない静まり返った廊下がある。いつものように靴を脱いで上がると、どこからか声が聞こえてきた。


『ナルアキさんがお待ちかねです』


 まるで天井から聞こえたようなその声に、大葉はぴたりと足をとめて上を見上げる。ぱちぱちと瞬きをしていると、声はくすくすと笑い始めた。


『誰もいませんよ』


 インターホンから聞こえてくるのと同じ声。明瞭で丁寧だが、どこか幼さもある。

 大葉はずかずかと廊下を歩き、やや乱暴にダイニングルームの扉を開いた。その奥に繋がるリビングのローテーブルで縮こまるようにラップトップパソコンを弄っているナルアキの姿が目に入る。昼間の室内はカーテンが閉まっていても明るかった。


「先生、悪戯すんなよ」

「……何のことです?」

「あの声だよ。インターホンと同じ声」

「声?……あぁ」


 ナルアキは大葉の様子にきょとんと首を傾げたかと思うと、得心がいったように頷いた。


天花てんか、ちゃんとご挨拶したの?」


 まるで子供を叱るような声で、ナルアキはローテーブルの向かいの壁に掲げられているテレビを見上げた。電源が入っていないテレビは、薄っぺらなモニターが黙りこくったままだ。

 だが、ナルアキの声に応えるように、ひとりでに電源が入る。するとそこには、長い金髪をポニーテールに結った美しい青年が映し出されていた。リアルではあるが、風変わりな和装を着たそのデザインは現実味がなく、映画やゲームのキャラクターのようだ。画面に映し出された青年はにっこりと微笑むと、大葉を見てぺこりと頭を下げた。まるで画面の中で生きているかのような、滑らかな仕草だった。


『初めまして、大葉様。先程は失礼いたしました』


 丁寧な口調と声は、インターホンからいつも聞いていたものだ。青年はまるで紹介しろとでも言うかのように、ナルアキに視線を向ける。


「出てきていいとは言ったけど、脅かしていいとは言ってないよ」

『申し訳ありません。ナルアキさん以外とお話しすることがないので、つい』


 ナルアキは長い前髪の下からじろりとテレビ画面を睨み、青年を叱る。完全に会話が成立している。これは録画された映像ではなく、リアルタイムに意思をもって話しているということだ。


「彼はTK_Ver5.73です」

「……は?」

「僕は天花と呼んでいます」

「なんなんだよ」


 こいつ、と大葉は親指をテレビ画面に向けた。


「人工知能です」


 人工知能、と大葉はその言葉を脳内で数回咀嚼した。ちらりと画面に視線を向けると、美しい青年が爽やかに笑って、よろしくお願いします、と会釈する。


「僕がここでひとり、快適に暮らしているのは彼のお陰です」

「つまりサポートAIか?」

「人工知能です」

「同じだろ」

「AIという言葉は彼に相応しくない。僕の人工知能は与えられたデータを飲み込んでかき混ぜて吐き出すだけものじゃない。人間の思考と感情を再現した、知能です。彼には彼の感情があり、倫理観があり、自らの知識と経験に基づいて取捨選択をします。生物に最も近いプログラムです。僕が思うに、感情なき知能は知性ではありません」


 ムキになったようなナルアキの様子に、大葉は少し驚いた。今まで無気力でぼそぼそと話す様子しか見たことがなかったからだ。だがやはり彼は職を辞した今も技術者なのだとわかる。


「人工知能、な」

「そうです」


 大葉はソファに腰を下ろした。綿がヘタって柔らかくなったクッションとくしゃくしゃのブランケットが置いてある。このソファは座るよりも仮眠に使われているようだ。


「あんたの解釈では、生きてるのか?」

「最も近い、です。当然ながら生物学的な命はありませんし、生物と全く同じ感情を有するとは言い難いでしょう。ですが仮に、魂というものが思考や感情に宿るとすれば、生きているに限りなく近いと言えると思っています。近いだけで、これはあくまで再現であり真似事ですけどね。感情そのものとは言えません」


 哲学的だ。だが不思議と納得できなくもない気がした。

 インターホンでずっと大葉に対応していたのはナルアキではなく天花で、恐らくナルアキの動画配信で実況を話していたのも天花だ。彼はナルアキの助手のようにここで同居し、暮らしを支えているのだろう。

 ナルアキはぱたんとラップトップを閉じて振り返り、大葉が持っているクリアファイルを引っ張った。それで何をしに来たのか思い出した大葉は、素直にファイルを手渡す。捜査資料だ。


「こういうのって未だに紙なんですね」

「データもあるけど、会議の時にとりあえず紙で配布されるからな。そのほうが読みやすいだろ」

「はぁ」


 読みやすい?とナルアキは首を傾げた。どちらが読みやすい、という感覚は薄いらしい。大葉にとっては圧倒的に紙の資料のほうが読みやすいのだが。デジタルはどうしても目が滑る。大葉より年上も多い捜査本部では尚更だろう。

 厚い前髪の隙間からちらりと見えたナルアキの目元は、濃いクマができていた。


「クマが酷いな」

「寝つきも寝起きも悪いんです」

「そりゃ最悪のパターンだな」


 つまり、眠れないままだったところに大葉から連絡がきたということか。少々悪いことをしたような気になる。

 ナルアキがクリアファイルから取り出した捜査資料の片隅を止めてあるホッチキスの針を爪でカリカリと外そうとするのを、横から手を出して外してやる。ナルアキの爪は深爪ギリギリまで短く切り揃えてあって、ホッチキスの針など外せそうもなかった。


「これって、どこか別の場所で殺して運んできたってことですか?」


 そう言いながら、ナルアキはぺらぺらと資料を捲る。遺体が投げ捨てられていた、という報告が淡々と書かれた文章を、無感情な目が追っていく。


「そうだろうな。遺体の写真あるから気をつけろよ」

「気をつける?」

「苦手なやつもいるだろ」

「あぁ。割と、そういうのは平気なほうです」


 捲ったページには、カラーで遺体写真が印刷されている。ナルアキはそれを平然と眺めた。頭が割られた男性の凄惨な遺体だ。次のページには、女性の刺殺体。更に老人の遺体も載っている。腐敗が進んでいるものが多く、見るに堪えない。若い刑事たちは目を背けることもあった。


「どうしてですか?」

「あ?なにが?」

「どうして、わざわざ運んでくるんです?ここで殺せばいい」

「……ここでって、あんた知らない相手に廃墟に呼び出されて素直に行くのか?」

「行きませんけど」

「そうだろ?」

「知り合いなら、行くという人もいるかもしれない」

「廃墟だぞ。基本的に立ち入り禁止の場所だ。それに、犯人と被害者が知り合いとは思えない」

「どうしてそう思うんです?」

「被害者同士に繋がりがなさすぎる。年齢性別出身地、全部がバラバラ。十代のガキから高齢者までいて、使ってる電車の路線まで違う。これはどう見ても無差別だ。通り魔的犯行の可能性もある」

「被害者に繋がりがなければ、犯人とも知り合いではないと?」

「そういう場合が多いだろ。犯人と被害者が知り合いの場合、被害者同士にも何らかの繋がりがあるのが自然だ。友達の友達は知り合い程度に知ってるもんだろ」

「僕は友達がいないのでよくわかりませんが」

「……まぁ、そうだろうな」


 あまりに予想通りの返答に大葉が呆れると同時に、ナルアキは資料に目を戻した。警察が使うプロファイリングAIの予測結果が載っている。成人男性、東京近郊に住み、顔が広く、好感を持たれやすい。今の情報だけではほとんど役立ちそうもない。


「あなたがた警察は、僕らに探偵の真似事をさせようという解釈で、合っていますか?」


 僕ら、とは外部協力者のことだろう。


「違う」

「違いますか」

「探偵の真似事ってことじゃない。気づいたことがあれば教えてほしい、できる手を持ってるなら貸してほしい、そういうことだ。前線に立って犯人捕まえたり、名指ししたり、そんなことはしなくていい」

「誤差ですね」

「そうでもない。協力者はあくまで協力者だ。義務も責任も負う必要はない。もしあんたが間違った想像をしても、その責任はあんたにはない」


 そうですか、と呟きつつ、ナルアキはテーブルの上に資料を散らかすように広げながら読み込んでいく。読み終えたものを重ねるのではなく、テーブルの上の空いたスペースに広げる。大葉なら絶対にやらない読み方なので、なんとなく見ていて気が散る。


「廃墟、空き家の巡回を増やすとありますけど」

「無理だな。絵空事みたいなもんだ。対策として提示されてるが、そんなん追いつかねぇよ。次にいつどこに遺体が放置されるかの見当もついてねぇのに」

「今の東京に、どのぐらい該当物件があるんでしょう?」

「正確にはわからねぇけど、万は超えてるだろ」

「そんなにありますか」

「使用も解体もされずに放置されている建造物、という意味では数万棟だろうな」

「それは、どうあがいても巡回の強化程度ではカバーできませんね」


 ふー、と大葉はため息を吐いた。警察官の数が今ほど減る前でもカバーしきれない数だ。せめて、犯行範囲が絞れなければ話にならない。


「防犯カメラは?」

「あるわけねぇだろ。空き家だぞ。電気も通ってねぇのに」

「いえ、現場のではなく、周辺の。道路のカメラとか、近くの店舗に設置されたものがないんですか?」

「ある。それは今提出求めて、解析中だ。だけどな、誰を探すかも特定できてねぇんだから、望み薄だな。現場と次の候補地には警察がカメラを持ち込んでるが、それもアテになるかどうか」


 ナルアキは散らかした捜査資料を集め、とんとんとテーブルに打ち付けてその端を揃えた。


「これ、データも貰っていいですか?」

「あぁ、あとで送る」

「お願いします。天花、受け取ったら読んでおいて」


 テレビ画面に映った天花は、ナルアキの指示に頷いて画面を消し、その姿を眩ませる。警察外部のAI、ならぬ人工知能に勝手に捜査資料を読ませるなんて、バレたら厄介だ。彼らを信用するなら、バレないと踏むしかない。

 ナルアキはひょいと腰を上げて、床からソファに座りなおした。横に並んで座るのは初めてだ。ナルアキはソファの上に足を上げ、両膝を抱えて縮こまる。揃えた膝に顎を乗せ、ぽそぽそと話し始めた。ただでさえ小さい身体がますます小さく見えた。


「何と言いますか」

「あぁ」

「これは、僕の専門ではないですし、きっともう考えている人がいると思うんですけど」

「言ってみろ」

「いらないから捨てたって感じがします」

「……そうだな」

「捨てる場所はどこでもよくて、本当は山や海がいいのかもしれませんけど、それだと……、遠いんでしょうか?犯人にとっては不都合があるんでしょうか?手間がかかるから?わかりませんけど、とにかく捨て場所として適当に廃墟を選んだ、というだけに見えます」

「遺体を置いとくわけにもいかねぇし、処分もできねぇから、とりあえず手放すってことだな」

「だとすると、殺すこと自体が目的でしょうか?確かに、殺害方法や被害者のバラつきを見ると、実験的ですね」

「実験的?」

「例えば、人間は頭を割れば死ぬのかとか、どの程度痛めつければいいのかとか、年齢や性別による耐久度に差はあるのかとか」

「ぞっとしねぇな」

「でも、ゲームならよくやります。新しいモーションやスキルが追加されたと聞いたら、とりあえず試してみたいものです」

「ゲームで例えんなよ」

「いえ、同じですよ。ゲームというものは人間の心理や本能、学習を突き詰めて作られています。遊びとはそういうものです」

「犯人は遊んでるって?」

「あるいは、学んでいる」


 ナルアキは大葉を見上げた。顔色を確認したように見えた。大葉が眉を顰めているのを見て、どこか安心したように目尻を下げる。


「この事件、最も恐れるべきことは模倣犯です」


 大葉ははっとした。殺害方法のバラバラな遺体がランダムな廃墟に放置されている。今わかっていることはそれだけの実にシンプルなもので、確たる物証も何も出ていない。全ての廃墟を探索できているわけではないから、全体数すら不明だ。こんな状況で模倣犯が出れば、本物と区別がつかなくなる可能性が高い。シンプルなものは紛れやすい。それは殺人に留まらず、例えば家族が自然死して処理に困った遺体が紛れ込む可能性もある。


「今なら、廃墟に放っておけば他人に罪を擦り付けられるかもしれない、なんて考える人もいるかもしれませんね」

「一旦報道規制を掛け合う」

「それがいいでしょう」


 大葉は額を抑えて、深くため息を吐いた。時代が進めば人心は劣化する。罪悪感は宗教観の減少に比例して摩耗する。今のご時世、ナルアキの懸念は決して絵空事の懸念ではないだろう。


「ここ、行ってもいいですか?」

「遺棄現場にか?」

「駄目ですか?」

「いや、現場検証に立ち会う先生もいる」

「では、連れて行ってください。とりあえず、一件目から」

「どれが一件目かっていうのは、微妙だけどな」


 発見順、ということなら一番最初は食品会社の倉庫の跡地で、中高生が発見した遺体だ。


「今から行くか」


 まだ時間も早い。外は充分に明るく、現場検証には最適だ。


「……夜にしません?」

「こんな暗いところに真っ暗になってから行ってどうすんだ。何も見えねぇだろ」


 ナルアキは不満そうに唇を尖らせた。吸血鬼のような生活をしていると、昼間の外出は億劫になるらしかった。

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